3、通商条約と内政混乱
タウンゼント・ハリス総領事赴任の背景
♦ ハリスの起用と指令書
ペリー提督と江戸幕府の結んだ日米和親条約の第11条により、アメリカ政府はタウンゼント・ハリスをアメリカ駐日総領事として下田に派遣した。
ハリスは1853年、ペリー提督が香港で日本遠征の準備を整え上海で最終準備完了の停泊をしているとき、ぜひ艦隊に同乗して日本に連れて行ってもらいたいと頼んだ。しかし、ペリーの方針によりハリスの願いは実現しなかった。その後ハリスは経験を買われ、アメリカの駐ニンポー(寧波)領事に任命されニンポーにいた。和親条約締結後、アメリカ政府が駐日総領事の派遣を決めると、ペリー提督とスーワード上院議員(後の国務長官)はハリスを駐日総領事に推薦し、ピアース大統領もこれを受け入れた。同時にアメリカ政府は、ハリスに日本と通商条約を締結する権限をも与えた。1855年9月13日付のマーシー国務長官からハリスに宛てた指令書は、
貴殿も承知の通り、我が政府代表としてのペリー提督により交渉された日本との条約は、合衆国と彼の帝国間の通商について何も明白な規定がありません。・・・人口の多い彼の国のいくつかの港に往来し、有利な通商を続けられないと云うこともないはずです。駐日総領事として貴殿を選んだ大統領の主な動機は、貴殿の東洋人に対する知識と、実業家としての総括的な理解力と経験により、やがては日本人を説いて感服させ、我が国と通商条約を締結させるだろうという期待からです。下田到着後、この交渉で本省と連絡がつく前に、その目的のため予備交渉をする好機が来るかも知れず、今貴殿にその交渉と条約締結の全権を付与します。
というものだ。またアメリカ政府はハリスに、日本に赴任する前にバンコックに立ち寄り、シャム政府と通商条約を結ぶように指示もした。ハリスはシャムと条約締結に成功した後、1856年8月21日(安政3年7月21日)、アメリカ蒸気軍艦サン・ジャシント号でオランダ語通訳のヒュースケンと共に下田にやって来た。
♦ ハリスの決意
ハリスの気持ちは高揚していたようだ。下田に着く3日前、8月19日に船上で書いた「ハリス日記」に次のような文章がある。
私は、文明国から派遣され日本に住む最初の正式代表者だ。これは我が人生の新時代で、日本の新体制の始まりとなろう。これから書かれる日本とその行く末の歴史のなかで、名誉を持って語られるよう行動したい。
シャムとの通商条約交渉では、イギリスのすぐ後を継いで締結した。しかし軍艦を持って来ないアメリカはイギリスより友好的と見られはしたが、威圧的なイギリスのやり方と違って交渉は長引き、ハリスの思うようには進まなかった。通商条約を締結こそしたが、腹を立てたハリスは「嘘をつくことが王族以下全員のルールだ。避けられる限り真実を語らない。こんな国民に会ったことはないし、もう二度とこんなところに送られないことを望む。交渉の最適方法は、軍艦を二、三艘派遣することだ。バンコックまで派遣し祝砲を撃たせるといい。そうすれば、条約締結に私が何週間も費やした日数など不要だ」と、やはり軍事力をチラつかせ威嚇すべきだったと日記に書いた。そんな背景もあって、日本ではうまくやり、必ず成功を勝ち取ろうと気持ちが昂ぶったのだろう。
ハリス着任時の混乱
アメリカ領事館に使った下田、玉泉寺の山門
Image credit: © 筆者撮影
シャムで一仕事を終えたハリスは下田に上陸すると、信任状と着任を報ずる書簡を下田奉行・岡田備後守に提出し、和親条約に基づく総領事着任という訪日目的を伝えた。下田奉行は急ぎ幕府にその取り扱いの指示を仰ぎ、ハリスの「御用所に部屋を分けて欲しい」という要求を断り、とりあえず柿崎の玉泉寺を宿泊地として提供した。
この時の総領事受け入れをめぐり、幕府とハリスとの間にひと悶着が起きた。その原因は、林大学頭がペリー提督と調印した日米和親条約第11条の日本文にあった。この11条は下に掲げる通り、幕府はその文言中の「両国政府に於いて」を「両国政府の双方に於いて」と解釈した。ところが同時に作られた英文、蘭文、漢文は「両国政府の一方に於いて」となっている。さらに付け加えれば、「よんどころなき義(やむをえない事情)」も英文では「必要と見なした場合」と微妙に違っている。ハリスと下田奉行との交渉で日本側は、日本にはこの條約で言う領事駐在を必要とするやむを得ない事情などないからすぐ帰ってくれと交渉した。一方ハリスは、条約にそう書いてあって、アメリカ政府が必要と認め私を派遣したのだと答え、条約で認められた権利を主張した。しかしすでにこの時、調印した条約文を詳細に検証させていた幕閣は、条約第11条の日本文は間違いで、両国政府の一方の判断で領事を派遣できることを良く理解していたのだが、それでもハリスを上陸させたくなかったのだ。そう書いてある条約を結びながら、それを否定したり先延ばししたりする幕府のやり方は、その後もとことん権利を主張する欧米の外交官との軋轢となっていく。
