日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

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     1、日米国交樹立以前          2、和親条約と開国        3、通商条約と内政混乱      4、初めての遣米使節    

        5、開港と攘夷行動         6、薩英戦争と下関戦争   7、長州征伐と条約勅許       8、大政奉還と新体制    

 

8、大政奉還と新体制

背景

安政5(1858)年6月、朝廷の意思に反し幕府がアメリカと通商条約を結ぶと、御三家や親藩内からさえ「違勅」だと大反対の声が沸き起こり、朝廷からは水戸藩に「幕政を改革せよ」との蜜勅が下った。追い詰められた大老・井伊直弼は、将軍後継問題も含め反対派を大量に処罰したが、しかし後日、井伊自身桜田門で殺害されてしまう。その後を次いだ老中・安藤信正(のぶまさ)は穏健路線で幕朝間の関係修復を模索したが、そんな折に長州が朝廷に、朝廷主導で開国を維持し武備を強化し国威を世界に及ぼすという基本国策「航海遠略策」を建白した。同じく幕府との関係改善を強く望む朝廷も文久1(1861)年6月これを受け入れ、朝廷と幕府間の斡旋を長州に命じ、幕府もこれを受け入れた。しかし安藤もまたこの直後の文久2年1月坂下門外で暴漢に襲われ、一命をとりとめはしたが重傷を負いこの斡旋は実現しなかった。今度は文久2(1862)年4月、薩摩藩の島津久光も朝廷に建策し、井伊直弼により処罰された人達の赦免と一橋慶喜や松平慶永など人材登用を勧め、朝廷の意思として幕府もこれを受け入れた。

その後積極的に幕朝間を斡旋しようとする島津久光、一橋慶喜、松平慶永、山内容堂、伊達宗城(むねなり)など、「君臣の大義」にもとづき天皇の意思を尊重しながら公武合体への模索が進む一方、当初は穏健策を取った長州はその藩意を大巾に変え、急進的攘夷へと方向転換した。朝廷内部でも、急進派の公家が攘夷へ藩意を変えた長州と結び、その影響で朝意も大きく揺れ動いた。しかし、時に天皇の意思をも無視するほどの過激派公家の行動を排除しようと、孝明天皇の明確な意思表示により、ついに朝敵となった過激派公家と長州は孤立し、天皇から幕府に長州征伐が命ぜられた。

一方朝廷の意に沿い更なる復権を目論み、実現不可能な横浜鎖港を言い出した幕府の行動に、既得権益の強化を目指す條約4カ国は、慶応1(1865)年9月朝廷の條約勅許を求め、艦隊を率い兵庫・大阪に来て圧力をかけるほど外交関係が緊迫した。朝廷は仕方なく通商条約を認めたが、更に昔の夢の再現を目論む幕府は、折にふれ島津久光が主導する積極的行動に薩摩藩との確執が極まり、薩摩と長州は「皇国の御為め」と相互連携の同盟を結ぶに到る。長州の明確な処罰を決定しようと再度兵を出した幕府は、「大義がない戦争だ」と諸藩の協力を得られず、薩摩藩は出兵を明確に拒否し、苦戦の最中に将軍・家茂が突然亡くなってしまった。

大政奉還

♦ 徳川慶喜の将軍就任と孝明天皇の死亡、岩倉具視の活動

尊王精神の厚い水戸・徳川家に生まれ、父・斉昭から、光圀以来の家訓は幕府より朝廷尊奉と教えられ、一橋家を継いだ後も朝廷を尊奉する一橋慶喜は、将軍後見役になってからも容易に朝廷の意見を入れない幕閣と折に触れ確執があった。慶喜が、攘夷のため横浜鎖港を実行しようと朝廷の意を奉じ京都から江戸に帰ってきても、江戸の幕閣や役人の協力を得られず挫折したり、條約4カ国艦隊が兵庫に集結し朝廷の條約勅許を要求した時には、慶喜が朝廷と連携し幕府人事にまで介入したと、将軍・家茂が将軍職を辞任しようとする問題までにも発展した。こんな経歴の持ち主の一橋慶喜が徳川家茂亡き後の十五代将軍に就任したが、幕府棟梁となっても尊王精神を強く持つ将軍・慶喜は、伝統的な幕府政治と朝廷の間に立ち、時に大きな矛盾をさらけ出すことになる。

