日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

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<日米交流史サイト>

日本は江戸時代の大部分を鎖国し、オランダと支那以外の外国に門戸を閉ざしたが、1854年にペリー提督と結んだ「日米和親条約」により下田と箱館が開港された事は良く知られている。一方ペリーを派遣したアメリカも、1776年に独立が宣言されるまでは、国そのものが存在していない。したがって日米交流は、可能性をも含めたその全期間は高々235年の歴史でしかない。しかしこの高々235年が、人類発展のあらゆる要素に於いて目めぐるしい変化を遂げた期間であることも事実だ。また、近代の日米関係が世界史に与えた影響も非常に大きい。

このサイトに記述する内容はそんな日米交流につき、日本史の流れを中心に、筆者が疑問を持ち、また意外と光が当たっていない、あるいは専門家以外には良く知られていない部分についても出来るだけ掘り起こし、自ら学んで見たいという趣旨のものである。少しでも史実を掘り起こす事ができ、読者と共有できれば、筆者の幸いである。従って歴史教科書のように史実を普遍的に記載したものではなく、筆者の主観に基づく記述であることを明記します。記述内容や史実認識に誤謬がある個所は、遠慮なくご指摘ください。

典拠・出典:原則として記載しないが、筆者が興味を持つ場合()内に簡単に記述する。また特に近年インターネットの発展により、東京大学史料編纂所データベースへのアクセスが充実し、時にお世話になることに謝意を表します。

筆者:中野昌彦、日米間のビジネスに関わり、日米交流の歴史に興味を抱く。『ペリーを訪ねて』東京図書出版会(ISBN4-86223-017-2、2006年)出版。知り得た史実を訪ね、現地散策を趣味とするが、そんな時に撮った写真も掲載します。

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1、日米国交樹立以前

海洋国家の道を捨てた日本

徳川幕府が鎖国する以前は、日本も海洋民族的特性を持っていた。1593(文禄2)年、呂宋(納屋)助左衛門がルソン島(現フィリピン)に渡り、ルソン貿易で財を築いた話は知られている。豊臣秀吉の頃の話だ。その後政権をとった徳川家康も海外貿易を奨励し、多くの日本商人がルソン島のマニラ、安南のトンキン(現ベトナム、ハノイ)やフェイホ(現ベトナム、ホイアン)、カンボジヤのプノンペンやピネアール、シャム(現タイ)等へ積極的に出かけ、現地にいくつかの日本人町さえ出来た。シャムで武勇をはせた山田長政の名は良く知られている。

1609(慶長14)年、ルソン島の前総督、ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコがサン・フランシスコ号で新スペイン(現メキシコ)に向けて航海中、暴風に遭い日本の房総の御宿海岸(岩和田村)に漂着した。 徳川家康に助けられたロドリゴは、9年前に同じく九州に漂着し家康に仕えた三浦按針(ウイリアム・アダムス)が家康のために新造した船、サン・ブエナ・ベンチュラ号(按針丸)で新スペインに着いた。また1613(慶長18)年伊達政宗の命を受けた支倉常長が、フランシスコ修道会宣教師ルイス・ソテロと共に、日本で造った船サン・ファン・バウティスタ号(伊達丸)に乗り、2年前に来日していた新スペインの使節セバスチャン・ビスカイノを伴って太平洋を渡り、新スペイン経由スペインとローマに向った。スペイン国王に会い通商の許可を得る目的だった。この「慶長遣欧使節団」一行の一部は常長と共に新スペインからヨーロッパに渡り、スペイン国王フェリペ三世に会い、ローマ法王パウロ五世にも会った。しかし日本もキリスト教徒を弾圧し始めたから、それを知ったスペイン国王からは通商の許可が得られず、1620(元和6)年失意の帰国をした事は良く知られている。

このように、当時の日本人は200トン−300トンもある外洋航海の出来る船を造り、積極的に海外貿易に乗り出した。鎖国されるまでの約50年間に、朱印船と呼ばれ正規の貿易許可を取り渡航した日本船は合計三百数十雙にものぼった。こんな船の中には日本風の座敷が三間もあったり、十六畳の大広間や風呂を据え付けたものまであったという。日本の優秀な造船技術とそのコストの安さから、スペインなどからの買い手もついたほどだった。しかしキリスト教徒の影響増大を恐れる幕府は、1635(寛永12)年全ての日本人や日本船の海外渡航を禁じ、強いて帰国するものは死刑に処し始めた。また大名の貿易用大船保有も禁止され、支那との貿易は長崎だけに限った。 幕府は島原の乱の鎮圧に引き続き1639(寛永16)年にポルトガル船来航禁止令を出したが、翌1640(寛永17)年、前年の来航禁止令を打開しようとポルトガルから再度の貿易を願いに来た使節団を捕えて処刑し、翌1641(寛永18)年オランダ商館を平戸から長崎の出島に移し完全な鎖国体制に移行した。しかし、この鎖国により日本は海洋民族的特性を失い、海洋国家として繁栄する道を捨てたのだ。

日本に来た最初のアメリカ商船とそれに続く交易船

♦ ボストンからの商船


レディー・ワシントン号、二代目復元船・178トン
(日本に来た初代は同じブリグながら、90トン)
Image credit: © John Kohnen, 2001
http://www.boat-links.com/PT/PT2001/