日本の歴史上初めて結んだ国際条約の文言は、意識的にか偶然にか厳密性を欠いていた。第11条に限らず、現代ほどその重要性が認識されていなかったこともあるが、条約の目的、有効範囲、改廃規則、平等性などに弱点があり、夫々に問題を引き起こした。
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和親条約第11条(日本文)
| 第十一ヶ条 : 両国政府に於いて、よんどころなき義これあり候模様により、合衆国官吏のもの下田に差置き候義もこれあるべく、もっとも約定調印より十八ヶ月後にこれ無くては、その儀に及ばず候事
混乱の原因と更なる不思議 |
| 嘉永7(1854)年3月 | : | 条約調印の当初幕府は、「両国政府に於いて」を「両国政府双方に於いて」と理解した。即ちアメリカ単独の理由での派遣は不可ということだ |
安政2(1855)年6月 (ハリス着任以前) | : | 幕府は、条約第11条を大目付や目付に評議させた。評議の結果、蘭文と漢文と比較し、日本文だけが違っていることが判明した。蘭文や漢文では、どちらか一方の政府の決定で官吏を送れる。即ち、アメリカはいつでも必要に応じて官吏を送ってくるだろう。大目付や目付の答は、その時が来たら日本からもアメリカに官吏を送るという条件でアメリカ官吏を受け入れよ、と答申した (この事実は、ハリス着任の1年も前に、この日本文は間違っていると老中が理解していたのだ) |
| 安政3年7月25日 | : | ハリス着任の報告で、幕府はアメリカ総領事の信任状と着任報告書簡を受理しない事に決し、この旨を下田奉行に命じた (幕府は日本文の間違いに気付いていながら、なぜこうも理屈に合わないことをするのか不思議だ) ハリスは当然受け入れない |
| 安政3年7月28日 | : | ハリスは、玉泉寺に止宿を了承 |
| 安政3年8月 5日 | : | ハリスは、玉泉寺を正式に総領事館と定めた |
| 安政3年8月17日 | : | 下田奉行井上と岡田の再度の要請で、幕府は、評定所一座と海防掛にまたハリスの要求する領事駐在を評議させた。大目付や目付は評議の結果、正式に総領事を駐在させ、駐在に伴う諸規則や手続きを決めておくほうが今後のためによい、と答申した |
| 安政3年8月24日 | : | 幕府はアメリカ総領事の駐在を許可することに決し、ハリスと話すため目付・岩瀬忠震(ただなり)を下田に派遣した。また、前水戸藩主・徳川斉昭にその事情を告げた |
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日米和親条約補修協約(下田協約)の締結
ハリスは1857年6月17日(安政4年5月26日)、下田で日米和親条約の補修協約「日米協約」を結んだ。これは、ペリー提督との和親条約締結時から変化した状況に対処し、より細かい規則を定めたもので、次のような9条項からなっている。
- 最恵国待遇条項により長崎もアメリカに開港する。
- 下田・箱館に入手不可能品取り扱いのアメリカ人を置き(居住権)、箱館に官吏を置く。
- 貨幣交換時、6分の吹き替え費用を日本に支払う。
- 領事裁判(治外法権)。
- 船舶修理費の支払い。
- 領事の自由旅行権。
- 領事の商品直買。
- 本条約の公式言語を蘭語とする。
- 本協約発効日。
これはハリスが駐日総領事として、日米和親条約の範疇内で行った初仕事だ。
この時すでに日本とオランダは、1856年1月30日(安政2年12月23日)に「日蘭和親条約」を調印していたから、ハリスの指摘により、オランダに開港した長崎も自動的にアメリカに開港された。さらに重要な点は、限定的ながらも、それまで日本が拒否していたアメリカ市民の居住権が認められたことだ。ハリスはまた、領事裁判という治外法権もはっきり獲得したが、これは後に不平等條約として問題になる。更にまた、領事に限り自由旅行権も認められた。