 
京都市左京区岩倉上蔵町、岩倉具視の幽棲した旧宅の門(左)と鄰雲軒と名付けた家屋
Image credit: 筆者撮影

一方、和宮降稼問題ではあまりに幕府よりだと讒訴され、命まで狙われ、京都の北の山際にある岩倉村に逼塞する岩倉具視は、将軍・家茂が亡くなると朝廷の権威回復の千載一遇のチャンス到来と、前の関白・近衛忠煕(ただひろ)や山階宮晃(あきら)親王が天下一新の行動を起こすべき時だと密かに説き、その実現に策を巡らせ始めた。また一橋慶喜が徳川本家を継ぐと、能力ある慶喜が征夷大将軍になった後の幕府はまた朝廷を圧倒するのではないかと、朝廷と幕府の関係を大いに心配し危機感をつのらせた。逼塞していても密かに政治体制を観察し、情報収集を行い、朝権の強化を願っていたのだ。

そこで岩倉は内大臣・近衛忠房や薩摩の大久保一蔵と接触を強め、また大原重徳(しげとみ)など多くの行動派公家と陰で密かに謀り、22人もの公家が御所に同時に列参し、大原が天皇に直接進奏する行動に出た。また公家たちの集団訴訟を実行したのだ。大原の進奏にいわく、二条関白や朝彦親王は退職し、長州から幕兵を引き、有栖川宮や前の関白・鷹司輔煕(すけひろ)などの幽閉を解き、天皇が早急に諸侯を召して国事をはかるようにという直訴だった。岩倉が大原などと計画した日本の現状を憂慮した行動だったが、結果的に岩倉自身の現役復帰にも良い影響が出るよう画策したわけだ。孝明天皇はしかしこの集団直訴を強く嫌い、「真の危機であった4カ国艦隊の兵庫集結時に黙っていて、今そんな件で直訴するとは全くの不敬だ」と全員に閉門、差控え、蟄居を命じこの計画は失敗に終わったが、逼塞中の岩倉具視の陰の策動が活発化し始めた頃のことだ。

不運にもそれから2ヶ月もせずに孝明天皇が急逝すると、若年の数えでまだ15才の睦仁(むつひと)親王(のち明治天皇)が踐祚(せんそ=皇位継承)の儀を行い、関白・二条斉敬(なりゆき)が摂政になった。これから3ヶ月ほど経ち、一応新帝の時代が始まると朝廷は、上述した孝明天皇の怒りに触れた罪で閉門・逼塞していた24人の公家を許し、皇妹・和宮降嫁の件で讒訴され落飾・逼塞していた岩倉具視など4人の入京を許した。上述の如く密かに勤皇志士と接触し活動を開始していた岩倉は、京都に住み朝廷に復帰することこそまだ許されなかったが、月に1度は帰宅し1泊することが出来るようになった。

♦ 兵庫開港勅許と長州処分の綱引き

こんな朝廷の状況下で征夷大将軍・徳川慶喜は、懸案だった兵庫開港勅許を慶応3(1867)年3月5日朝廷へ申請した。この件は前章の「7、長州征伐と条約勅許−条約国の兵庫沖への軍艦派遣と条約勅許」で書いたが、将軍・慶喜は、当時の幕府が4カ国へ約束した兵庫開港と、かって孝明天皇の命じた「兵庫は開港せず」という勅旨との矛盾を正式に解決したかったのだ。

幕府は、長州処分は国内問題として幕府ペースで処理できるが、現実世界で外交を行う幕府にとって、折に触れ武力行使をチラつかせ太刀打ちできない強大な諸外国が相手だから、まず外交問題を解決しておきたかった。生麦事件・薩英戦争や下関砲撃事件のイギリス主導の限定的戦争行為や、1年5ヶ月前の兵庫へ来ての朝廷に対する條約勅許強訴など、イギリスを始めとする諸外国の強大な海軍力を充分に経験済みだったから、主だった大藩に兵庫開港勅許申請の意見具申を命じ、3月5日朝廷に勅許申請を行ったのだ。将軍・慶喜は困難な外交問題を解決し、余裕を持って長州処分を解決したかったようだが、事実、早くもイギリスとオランダはその年の3月20日、兵庫港・新潟港の開港と江戸・大阪の開市時期が来年に迫ったので、本国でその布告を出したいと幕府に了解を求めてきた。幕府はすんなりとそれを承認しているが、強大な軍事力を持つ外国勢に対してはこうする以外に手はなかったし、慶喜の考えでもあったようだ。