アメリカのバージニア州やマサチューセッツ州など大西洋沿岸を中心にイギリスからの新教徒移民が根付くに連れて、ヨーロッパ北部からの移民も増え、1750年代には独特の地域と文化ができつつあった。粘り強く疲れを知らず、プロテスタント的精神を持ち、友情や忠誠心はあるが個人主義者でもある、いわゆる「ヤンキー気質」の出来上がりだった。宗教的倫理観や道徳を規範とするが個人主義者で、政府などによる拘束を好まない。こんな独自性の強い特性を持つアメリカ商人達は、イギリスやヨーロッパ、更にはアジアまでと活発に船で交易をし、独立戦争後もその行動範囲は更に拡大した。 

1790(寛政2)年に、早くもこんな一艘のアメリカ船が紀伊に現れたらしいが、記録がはっきりしていないと云う。最初のはっきりした記録は、翌1791年、レディー・ワシントン号(船長、ジョーン・ケンドリック)とグレース号が紀伊大島(和歌山県)の樫野浦(かしのうら)に来た。この2艘はボストンとニューヨークの商船で暴風を避けて紀伊大島に来たと云われているが、夫々90トンと85トンの小さい帆船だ。この商船は、当時北アメリカのイギリス領(現カナダ)西海岸で獲れたビーバーやラッコなどの毛皮を手に入れ、支那の広東に持ち込む貿易を始めた。キャプテン・クックにより1778年に発見されたハワイを中心に貿易航海をしたが、ハワイ産の白檀なども広東に持って行った。支那から帰りの積荷は、西海岸の土地のインディアンと毛皮と交換する銅、鉄などの素材だった。必要に応じ鍋やモリの刃先や釘などを造り、毛皮交換に使ったのだ。これはボストンの商人組合が数年前から始めた新しい交易方法だったが、当時、カリフォルニアはまだメキシコ領で入植もまれだったから、サンフランシスコなどまだ歴史に登場しない頃の話だ。そしてハワイでも、アメリカ捕鯨船の寄港が始まる約30年も前の話だ。

北アメリカのイギリス領では、東海岸で「ハドソンズ・ベイ・カンパニー」が長く毛皮交易を一手に行い、その後「ノースウエスト・ファー・カンパニー」も組織され西へと交易地点を広げた。後にこの二社は合併するが、内陸に交易所を多数造り、白人や土地のインディアン猟師などが持ち込む毛皮とイギリス製工業製品や食料とを交換した。紀伊大島に来た2艘のアメリカ船は、西海岸のバンクーバー島辺りで、こんなイギリス系毛皮交易商と同様に現地のインディアンと取引したのだろう。


串本駅前のレディー・ワシントン号記念碑
Image credit: © 筆者撮影

レディー・ワシントン号とグレース号が避難した紀伊大島は紀伊半島最南端にあり、島の南側の雷公神社(鳴神明神社)の前の浜近くに来て船係りしたといわれている。今も大島の北側の樫野崎近くに小さい港もあるが、こんな小さい商船なら島の何処にでも充分な避難場所を確保できただろう。大島の村役人から寛政3(1791)年4月4日、「樫浦沖に異国船渡来」の急報を受けた紀州藩は早速翌日目付や奉行、鉄砲役や手勢を大島に派遣したが、二週間ほど潮待ちの滞在をし出航した後だった。大島の現地には、

本船はアメリカの商船で、積荷は銅・鉄や火砲、乗組員は100人、偶然にも風浪に遭い流されて貴地に来た。風向きが良くないためここに滞在するが、風向きが好転次第退去する。船主名・堅徳力記(筆者注:ケンドリック)。

と書かれた漢文書類が残されていたという(「南紀徳川史」)。おそらく乗組員の中に支那人も居て、この書付けを村役人に渡したのだろう。村人が小船に乗って見物に行けば、船中に招き入れ酒肴も饗じたとも伝わっているという。

日本は当時鎖国をしていたからもちろん商売は出来なかったが、レディー・ワシントン号のジョーン・ケンドリック船長は、今日の日本とアメリカの記録にはっきり残る、日本に足を踏み入れた最初の先進的なヤンキー商人だった。 

♦ オランダにチャーターされたアメリカ船入港

次の記録に残る日本に来たアメリカ船は、正式な交易目的で長崎に入港した船だ。もちろん当時、鎖国中の幕府が許可した交易国はオランダと支那だけだから、オランダ政府にチャーターされて長崎に来たのだ。したがって外洋航海中はアメリカ国旗を掲げていても、長崎入港時ははっきりとオランダ国旗を掲げ、オランダ船の入港手続きを踏んで入港した。

この背景には、ヨーロッパにおけるフランスとイギリスとの敵対関係がある。フランス革命に続いてヨーロッパでは、1792年4月20日、フランスとハプスブルク家連合との戦争が勃発した。かって16世紀の半ばまでオランダはこのハプスブルク家連合に属していたし、それ以降共和国になっていたが、1795年ナポレオンが指揮するフランス革命軍に占領された。これに敵対しているイギリスがフランス及びフランス領を海上封鎖したから、フランス陣営に下ったオランダはバタビア(現インドネシアの首都ジャカルタ、当時の日本名ジャガタラ)から簡単には船が出せない。オランダ本国にしても、それまでの数々の戦争で国力は極端に疲弊していたから、日本へ貿易船を出す余裕など更になかった。したがってバタビアから長崎に交易船を送れないオランダ(当時、バタビヤ共和国)政府のバタビア総督は、主として中立国のアメリカ船をチャーターし、定期交易船として長崎に送ったのだ。こんな形で最初に入港したチャーター船は、1797年のイライザ号で500トンの帆船だ。その後1809年までに八艘のアメリカ船が正式なチャーター船として九回長崎に来た。 いくら船籍はアメリカであっても、オランダがチャーターしている事実がイギリス軍艦に知れれば、大きなリスクがあっただろう事は想像に難くない。またオランダは、こんなアメリカ船の他に、ブレーメン船やデンマーク船も雇い長崎に送っている。