この交渉で日本側を説き伏せるのに、アメリカ政府がハリスに与えたという「日本が条約を守らねばアメリカは武力行使をする」といった指令書簡なるものをちらつかせたり、大統領の親書を持ってきた使節であるから、江戸に赴いて差し出すのが国際的礼儀であるなど、圧力をかけながら矢継ぎ早に交渉を進めようとした。しかし日本側もハリスの出方を見ながら決定に時間がかかったから、補修協約の締結に10ヶ月も必要だった。
修好通商条約へ向けたハリスと幕府との駆け引き
♦ 初期交渉は決裂
補修協約交渉中からハリスは、自分は大統領の親書を持ってきた使節であるから、江戸に赴いて将軍に直接差し出したいといっていた。そして日本に告げるべき「重大な機密事項」もあるといった。交渉代表者の下田奉行・井上信濃守と中村出羽守は、幕府から全権を委任されているので下田で渡してくれと交渉したがハリスは納得しない。井上と中村は、ハリスのいう機密事項とはまず間違いなく貿易開始と開港場増加の提議であろうと推定し、幕閣にはその旨報告していた。
一方ハリスは引き続きの交渉で、とにかく江戸に行き将軍に会い、親書を渡し、通商条約交渉のきっかけを作るべく頑固を押し通した。大統領からは、江戸に行き親書を将軍に直接渡せと命令されている。万国の慣例はこのようなものであり、老中にさえも渡せないと、一歩も譲らず妥協しないから交渉はなかなか決着がつかない。また今後ロシア、イギリス、フランスなどが来ても、同じ要求を出すだろうともいった。しかし、日本側が強硬に要求する「重大な機密事項」をあらかじめ幕府の交渉代表者の井上信濃守と中村出羽守に示唆する件と、ハリスがアメリカ大統領の命令だという上府し直接将軍と面会する件とが絡み合い、交渉は決裂状態になった。
♦ 幕府の譲歩とハリスの出府
こんな交渉過程で幕閣も、その国際関係の意味するところを考え、基本的にハリスの出府を許すよう方針変更をした。この内達を受けた溜詰め諸侯の松平讃岐守、松平下総守、松平越中守、酒井雅樂頭(うたのかみ)などは、老中・堀田備中守に上府の即時中止を建議したが、それほど幕府内にも強い拒否反応もあったのだ。「溜詰め」というのは、家門大名や元老中などが江戸城に登城したとき黒書院の溜の間に席を与えられることで、親藩や譜代の重臣から選ばれ、老中とともに政務上の大事に参画した役職である。しかし堀田は、更にハリス上府の期日を評議させ、徳川三家にもハリス上府許可の意思を内達した。これを聞いた水戸藩の徳川斉昭・慶篤(よしあつ)親子と尾張藩の徳川慶恕(よしくみ)は反対を唱えたが、そんな反対にも屈せず、堀田はハリスの上府期日を9月下旬と決め、井上信濃守を通じハリスと旅行や登城手続きを協議させた。
諸侯からその理由を追及されると堀田は、「万国の通則」はこの通りであって、日本が国際社会と交流するには、その慣例に従わねばならないと自己の信念を説明した。これに納得しない上述の反対派は徳川斉昭の元に集い、ハリス上府反対の大合唱を唱えた。しかし堀田は動ぜず計画を進め、1857年12月7日(安政4年10月21日)、ハリスは登城し、将軍・家定に謁見し、ピアース大統領の親書を老中に提出した。将軍に謁見したハリスは、親書こそ老中に提出したが、やっと面目を施すことになった。
♦ ハリスの大演説とその検討
しかしハリスはここで一息入れず、26日、勢いをかって老中・堀田正睦の役邸を訪ね大演説を行っている。技術革新による蒸気船、電信などのもたらす交易の拡大や素早い情報交換により、急速に変わりつつある世界情勢を説いた。そしてアメリカ大統領は、親書にも書いてあるごとく日本と自由貿易を確立したい旨を伝え、公使を江戸に駐在させたいと述べた。更に領土的野心の無いアメリカと通商条約を締結しておけば、イギリス、フランス、ロシアといった野心的な国に対しても間接的な防衛になる旨をも説いた。すなわち、アメリカと受け入れ可能な通商条約を結んでおけば、仮に他国が過大な要求を出しても、アメリカと同等の内容にする事は可能だということだ。
このハリスの大演説の後、堀田は更に不明な点を確認し理解を深めるべく、大目付・土岐頼旨(よりむね)、勘定奉行・川路聖謨(としあきら)、目付・鵜殿長鋭(ながとし)、下田奉行・井上清直、目付・永井尚志(なおゆき)などそのブレーンをハリスの泊る蕃書調所に送り、公使の役割やその権限、派遣方法、領事との違い等細かく質問し理解を深めさせた。こんな西洋流の国際慣行を一から勉強する事は、日本にとって不可欠な対応だった。
幕閣は更に、ハリスのこの堀田邸における演述書を評定所、海防掛、長崎・浦賀・下田・箱館の各奉行に示し意見を求めたが、この答申は意見が割れた。拒否せよという見解こそ無かったが、「受け入れよ」という意見と「諸侯に許否を諮れ」というものとが二分した。そこで幕閣はまたハリスの演述書を諸侯に示し、その許否を諮問した。ハリスは世界情勢を説明し明確に通商開始を要求している。しかし維新史料綱要を見る限り、諸侯の答申は明確に「交易を拒否せよ」というものは久保田藩と鳥取藩の2藩だけで、「交易を許可せよ」と云うのも徳島藩や明石藩などの6藩、その他の20藩ほどは「諸侯協議で決すべし」とか「慎重考慮を要す」と、いわば無責任な回答しか寄せていない。要はどうしてよいやら分からなかった、というのが当時の大多数の諸侯の実態だった。諸侯というのは、自分の領地を持つ一国一城の主のことだ。確かに堀田と違って直接ハリスと話していないから、その印象は薄かっただろうが、今考えて非常に物足りないと感ずるのは筆者一人ではなかろう。
♦ ハリスの威嚇と通商条約の交渉開始
老中・堀田備中守は理解してくれるとみたハリスは、さらに条約の基本内容を説明したり、また圧力をかけるため、予定していた幕府の重要な朱子学教育機関である大成殿や学問所の公式訪問を突然キャンセルしてみたりと、1月以上も江戸に留まり影響力を行使した。上述のように評定所や海防掛けに諮問しまた諸侯に諮問し、なかなか意見のまとまらない幕府から条約交渉に入る返事をもらえないハリスはいらいらして待っていたが、1858年1月9日(安政4年11月25日)、久しぶりにハリスを訪れた井上に向かって奥の手を出して恫喝した。この日の「ハリス日記」に次のように書いてある。
そして話の締めくくりに、私に対するこんな待遇を見れば、この全権使節が交渉を進めるためには、軍艦を率いてきて弾丸を見舞わなければ何も進まないようだといってやった。これ以上何もやる気が無いなら下田に帰りましょうといって話をやめた。気の毒にも信濃守は明らかにうろたえてながら聞いていたが・・・
本気で武力行使の可能性を示唆したハリスの剣幕に驚いた井上は、ただちに堀田に報告し、12月2日、堀田の役宅で再度ハリスとの会談が実現した。そしてハリスはついに堀田から直接、通商貿易、公使駐在、下田閉港と新港の開港という三つの基本合意を勝ち取り、細部にわたる通商条約作成交渉の開始にこぎつけた。日本の弱みを握ったハリスはその席で、大統領の願いは別に何があるわけでもなく、ただ日本の利益を考えてのことだ。この条約を結ばなければ日本に危難が降りかかるから、そうならないようにしてやりたいだけだ。この点を日本が良く理解していれば、日本が条約を結ばないといってもアメリカが日本を敵視することは無いと、充分に恩を着せ脅しをかけることを忘れていない。堀田は、下田奉行・井上信濃守と目付・岩瀬肥後守とを通商条約交渉全権に任じ、ハリスと細部にわたる条約文の作成交渉を始めさせた。
しかしここで指摘せざるを得ない事実は、その背景が何であれ、ハリスは態度をはっきりさせない幕府に対し、軍事力に訴えるぞと威嚇作戦を取ったことだ。筆者の目から見れば、自国の軍事力を誇示するか他国・イギリスやフランスの軍事力を指摘するかの違いだけで、ペリー提督の作戦と基本的に同じことである。上にも書いたが、ハリスが下田に来る前にシャムで条約を結んだ時も、軍艦を引き連れてきて祝砲を撃たせれば、条約締結の時間をはるかに短縮できたと自身の日記に書いたが、最後は軍事力を示唆しようとハリスは思っていたのだ。日本を預かる老中・堀田備中守や幕閣には、充分な海軍力も無い今、この軍事力を行使するぞという威嚇作戦が最も有効だった。明治以降になって、ペリー提督は軍艦を引き連れて来て威嚇作戦を取ったが、ハリスはそうしなかったという賞賛の声が出たようだが、二人とも同じように軍事力を誇示し威嚇作戦を取ったというのが筆者の見解だ。
朝廷の影響力
♦ 朝廷の政治介入
和親条約と開国の前章でも書いたように、ペリー提督来航時には、当時の幕閣の首座・阿部伊勢守が朝廷にアメリカ国書を奏聞し、和親条約締結の報告もしている。今回もまた、幕府はハリスを上府させると決定したときも、将軍・家定と謁見したときの様子をも逐一朝廷に奏聞した。幕府はハリスと通商条約交渉を開始したが、同時に、前述したハリスの堀田邸における演述書も朝廷に奏聞した。このように朝廷は政治の場に明確に姿を現し、幕府も朝廷の権威をもって挙国一致を達成しようと目論んだから、状況は更に複雑になってきた。