中には1800年のエンペラー・オブ・ジャパン号のようにバタビアの正式許可なく交易船として長崎に入港し、オランダに没収された船もある。1803年に来たナガサキマル号は、堂々とアメリカの国旗を掲げて入港し通商を求めたが、長崎奉行に断られた。また1807年に来たボストンのエクリプス号は、ロシアとアメリカの合弁会社にチャーターされカムチャッカに向う途中、ロシアの国旗を掲げて長崎に入港した。オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフに日本はロシアを非常に警戒していると指摘され、早々にロシア国旗を引き降ろす一幕もあった。これら三艘は何れもバタビアの正式なチャーター船ではなかったが、商機があれば果敢に挑戦するヤンキー気質の典型だった。

 

鎖国中に長崎入港のアメリカ船(1797−1809)

1797(寛政9)年:イライザ号(500トン、船長:スチュアート)
1798(寛政10)年:イライザ号(500トン、船長:スチュアート)
1799(寛政11)年:フランクリン号(200トン、船長:デヴェロー)
1800(寛政12)年:マサチューセッツ号(900トン、船長:ハッチングス)
          (エンペラー・オブ・ジャパン号:長崎に入港したがバタビアの正式許可を受けていな いことが発覚し、オランダに没収された)
1801(享和1)年:マーガレット号(船長:ダービー)
1802(享和2)年:サミュエル・スミス号(船長:スタイルス)、
  (筆者注:1802年にはVOCのオランダ船、マチルダ・マリア号も長崎入港)
1803(享和3)年:レベッカ号(船長:ディール)
          (ナガサキマル号:アメリカ商船として通商を求め、長崎奉行に拒否された)、
  (筆者注:1804年は2艘のオランダ国籍傭船、マリア・スザンナ号とヘジナ・アントアネッタ号、1805年はオランダ国籍傭船、レゾリュシー号が入港した)
1806(文化3)年:アメリカ号(船長:リーラー)
1807(文化4)年:マウント・バーノン号(船長:デイヴィッドソン)
          (エクリプス号:ロシアとアメリカの合弁会社にチャーターされカムチャッカに向う途中、ロシアの国旗を掲げて長崎に入港した)
  (筆者注:1808年は入船がなかったが、イギリス軍艦がオランダ国旗を掲げて長崎に入港するという「フェートン号事件」が起こった)
1809(文化6)年:レベッカ号(新出島商館長・クロイトホフが乗船していたため、長崎入港前にイギリス海軍に拿捕され、広東に送られた)
  (筆者注:1809年はオランダ植民地船、フーデ・トラウ号のみが無事に長崎に入港した)。

筆者注:この年以降はイギリス海軍の制海権が更に強力になり、オランダの国力も極端に疲弊し、チャーターした交易船すら派遣できず、出島のオランダ人の食料さえも欠乏して行った。1811年9月ついにバタビヤを制圧したイギリスが、1813年に旧オランダ出島商館長や関係者を乗せた2隻のイギリス商船を長崎に送り、オランダ船の入港手続き通り入港し、合法的な命令書を提示し、オランダの出島商館の権益を取り上げようとする事件が起った。当時の出島商館長・ヘンドリック・ドゥーフは、「敵国管理下の命令書だ」とこの受け取りを拒否し、出島にオランダの国旗を掲げ続けた。当時この出島と2、3の例外を除き、世界中でオランダ国旗が降ろされてしまったのだ。その後、1815年6月9日のウィーン議定書締結によりネーデルラント連合王国が再び主権を回復し、1817(文化14)年8月からオランダ船の長崎貿易が再開された。

筆者注:アメリカ傭船については、主として「Herinneringen uit Japan van Hendrik Doeff」の英訳版「Recollections of Japan, Translation and Annotation by Annick M. Doeff, 2003」を参照した)


日本船の難破、漂流と救助

好むと好まざるとにかかわらず、人知を超えた数奇な運命が個人を巻き込む事件は時にある。海に出て暴風に会い、遭難漂流するのはその一つだ。地球総面積、5億1007万平方kmの内、3億6113万平方kmが海だから、地球表面の約71%が海だ。日本から渡海なしに外国に行く事は不可能だ。「逆もまた真なり」だが、この地政学的特質が、時に日本の歴史を決定ずけてきた。これが長期にわたる鎖国を成功させた一要因でもある。