そもそも、慶長5(1600)年9月15日の関ヶ原の戦い以降、大坂の陣で豊臣勢を完全に崩壊させ実力で天下の覇権を手にした徳川家康は、ただちに「禁中並びに公家諸法度」をつくり朝廷をもその制御下に置くことに成功し、それ以降、朝廷の政治向きの口出しは禁止されて来たのが江戸時代の政治の枠組みだ。しかしこれが崩れはじめたのは、文化元(1804)年、長崎に来たロシア使節・レザノフに通商を断り、怒ったロシア軍艦が樺太、択捉、利尻の日本側施設を破壊したが、この出来事を文化4年に幕府が朝廷に報告したことから始まった。
その後各国の軍艦がたびたび日本に接近し、巷間に外国船渡来の噂がいよいよ高まった。孝明天皇はこんな噂に驚き心配していると、弘化3(1846)年8月29日、朝廷は幕府に「海防勅書」なるものを出し、幕府は海防を強化し天皇を安心させよと命じた。この時、京都所司代にこの天皇の懸念をお沙汰書として伝える武家伝奏は、幕府へ、「文化度の振り合い」として、すなわち文化4年にもロシアとの外交問題を報告してくれたから、今回も外国船渡来の事実を伝え天皇を安心させてはもらえないかと内々頼んだのだ。
このように天皇が幕府に海防勅書として命令を出し、幕府もそれに異を唱えなかったこと自体、すでに「禁中並に公家諸法度」に基づく徳川幕府の政治システムの重大な変革であり、朝廷が公然と徳川幕府の政治に介入し始めたのだ。
またこんな政治的介入の禁止だけでなく、天皇家の養子縁組や親王の宣下、関白・諸大臣や武家伝奏の人事に至るまで、先ず幕府に天皇の「御内慮」を示し、幕府の承認を得てさえいたのだ。若し幕府がその首を縦に振らなければ、たとえ天皇の御内慮といえども実行不可能だったわけだ。この件に関しては、後に朝廷が窮地に立った幕府に、「関白・大臣・武家伝奏の人事にまだ介入する気か」と諮問し、幕府は文久2年12月16日これを辞退する態度を示し終わりをむかえ、一層朝廷の権威が上がっている。
以上が朝廷の政治介入の端緒であり、朝廷の独立と顕在化の過程だが、更に見落とせない事実は、江戸時代に入り200年以上にもわたって平和を持続する事に大きな役割を果たしてきた儒学の伝統だろう。五常の教えの「仁、義、礼、智、信」、それから派生する五倫の関係の「君臣、父子、夫婦、長幼、朋友」だ。徳川家康が抜擢し幕府の儒学の師に据えた若き林羅山以来、武士の正学として発展した儒学・朱子学の教えから特に国家像を見れば、名目的にもせよ「その頂点に立つ天皇とその臣民」という構造が見える。後に幕府がそんな朝廷の権威を大いに利用もしたが、朱子学を学ぶ武士階級の中にはこの儒教的な「国家の頂点に立つ天皇」という考えが何の不思議もなく根付いて行ったのだ。そして18世紀には、朱子学を大切にする江戸幕府の将軍や幕府親藩の諸侯は勿論、全国の大小名諸侯も、将軍は国家の頂点に立つ天皇から「大政を委任されている」という考えになっていた。すなわち天皇と将軍の関係は、「君臣の大義」にもとずく「天皇に仕える将軍」という上下関係として理解されていったわけだ。
一方、賀茂真淵や本居宣長と続く「万葉集」、「源氏物語」、「日本書紀」、「古事記」などの研究や、それを引き継ぐ平田篤胤の復古神道を通じた18世紀後半から19世紀前半のいわゆる「国学」の隆盛も、日本古来の天照大神や、ひいては天皇を中心に据える思想の発展を表に押し出す役割を果たした。更に将軍を始め諸大名、あるいはエリート武士が受ける官位は朝廷から下される。これらが尊王の行動を本流に押し上げる重要な要素となっていった。
また天明の大飢饉(天明2〜8年・1782〜88年)には幕府の膝元の江戸でさえ大規模な打毀しが起るなど、幕威を恐れない民衆蜂起が起こり、幕府の威厳は大幅に低下した。従って幕府は、事ある毎に朝廷の権威にすがる行動が多くなり、それに比例して朝廷の権威が上がったわけだ。
こんな背景から、国の運命を左右する開国、開港、通商条約締結等は、少なくとも朝廷の同意が必要だとの考えがご三家や親藩の中にさえ普遍化し、朝廷の意向に逆らえば「違勅」に当たるとされたのだ。
♦ 朝廷内政治力学の変化
弘化3(1846)年以降、朝廷内でもいくつかの重要な変化が起こりつつあった。まずその年2月13日に践祚(せんそ=皇位継承)した孝明天皇は気骨あるリーダーとして、天皇の威厳と権限を充分に使い、日本国の行く末を案じ始めた。すなわち、上述のように政治介入が始まった。またその当時の関白・鷹司政通は、実力者で朝廷内をまとめるオピニオン・リーダーであったが、開国論者で、鎖国以前は海外との交易があったのだから、世界情勢がこうまで変化してしまえば交易をして国力を蓄えたほうが良いと考えていた。
しかし一方で関白・鷹司政道は、ペリーが来航し手渡した「通商をしたい」というアメリカ大統領の書簡内容と、「各藩の建議は和戦の二字で、再来航時は平穏を旨とするが、最悪時は戦の覚悟を持て」と各藩に命じた幕府の対応策を幕閣から伝えられた後の嘉永6(1854)年12月28日、公家を始め蔵人、官務、大下記、出納など朝廷内の諸官に至るまでこれを伝え、多くの諸司へも伝達すべく命じた。こんな朝廷内での対応が、後に朝廷内で幕府外交への多くの大衆化した議論を生む素地を造ったようだ。
そしてハリスが来て通商条約の作成とその調印を迫ると、開国という鷹司政通や幕府の考えに真っ向から反対する公家が台頭し始めた。「自分の代に夷人が神国・日本に入り込んでは、祖先に対し申し開きできない」と外国人を強く嫌う孝明天皇も、当時関白から太閤になっていた鷹司政通のこんな開国論を強く嫌ったので、台頭する新公家集団の考えと行動を強く支持し、その行動力に期待した。孝明天皇は自ら朝廷のリーダーとして行動し、単なる飾り物ではなかった。すなわち朝廷内の政治力学も、長い関白万能の時代から、天皇と革新公家主導へと大きく変わり始めたのだ。
通商条約の調印と安政の大獄への道
♦ 条約勅許要請と差戻し
安政4年12月11日(1858年1月25日)、ハリスと日本側全権の井上信濃守と岩瀬肥後守との交渉が、ハリスの滞在先の蕃書調所で始まった。翌1月14日、ハリスは合意に達した条約の成案を提出し速やかに調印を求め、21日、幕府の用意した観光丸で下田に帰った。
一方幕府は日米修好通商条約について朝廷の理解を得ようと、12月17日、アメリカのペリー提督と直接交渉した林大学頭と目付・津田正路を京都に送り「鎖国は改め、万国に程よく付き合わねばならない時代になった」と、当時アメリカから入手した「ペリー提督日本遠征報告書」の翻訳までも提出して説明させた。朝廷は一応話を聞くとこの「軽量使節」に、用は済んだから帰れと告げ、朝廷の理解を得ることは出来なかった。しかし実際のところは、当時の朝廷が理解していた事情とはあまりにもかけ離れた現実に、その想像力を超え、作り話だろうと疑いさえ生じた可能性もある。ハリスとの交渉が終わると幕府は即刻、老中の堀田と全権交渉委員の岩瀬と川路を京都に送ることに決め出発を命じた。これは朝廷の権威をもって挙国一致を図ろうとする幕府の方針に基づいたものだが、裏を返せば、御三家や譜代大名など幕府内部にさえ大きな反対勢力を抱えた老中たちが、その必要性を充分に説得もできず、また権力を持って服従させる気力も無く、朝廷の権威を利用しようとした安易で姑息な手段だった。
堀田備中守は、自ら京都に行き直接朝廷に説明すれば何とかなると思ったであろう。しかし、上の「朝廷の影響力」でも書いたように、朝廷内では大きな政治力学的変化が起きつつあった。関白・九条尚忠や太閤・鷹司政通などの影響下で勅許が出そうな状況を孝明天皇側からの秘密情報で感知した新興革新勢力の公家たちは、堀田が関白や議奏を「黄白」すなわち金銀を持って攻落したと怒り、急きょ組織した88人もの公家たちが突如として宮中に押しかけ、「朝廷としてはなんとも言いようがないから、関東でよく考えて決定するように」という関白・九条尚忠の条約許容の勅答案を覆してしまった。数の力で関白に猛反対し、その決定を覆させたのだ。革新派公家たちのこの団結した強訴は、これ以降も時として行われるようになる。このように朝廷は、幕府老中の堀田備中守の説明にも容易に耳を貸さなくなっていた。これは大きな誤算だった。二ヶ月近くも京都で粘ったが、安政5年3月20日「なお三家以下諸大名の意見を聞け」との朝旨に勅許を得る見通しも立たず、堀田は江戸に引き返した。
♦ 大老・井伊直弼の決断と条約調印
井伊直弼像、昭和29年再建(横浜市掃部山公園)
Image credit: © 筆者撮影
外交問題で朝廷とうまく行かず、後継問題も焦眉の急になっている将軍家定は大老職を設け、安政5(1858)年4月23日、彦根藩主・井伊直弼を大老に据えた。一方堀田はまた江戸に出てきているハリスに、約束している通商条約の調印を何回も引き伸ばす交渉をしたり、5月6日には条約調印の困難さを説明する将軍・家定の親書を米国のピアース大統領宛に出したりと、種々の条約調印延期策をとった。大統領にまで親書を出されたハリスは、仕方なくまた下田に帰った。