江戸期には、幕府公認の菱垣廻船や樽廻船、北国廻船などに使われた比較的大型の廻船でも時として暴風に遭い遭難した。特に秋から冬にかけて、台風や季節風の強くなる頃に難破船が多かったようだ。近年の天気予報は台風の進路をよく予測できる。南方から日本に接近し、日本列島を島なりに沿って北東に進むものが多い。これは日本列島上空を吹く偏西風、ジェット気流の影響を受けるものだろう。また黒潮も九州、四国、東海地方の沖を東に還流する。いったん舵や帆柱を損傷され流されれば、西からの季節風や黒潮に運ばれて太平洋を当てもなく漂う。 幸いにカムチャッカ半島やアリューシャン列島近辺に流れ着けば、ロシア人達に助けられる可能性があった。1783年1月(天明2年12月)、船頭・大黒屋幸太夫ら17人乗組みの神昌丸が駿河沖で遭難し、同年7月頃アリューシャン列島アムチトカ島に流れ着き、ロシア人に救助され、エカテリーナ二世に謁見し、9年後の1792(寛政4)年10月、やっと根室に帰国した出来事は良く知られている。当時日本と貿易関係を築きたいロシアが、エカテリーナ二世の使節としてラクスマンを日本に派遣し、その交渉の糸口を開くため幸太夫らを送ってきたのだ。


音(乙)吉、岩吉、久吉の記念碑
愛知県、美浜町、小野浦

Image credit: © 筆者撮影

一方、十九世紀の前半からアメリカ商人の太平洋を渡るアジア進出が活発になり、太平洋の捕鯨も盛んになった。日米国交樹立以前に、こんな日本人遭難者のなかの幸運な人たちが、広い太平洋上でもアメリカ船に救助されたり、アメリカに漂着したりしている。地獄に仏とはまさにこのことであろう。こんな幸運な人たちは、いってみれば非公式の親善使節のようなものだが、もちろん自分達の意思で渡航したのではない。しかしその内の何人かは、図らずも日米交流史に明確な足跡を残している。

中でも、現在のアメリカのワシントン州フラッタリー岬に漂着し、マカー・インディアンの奴隷にされ、ハドソンズ・ベイ・カンパニー西海岸交易所のマクローリン博士に救助され、ロンドン経由マカオに着き、アメリカのモリソン号で浦賀に送られて来たが大砲を打ちかけられ、帰国が叶わなかった音(乙)吉、岩吉、久吉。捕鯨船のホイットフィールド船長に助けられ、アメリカで教育を受け自分の意思で帰国し、咸臨丸の通訳として渡米したジョン・万次郎。 オークランド号に救助されアメリカで教育を受け、アメリカに帰化し、アメリカの神奈川領事館通訳になり、横浜で初めての日本語新聞を発行したジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)。このような人達は日本開国の歴史に明確にかかわり、その事跡がよく知られている。

 

アメリカ船に救助されたりアメリカに漂着した日本人(1805−1854)

1806年2月:漂流。稲若丸の8人、1806年5月8日、アメリカ船テイバー号(船長、コーネリウス・ソール)に救助され、6月ハワイに上陸。アメリカ商船のアマサ・デラノ船長に乗せてもらい11月マカオ到着。支那の船でバタビア着。1807年アメリカ船マウント・バーノン号(オランダのチャーター船)で2人長崎帰着。善松1人が故郷に帰れた。

1813年:漂流。督乗丸、尾張の船、船頭重吉他2人、1815年3月24日イギリス商船フォーレスター号(船長、ウイリアム・ピゴット)に救助される。バハ・カリフォル ニア、アラスカ、カムチャッカ経由、日本に帰った。

1832年12月:越後の船の4人、ハワイに漂着。カムチャッカ、オホーツク、択捉経由日本に帰着。

1832年10月:漂流。宝順丸の3人、岩吉、久吉、音吉、ワシントン州フラッタリー 岬に漂着(1833年12月)。マカー・インディアンの奴隷にされたがハドソンズ・ベイ・カンパニーに救助され、ロンドン経由、マカオ着。1837年モリソン号で日本に来たが大砲を打ちかけられ追 い返さ れた。

1835年12月:漂流。肥後の船、船長庄蔵。フィリピンに流れ着きマニラ経由、マカオ着。1837年モリソン号で日本に来たが大砲を打ちかけられ追い返された。

1839年1月:漂流。富山の北前船・長者丸の治郎吉船長と仲間7人、アメリカ捕鯨船ジェームス・ローパー号(船長、オービッド・キャスカート)に救助されハワイに滞在。8月ハワイ出発、カムチャッカ、オホーツク、アラスカ経由、1843年5月択捉到着。日本帰着。

1840年6月:アメリカ船アージャイル号(船長、F・ゴッドマン)、3人の日本人漂流者を救助。支那に送られたがその後消息不明。

1841年1月:漂流。アメリカ捕鯨船ジョーン・ホーランド号(船長、ホイットフィールド)が1841年6月27日、土佐の漁船の5人を鳥島で救助。ホイットフィールド船長、万次郎をフェアヘーブンで教育。万次郎は日本に帰り、徳川の士分に取り立てられる。1860年、咸臨丸の通詞としてサンフランシスコに航海。

1841年11月:漂流。兵庫の永住丸の13人がスペイン船エンサヨ号に救助される。バハ・カリフォルニアのサン・ルーカス岬に到着後サン・ホゼに滞在。船頭善助と初太郎はアメリカ船アビゲイル・スミス号 (船長、ドエイン)でマザトランからマカオに送られる。1844年1月22日長崎に帰る。アメリカ船セントルイス号でマザトランから多吉、弥一郎、伊之助の3 人が、スペイン船で他の1人が支那に送られる。1855年に長崎に帰る。