幕府はいつもの通り、この安政5年5月6日付けのピアース大統領宛の書簡の写しを朝廷に提出したが、これを読んだ孝明天皇は、ハリスはあっさり下田に帰ってしまったし、堀田が帰府して以降幕府から何の音沙汰もなかったから、あるいは幕府が朝廷の許可を得ないまま調印してしまうのではないかと疑い、非常に心配し、関白・九条尚忠にその後の経過を幕府に質問させている。次に書くとおり、孝明天皇のこの心配は一月も経たぬ内に現実のものとなってしまうのだ。
しかしもちろん、下田に帰ったハリスはこれで諦めたわけではない。下田に帰ってから1月ほどして、ハリスにまたチャンスがめぐってきた。アメリカ軍艦ミシシッピー号とポーハタン号が相次いで下田に入港し、イギリスとフランス連合は支那との第二次アヘン戦争にかたをつけ、インドも収まったというニュースをもたらした。これを好機と見たハリスはたちどころにポーハタン号に乗り小柴沖に来て、幕府に書翰を送り、支那に対する英仏連合の勝利と、近い将来彼らは必ず日本へ大艦隊を率いて来航するだろう事を告げた。そして、速やかにアメリカと条約を調印しておけば同等の条約にもなろうが、さもなくばインドや支那の勝利に乗じたイギリス人は勝手な要求を出し、それを拒否すれば戦争という大変な事態にもなろうとも告げた。
6月18日に小柴沖に停泊中のポーハタン号上でハリスと会見した井上と岩瀬は、再度ハリスから先の書翰内容の説明を受けると、大いに驚愕し急いで翌19日登城しハリスの言葉を報告し、条約調印をすべきかの指揮を仰いだ。幕閣の衆議に時間はかかったが、基本的に朝廷からの勅許取得を優先すべく考えていた井伊大老も、渋々ではあるが、「更なる条約調印の延期に努力せよ。しかし、やむを得ない場合は調印もやむなし」と、条約調印をし戦争回避を優先する決断を下した。これは、大艦隊を前にして戦争回避の為に条約調印をする事態になっては、日本の名誉も失墜する事をも含んでいる。朝廷勅許よりは戦争回避と名誉の保持が優先するという決断だ。井伊のこの指示に基づき、両全権は再び浜御殿の庭先から観光丸でポーハタン号にとって返し、直ちにハリスと日米修好通商条約の調印を終えた。安政5年6月19日、1858年7月29日だった。
筆者の知りえた史実は以上の様なものだが、井上と岩瀬の両全権は、再度ハリスと会っても井伊の指示である「更なる調印延期」には言及せず、イギリスやフランスとの条約もアメリカと同等の条約に出来ることをハリスに再確認すると、直ちに調印をした。朝廷の勅許や幕府内の議論よりも、日本国家を戦争の混乱に巻き込んではならないし、大艦隊の威力に押されての調印は日本の名誉が立たず、ましてアメリカ以上の条件を押し付けられてはハリスに対しても面目はないと、大きな危機感があったことは事実だろう。
♦ 御三家や親藩の大反対
同じ日に早くもこれを聞きつけた福井藩主・松平慶永と宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)は井伊大老を訪ね、その真偽を問うと、井伊は、戦争にもなりかねない緊迫した世界情勢の重大さから朝廷の勅許を得ずに調印したことを説明した。その後、徳川斉昭は書簡で、一橋慶喜と徳川(田安)慶頼(よしより)は井伊に面会し、それぞれ朝廷に状況を伏奏し違勅の許しを請えと迫った。特にその後一橋慶喜はその他の閣老とも会い、たかがハリスの「大艦隊が来襲するぞ」という言だけを信じ、朝廷の意に逆らった條約調印は許せない違勅だと叱りつけた。イギリス艦隊が来ても則戦争とはならないだろう。まず交渉があるはずだ。今日本の何処にそんな艦隊が来ているのか、という論法だった。更に6月24日になると福井藩主・松平慶永は、朝早く登城前の井伊の私邸を訪ね勅許なしの条約調印の責任を問い詰めた。同じ日、前水戸藩主・徳川斉昭、名古屋藩主・徳川慶勝(よしかつ)、水戸藩主・徳川慶篤(よしあつ)は登営日でないにもかかわらず登城し、井伊大老になぜ条約の無断調印を行ったのかとその責任を激しく問い詰めた。
この様に御三家の尾張や水戸、御三卿の田安や一橋から親藩に至るまで、ことごとく「違勅」と反対された井伊直弼は窮地に立ったが、少なくとも御三家や御三卿、親藩にはもっと説明し味方につけておくべきだったと思ったとしても不思議ではないほどの孤立だった。ここで云う違勅とは、将軍・徳川家定が天皇の命令に従わないことで、すなわち「朝敵」になることを意味する。将軍の下で政治を遂行する代表責任者の大老・井伊直弼の判断の誤りから、将軍を朝敵に落し入れる大罪だという意味だ。