1842年:漂流。フランシス号(船長、ハッセイ)が聖徳丸の弥佐平、惣七の2人を救助。ホノルルに上陸。ハウエル号(船長、イングル)でマカオに上陸。永寿丸の初太郎とサミュエル・ウエルス・ウイリアムスの家で出遭う。弥佐平は永寿丸初太郎と長崎に帰る。

1845年2月:漂流。幸宝丸の11人鳥島に漂着。アメリカ捕鯨船マンハッタン号 (船長、マーケター・クーパー)に救出される。途中、仙寿丸の漂流者11人が2月9日救助される。マンハッタン号は浦賀で漂流者を引き渡した。

1847年5月:アメリカ捕鯨船フランシス・ヘンリエッタ号(船長、プール)4人の漂流者を救助。1ヵ月後、海上で日本の漁船に引き渡した。

1848年:船長、コックスが15人の漂流者を救助し、ハワイのラハイナ島に上陸させ た。

1849年1月:漂流。米国捕鯨船、漂民四人を救助し、内二人を朝鮮釜山浦に護送した。対馬府中藩主宗対馬守がこれを幕府に報じ、二人を長崎に送らせた。

1850年2月:漂流。4月22日、捕鯨船ヘンリー・ニーランド号(船長、G・H・クラーク)紀伊国日高浦の天寿丸の13人の漂流者を救助。カムチャッカで2人がヘンリー・ニーランド号に残り、2人がアメリカ捕鯨船ニムロッド号に、2人がアメリカ捕鯨船マレンゴ号に移った。3艘のアメリカ船はホノルルまで漂流者を運んだ。漂流者はホノルルから香港、上海経由、1851年9月長崎に帰った。カムチャッカに残った7人の漂流者は、1852年6月10日ロシア船メンチコフ号でシトカを出て、8月9日(嘉永5年6月24日)下田に来たが役人から受け入れられず、リンデンバーグ船長は5日後その近くに漂流者を上陸させ支那に向った。

1850年12月:漂流。アメリカ商船オークランド号が1851年1月22日、栄力丸の17人を救助し、サンフランシスコに入港。日本開国に利用しようと、オーリック提督の命令で支那に移送。 仙太郎はペリー艦隊で横浜に来たが下船せず。後に宣教師ゴーブルと帰国。伝吉はイギリス使節と帰国。彦蔵(ジョセフ・ヒコ)はアメリカ市民になり領事館通詞と して帰国。

1852年4月:アメリカ捕鯨船アイザック・ホウランド号(船長、ウエスト)、太平洋上で三河の国・渥美郡江比間村の与市所有の永久丸で漂流する4人の日本人を救助。ホノルルに上陸。4人のうち岩吉と善吉は釜山・対馬・長崎経由で帰国。他の2人、作蔵と勇次郎はそのまま捕鯨を続け、アイザック・ホウランド号の母港・アメリカのニューベッドフォード及び香港経由、フランス捕鯨船・ナポレオンデルデ号(船長、ローベス)で安政1(1855)年12月12日に下田に帰国。

1852年10月:越後の船・八幡丸松前沖で難破し9ヶ月漂流。1853年アメリカ商船、日本人漂流者・重太郎を救助。1854年サンフランシスコに上陸。彦蔵(ジョセフ・ヒコ)が重太郎の通訳をする。その後消息不明。(筆者注:この重太郎は次項のバロースが連れてきた勇之助の可能性がある。ジョセフ・ヒコの記述参照により筆者判断で積荷監督・勇之助として取り扱った)。

1854年7月:アメリカ商船レディー・ピアース号(所有主、バロース)サンフランシスコに上陸していた3人のうち1人の日本人、越後国岩船郡枝久村(板貝村とも)水主・勇之助(バロースは Dee-yee-noos-kee と呼ぶ。ジョセフ・ヒコによれば積荷監督人)を下田まで連れてきた。


アメリカ捕鯨船の遭難と船員の救助

日本でも一方、外国人の遭難者が救助され、長崎で取調べを受け、オランダ商館を通し夫々の国に送還されたケースがある。これはしかし、日本人の遭難に比べればその頻度ははるかに少なかった。

1770年代にはアメリカ人も大西洋でマッコウ捕鯨をやっていたが、20年もたつと工業用の潤滑油やろうそく原料の需要が大幅に増え、ニュー・ベッドフォードやナンタケットを基地にした大量の捕鯨船が南太平洋に進出した。すぐ北太平洋にも進出し、数こそ多くはなかったが、中には夫婦で船に乗り込む捕鯨船長もあり、1854年5月にはそんな一隻、イライザ・F・メイソン号が箱館に来ている。それほど捕鯨に従事するアメリカ船は多く、不幸にも難破する船もあった。

1845(弘化2)年から1850(嘉永3)年までオランダ商館長の職にあったJ. H. レフィスゾーンは、その5年間に55人の外国人遭難者を長崎奉行から受け取り、夫々の国に送還した。レフィスゾーンは長崎奉行の遭難者取調べにあたり、英語やフランス語とオランダ語の通訳をして日本側を助け、引き渡された遭難者を入港したオランダ交易船に乗せバタビヤに送った。このうち確認できる4回のケースが23人のアメリカ船の船員の帰国である。55人のうち他の27人はイギリス人との記述がある。