当時徳川幕府の中枢グループで、すでにこれほどまでに天皇を国家の頂点ととらえ、朝廷の意に逆らうことがためらわれていた事実は重要である。名古屋藩祖・徳川義直は家康の第九子でありながら尊王思想の持ち主だったというから、その家系を継ぐ徳川慶勝は尊王主義者であったし、水戸藩でも家康の孫に当たる徳川光圀以来の尊王家で、斉昭は勿論、その実子の慶篤や一橋慶喜もその薫陶を受けて育った尊王主義者だ。いざという時は、幕府より朝廷が大切だという信念だったから、早くから天皇崇拝思想が徳川一門の中枢にあったわけだ。
上述した如く、ペリー来航以前から、ことあるごとに幕府は朝廷に報告し、ますます朝廷の権威は上がり、外交問題を中心に幕府と朝廷の意見は相反する方向へと急激に加速していく。これに加え将軍家定の後継問題も、井伊の推す徳川慶福(よしとみ、のち将軍・家茂)派と一橋慶喜を推す反対派に分かれて激しく対立していった。
こんな御三家や親藩の反対活動が頂点に達すると大老・井伊と老中は、厳しく違勅を唱えた前水戸藩主・徳川斉昭に「急度慎み」、名古屋藩主・徳川慶勝と福井藩主・松平慶永に「隠居・急度慎み」の処分を行い、一橋慶喜の登営を停止する処分をも下した。しかしまた1年後には更なる処分が下される事になる。
♦ ロシア、イギリス、フランスとも条約締結・・・安政の大獄へ
安政5年6月19日にアメリカのハリス総領事と修好通商条約を結んだ幕府は、7月11日ロシア使節のプチャーチンともアメリカに順ずる修好通商条約を結び、朝廷に、「先般連絡の通りアメリカと条約を締結したが、その頃よりロシアも渡来したので、アメリカの振合いをもって条約を取結んだが、更にイギリスも同様に条約を締結したいと申し立て、フランスも渡来し同様にしたいという事である」と誠に簡単に届け出た。
一方の朝廷は幕府に、アメリカとの通商条約締結の説明に来いとご三家か大老の上京を強く督促していたが、幕府からは書簡の説明が来ただけで、三家はおろか重臣は誰も来ない。上述の如く前水戸藩主・徳川斉昭には「急度慎み」、名古屋藩主・徳川慶勝には「隠居・急度慎み」の処罰が下され上洛など出来ないし、征夷大将軍・徳川家定は死亡し、大老・井伊直弼は国事に忙殺されていてすぐ上洛など出来なかったのだ。ここで、更にまたまたロシアとも条約を結び、イギリスともフランスとも結ぶと言う。幕府のこんな朝廷をないがしろにする対応に心の底から無力感を味わう孝明天皇は、他の人に天皇の位を譲りたいと真剣に譲位を考えた。
こんな譲位の決意を天皇から直に伝えられ危機感を募らせる左大臣・近衛忠煕(ただひろ)は、右大臣・鷹司輔煕(すけひろ)、内大臣・一条忠香(ただか)、前内大臣・三条実万(さねつむ)などを中心に巻き込み策を練りはじめた。渋る関白・九条尚忠が朝議に出席していない中でも、安政5(1858)年8月8日近衛忠煕らは、朝廷から密かに水戸藩に蜜勅を送り幕政を改革し攘夷貫徹せよと命ずる朝議決定を下し、即実行に移した。そして三卿、家門一同の隠居に到るまでこの趣旨を伝えよとも命じていた。数日後、この蜜勅と同じ内容の勅書が幕府にも出されたが、意図的に水戸藩には早く伝えるという朝廷の画策である事は明白だった。この勅書を出したことにより、天皇は譲位の決意を変えている。
身内の御三家や親藩からの違勅の大合唱のみならず、朝廷からさえ8月8日の勅書で、
勅答内容に背き軽率に條約調印したことは、大樹(=将軍)は賢明なはずだから、幕閣は何と心得ているのか、(天皇は)不審に思召されている。
とあからさまに幕閣非難の勅書を出されては、大老・井伊は職権を駆使し牙をむかざるを得ない程までに追い詰められた。この蜜勅が引き金になり、後に大老・井伊直弼の「安政の大獄」と呼ばれる反対派への大弾圧が始まる。このとき、条約調印の件で大老・井伊に激しく「違勅」と詰め寄り上述の如く急度慎み処分を受けていた3名は勿論、水戸藩主・徳川慶篤、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂、佐倉藩主・堀田正睦なども隠居・慎みの処分を受け、この他吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎、安藤帯刀など多くが切腹・死罪を含む厳しい処罰を受けた。更に、青蓮院門主・尊融親王に隠居・慎み・永蟄居、左大臣・近衛忠煕に辞官・落飾、右大臣・鷹司輔煕に辞官・落飾・慎み、前関白・鷹司政通や前内大臣・三条実万に隠居・落飾・慎み、内大臣・一条忠香に慎み、など公家にも多くの処分者が出た。これが安政7(1860)年3月3日の桜田門外での大老・井伊直弼の暗殺につながる。