 

日本で救助され帰国したアメリカ人(1846−1849)

1846年6月4日(弘化3年5月11日)、ニューヨークの捕鯨船ローレンス号が千島列島で難破し、23人中の7人が択捉島ルベツに避難できた。日本側の記録では、択捉の侍番所に保護された7人はそのまま越冬のため同所に滞在し、翌年5月31日長崎に向けて出発し、8月19日に到着した。取調べが終わり、江戸からの指示を待っているあいだに1人が死亡したが、残りの6人は全ての持ち物を返却され、奉行から米を貰い、10月27日オランダ船でバタビアに送られた。

1848年6月7日(嘉永1年5月7日)、アメリカの捕鯨船ラゴダ号で船員が虐待問題で反乱を起し、15人が3艘のボートで逃走し、松前近くの蝦夷地(現在、北海道檜山郡上ノ国町字石崎あたり)に上陸した。日本側の記録によれば、6月7日いったんは薪や食料を与えて立ち去らせたが、再度その近くの江良(現在、松前郡松前町字江良あたり)に上陸したため保護し江戸の指示を求めた。保護のあいだに3人が2回にわたって逃出し、捕らえられては牢に入れられた。長崎へ移送せよとの江戸からの指示の下、15人は長崎に送られたが、逃出して捕獲された3人は拘束状態のまま移送された。取り調べの後オランダ船を待っているあいだにも3人が2回逃走し、再度捕獲され牢に入れられ、残りの船員も監視が強化された。2人が死亡し13人になった。1849年4月26日、アメリカ軍艦プレブル号が遭難者の救出に長崎港に入り、別に保護されていたラナルド・マクドナルドと共に帰国した。

1848年6月27日(嘉永1年5月27日)、アメリカ捕鯨船プリモス号に乗っていたラナルド・マクドナルドは、自身の冒険記によれば、船が蝦夷地(北海道)の西岸に近づくと、かねてから船長との約束どおり単独でボートに乗り捕鯨船を離れた。そして7月2日(6月2日)利尻島に遭難を装って上陸した。保護されたラナルドは、宗谷を経由して長崎に送られ、10月11日長崎に着いた。長崎奉行の調べが終わると、長崎の通詞たちがラナルドを訪ね、ラナルドは彼等に英語を教えた。1849年4月26日、アメリカ軍艦プレブル号が遭難者の救出に長崎港に入り、捕鯨船ラゴダ号の船員と共に帰国した。

1849年7月20日(嘉永2年6月1日、松前藩の推定日)、ニュー・ベッドフォードの捕鯨船トライデント号の3人が樺太の近くの島に置き去りにされた。日本人に保護された3人は松前から長崎に送られ、8月9日に到着した。日本側には、「島に置き去りにされた」という理由はスパイの公算が強いとの文書のやり取りが記録されている。レフィスゾーンの助けで取調べが済み、10月24日、オランダ船で帰国した。


日本に来たアメリカ情報

アメリカの独立以前、そしてその後ペリー艦隊が浦賀に来るまでに、アメリカの情報はどのくらい日本に来ていたかという設問は調べてみる価値がある。

「海洋国家の道を捨てた日本」の項でも書いたが、1613(慶長18)年、伊達政宗の命を受けた支倉常長が「慶長遣欧使節団」の責任者としてスペインに派遣された。一行は太平洋を渡り、メキシコに滞在した後ヨーロッパに渡った。当時、常長一行の上陸したアカプルコ辺りから北上してバハ・カリフォルニア半島をさかのぼった北部、すなわち現在のカリフォルニア州サンディエゴの地に新スペイン(現メキシコ)の兵士やフニぺロ・セラ神父がたどり着き、西海岸の領土拡大と布教活動の拠点を築いたのが1769年で、慶長遣欧使節団から156年も後のことである。1613年当時の北アメリカ西海岸の情報は、常長と一緒に日本からメキシコに帰ってきた使節・セバスチャン・ビスカイノ自身がその10年ほど前にこの西海岸を船で北上した探検情報が最新だった。一方この時点の東海岸では、一回目の失敗に続いて1607年、初めてのイギリス植民地がジェームスタウンに出来たばかりだから、北アメリカの内陸は漠とした不明の大陸だった。

江戸時代に長崎の商人であり学者でもあった西川如見(1648−1724)は天文学にも通じた、天文人文学者である。如見は1708(宝永5)年、オランダ情報を基に『増補華夷通商考』を出版した。この宝永6(1709)年版の巻三に一種の世界地図「地球万国一覧之図」が載っている。中に、日本から太平洋を隔てた東に「北亜墨利加ノ諸国」、「カリフルニヤ」、「モシコ(メキシコ)」、「ペルウ」、「ハラジイル(ブラジル)」、「南亜墨利加ノ諸国」などが記載されている。もちろん当時、アメリカ合衆国などは存在していないから、カリフルニヤやモシコ(メキシコ)などの地名がオランダ経由で伝わったのだ。

1660年デ・ウィット地図
Image credit: © Leen Helmink, Antique Maps
http://www.helmink.com/

新井白石(1657−1725)が1713(正徳3)年に著わした『采覧異言』にはより詳しく、「ノオルト・アメリカ、北亜墨利加」として各地域の記述がある。『采覧異言』はいわゆる正規刊行本ではないが、白石は幕府に献上されたオランダのウィレム・ヤンツーン・ブローの地図を参照した。「南はマルデルスル、海名、に至る。ソイデ(南)・アメリカを與う。彊(きょう)界相接す。北はグルンランド(グリーンランド)に聯(つらな)る。東はヲセヤヌス。デウカレドヲニウス、海名、に至る。西界は極る所、其を知らず」と書いて、(ブローの)図説によれば南北アメリカは完全に海に囲まれ、細い陸地でつながっている。 (ブローの)西図によれば地理学的形状は勢いよく変化に富む。この図では東部と南部が明確なだけである。北部はグリーンランドにつながるように描かれている。西部については、北緯28度以北、あるいは其未蝋(キビラ、Quivira)と呼ばれる地は、その極まる所は不明であると記述している。この北緯28度線はバハ・カリフォルニア半島の中間地点を通るが、新スペインでさえも領土拡張の意図を持って北緯32度43分にあるサンディエゴに進出したのがやっと1769年のことだ。この当時、北アメリカ大陸の中部から北部の西海岸は全く未知の大陸だった(右図:1660年デ・ウィット地図参照。現在のバハ・カリフォルニア半島までしか記載されていない。それも半島でなく、独立した島として描かれている)。

これに関し少し横道にそれるが、明治の初めになって、1700年代のそんな地図(地球儀)を見て来た日本人がいる。明治4(1871)年暮れに日本を出発し、1年9ヶ月かけてアメリカとヨーロッパを回ってきた米欧特命全権大使・岩倉具視はじめ木戸、大久保、伊藤、山口等の一行だ。その記録係を命じられ、「特命全権大使米欧回覧実記」をまとめた久米邦武(くにたけ)の実記の記述に次のように出てくる。カリフォルニアについて「仏国パリの書庫に、1700年代の地球儀あり。太平海あたりの州土は訛謬(かびゅう=過謬=過誤)甚だしく、この州をオーストラリア州を見る如く、北米の西において大なる一島に描きたり」。右に載せた1660年のデ・ウィット地図も全くそんな感じに見える。

1792(寛政4)年、絵師で蘭学者の司馬江漢(1747−1818)が銅版画で與地全図を発行した。これを見ても、現在のメキシコ湾沿いのメキシコ沿岸、キューバ、テキサス州、アラバマ州、フロリダ州から東海岸のマサチユーセッツ州、メイン州、カナダのノバスコシアまで比較的詳細に記してあるが、西海岸北部はバハ・カリフォルニア半島から精々サンフランシスコの手前辺りまでだ。それ以北についてはやっと1774年、スペイン国王の命により本格的な西海岸北部の探検が行われ、バハ・カリフォルニア半島からフアン・ペレツが派遣された。当時ペレツはバンクーバー島辺りには来ている。 1778年にはイギリスのジェームス・クックも探検に来てバンクーバー島に上陸し、ブリティッシ・コロンビア沿岸をベーリンク海峡まで測量した。一方、1776年7月4日にはアメリカで独立が宣言され、やっとアメリカ合衆国が姿を現した。しかしこんな地理的・国政的情報は、司馬江漢の当時まだ日本には届いていなかった。

諸外国の活動が活発になり、日本との非公式な接触が増すにつれ、『オランダ風説書』が幕府の世界情勢把握の主たる情報源になった。1641(寛永18)年から幕府の要請で始まった風説書は、1842(天保13)年からの『別段風説書』も加えられ、鎖国が続行するに連れて世界情勢を知る重要な窓口だった。また支那からの『唐船風説書』も出された。このような情報入手のルートが確立していた事は、重要で有意義な手だてだった。しかし、すでに多くの歴史家が指摘している通り、問題はその情報を得た後に、時の幕閣たちがどう生かそうとしたのかが、その後の日本の運命を決めている。

アメリカの独立戦争と合衆国の建国については、1809(文化6)年、オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフにより伝えられたが、独立の33、4年も後のことだ。その後こんないくつかのオランダからの風説書や別段風説書には、アメリカ・メキシコ戦争、カリフォルニアのゴールドラッシュ、アメリカの日本との通商の期待、日本遠征の企画、ペリー遠征艦隊の香港への集結などを率直に伝えている。

またペリー艦隊が浦賀に姿を現す前に、琉球から小笠原諸島に航海し貯炭場を確保した後、再び那覇に集結し日本に向った。琉球から薩摩にこのペリー艦隊が最終的には日本に行くとの情報が入り、当時の藩主・島津斉彬は嘉永6(1853)年6月1日、アメリカ軍艦が4月19日以来琉球の那覇に集結している事態を幕府に報告している。この報告の2日後にペリー艦隊が浦賀に姿を現したのだ。 斉彬はこの琉球からのペリー艦隊日本遠征情報に接した時は江戸から帰国の途中だったが、江戸詰め家老に幕府への届けを命じると共に、ペリー艦隊がもし6月初旬に浦賀に来て内海に乗り込み武力行使になりそうな場合でも、薩摩藩から先に手出しはするなとも命じている。

アメリカ政府の日本開国へ向けた公式なアプローチ



ビドル艦隊浦賀沖停泊の図
Image credit: Courtesy of
Naval Historical Center, Washington, D.C.
http://www.history.navy.mil

アメリカ国内では、日本との非公式な接触を通し、正式な通商関係を持つべきだとの機運が貿易業界に高まり、アメリカ政府もその対策にのりだした。ペリー提督の日本遠征以前に、日本へ向けた公式な使節の派遣が複数回試みられた。 アメリカ政府は支那、コーチン・チャイナ(インドシナ南部地域)、シャム、マスカット(アラビア半島東端)などとの条約交渉を始めていたから、その一環として日本との通商条約締結交渉が計画され指令された。 しかし下の表中に説明の通り、使節の死亡や指令書交付の遅れなどのため、アメリカ政府の日本へ向けた初期の通商条約締結計画はその意に反し破綻した。

1846(弘化3)年、浦賀にやって来た東インド艦隊司令官ビドル提督も、その指令書の内容により、いわゆる「微笑外交」となり、鎖国中の幕府からは通商を拒否された。 この時、アメリカ政府の日本へ向けた使節派遣の動機は商業活動の拡大が唯一のものだったから、ビドルが大砲を満載した二艘の軍艦を引き連れては来たが武力を誇示さえもしなかった。後に問題となる人道的、国際公法的な視点はまだなかったわけだ。 次章に述べるペリー提督の派遣に当たってアメリカ政府は、商業活動の拡大を推し進め開国を迫るため、問題になり始めた人道的、国際公法的理由を前面に押し出したから、同じ黒船で来てもビドル提督とペリー提督の交渉姿勢は大きく違っている。

しかし一つ指摘しておきたい事は、次に書くペリー提督の日本派遣も含め、当時アメリカ政府のこれら使節派遣には、イギリスやフランスと異なり、通商で優位に立とうとはしても植民地獲得の意図はなかったことだ。

 

ペリー提督以前にアメリカ政府が日本に派遣した使節たち

ペリー提督が日本に向け派遣される以前から、アメリカ政府はアジア諸国に向け条約締結の使節を派遣し、日本もその対象国の一つだった。日本に向かった使節は、次のような顔ぶれだ。

  • 1832(天保3)年アメリカ政府は、エドモンド・ロバーツ(Edmund Roberts、ニューハンプシャー州ポーツマスの豪商)に支那、コーチン・チャイナ、シャム、マスカットなどの条約交渉に続いて日本との条約交渉を命じ信任状も与えていたが、ロバーツは日本には足を向けなかった。詳細な理由は不明だが、アジアの国々は基本的に通商に乗り気ではなかったから、軍艦・ピーコック号の帰国期限も迫り、将軍に対する贈答品の購買資金も不足気味で、時間的かつ予算的制約のための優先順位決定だったのだろう。しかし、ロバーツはシャム及びマスカットと和親條約を結んでいる。

  • 1835(天保6)年アメリカ政府は、ロバーツのシャムやマスカットへ批准書を届ける二回目の派遣でも、日本との交渉を命じた。国務長官の指令書には、「長崎ではオランダ商館の邪魔が入る恐れがあるから、出来たら江戸に近い他の港に行け」と云う指示と共に、政府は日本へ向けロバーツが持参すべきアンドゥルー・ジャクソン大統領の親書と金時計や剣、ライフルやピストル、その他多くの贈り物を準備した。しかし1836年、シャムで批准書を交換しマカオに到着したロバーツの突然の死によって、日本行きは不可能となった。しかしまたこの時期の日本は、文政8(1825)年に出された異国船打払令が天保13(1842)年まで有効だったから、ロバーツが例え長崎や浦賀に来ても交渉は困難だっただろう。

  • 1844年、ジョーン・タイラー大統領の任命によりアメリカと支那との最初の条約を交渉した全権公使ケーレブ・カッシング(Caleb Cushing)は、支那に滞在中日本との条約交渉の重要性を認め、政府に日本との条約交渉を提案した。ジェームス・ポーク新大統領は直ちにカッシングに全権を与え日本行きを命じたが、その命令書はカッシングの帰国と行き違いになった。当時アメリカの下院議会では、「アメリカと日本や朝鮮との間に通商条約を結ぶべきだ」との決議がなされるほど、一部の熱心な議員も出始めていた。後任の支那への公使・アレクザンダー・エヴェレット(Alexander Everett)は、赴任途中のリオ・デ・ジャネイロで病気になり、日本との交渉権限を東インド艦隊司令官・ジェームス・ビドル提督(Commodor James Biddle)に委譲した。

  • 1846(弘化3)年7月20日、コロンブス号とヴィンセンス号で日本に来たビドル提督は浦賀に碇を下ろした。ビドルに宛てたバンクロフト海軍長官からの指令書は、日本が開国をし通商条約を結ぶ意思があるか否かを穏やかに聞けというものだったが、幕府からは拒否の返事が返ってきた。ビドルもこれを受け入れ、7月29日おとなしく帰国の途に着いた。

  • アメリカ政府は、ビドル提督の日本からの帰国以前に、病気で遅れて支那に赴任したエヴェレットに対し再度の日本行きを命じたが、更なる病気の悪化により果たせなかった。

このように、何れの使節派遣も成功しなかったが、ビドル提督のようにアメリカ海軍将官は、ヨーロッパ以外の遠隔地で外交官の役割も担うのが伝統であり、アメリカの合理主義的行動の典型的な一例だ。

 

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09/30/2013, (Orginal since June 2006)