その頃薩摩藩の家老・小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵などが、主だった諸侯の松平慶永、山内容堂、伊達宗城、島津久光などが再度上洛した上での話し合い実現を画策していたし、幕府もまた兵庫開港の勅許申請に関し彼らの上洛を促したから、早速久光、宗城、慶永、容堂、夫々が上洛してきた。4人の上洛を知った将軍・慶喜は再三にわたり二条城への登営を命じたが、4人は夫々の理由をつけ登営せずお互いの藩邸で頻繁に会っては意見の調整をした。久光は特に、幕府が兵庫開港を新聞に載せても良いと言ったいうイギリス公使館通訳・サトーからの事実確認情報を基に、将軍・慶喜が5カ国に開港・開市布告を許可したことに腹を立て、勅許を得ずに兵庫開港実施を列国公使に公約した幕府を強く非難した。確かに幕府は、大藩へ兵庫開港勅許申請の意見具申を命じたが、その公式な結論も待たず諸外国に開港・開市の布告を許したから、新将軍になっても幕府の独断行為は昔と変わらず、ただ朝廷をないがしろにするばかりだと、以前にも増して久光の怒りを爆発させたのだ。早速久光、宗城、慶永、容堂の4人は、まず長州処分を先に決めて国論を統一し、次いで兵庫開港など外交を議論すべきだと朝廷と幕府に強く建議した。久光は先ず内政を固め外交問題は公議で十分議論して決めるべきという立場であり、慶喜は焦眉の急になっている外交問題を先ず解決しその後十分に内政を固めるべきという立場の正面衝突だった。

将軍・慶喜が繰り返し熱心に求める兵庫開港を朝議すべく5月23日、朝廷から朝彦親王、晃親王、摂政関白・二条斉敬、前関白・鷹司輔煕、内大臣・近衛忠房やその他の中心となる役職が参加し、将軍・慶喜も所司代・松平定敬(さだあき)、老中・板倉勝静(かつきよ)やその他在京の役職を引き連れ、最初は参朝を渋った松平慶永や伊達宗城も召されて参朝し、徹夜の大議論が始まった。しかし島津久光は、朝廷内で将軍と意見を異にする危険性を考え、朝廷の強い要請にもかかわらず参朝しなかった。この会議で将軍・慶喜は相当な覚悟と剣幕で朝廷に迫ったようで、夜が明けても、結論が出るまでは退朝しないと居座った。伊達宗城は「大樹公の今日の挙動は実に朝廷を軽蔑すること甚だしく、言い表しようもなかった」と日記に書いたほどだ。これは突然に摂政として朝廷を主導せねばならなくなった摂政・二条斉敬を大いに困惑させたが、ようやく朝議を決し摂政・二条が出した結論は、「大樹も四藩も言上し朝廷も同意だから萩藩処分を寛にし、兵庫開港は大樹も言上し四藩も同様申上げたので止むを得ず差し允す」だった。これは双方の主張を全て入れた折衷案のようなものだったが、幕府にまず長州問題を解決すべしと建議していた久光、慶永、宗城、容堂は「この朝命は我々が建議したものとは大違いで、我々四藩は、長州問題と同時決定する兵庫開港に同意したものではない。本末転倒し驚愕に耐えない」と抗議文を朝廷に提出しその決定を非難した。朝廷は、朝議で決定し幕府に命じたからよく幕府と話をせよとこれを諭し、するりと身をかわしてしまった。

ここで一つだけ指摘しておきたいことがある。歴史的に明確な影響が不明のため、多くの歴史書では取り上げていないが、陰で薩摩と連携、策動し、半年後には突如として朝廷政治の真っ只中に登場する岩倉具視の兵庫開港と日本のとるべき進路についての考え方である。3月下旬に将軍・慶喜が大阪城で各国公使を謁見したと聞き、岩倉は朝廷が取るべき方策を国論として述べた「済時の策議」を摂政・二条斉敬に建策した。これは「1、朝廷主導で諸外国へ勅使を派遣し外交を始める 2、朝廷が正論で諸外国と通商規則を談判し、開港せざるを得ない兵庫は日本から開港を通告する 3、制度を変革し国政を一新する 4、山林原野を開墾する 5、租税の規則を定め徴収する 6、海外貿易を考究し、小学校を設け五倫の道を教育する」という建策だ。この六項目を実行し「兵庫は開港せよ」というものだった。このように岩倉は、朝廷主導で外交をさえやる時期であると建策し、一貫して朝廷主導の国政復活を画策し、その過程で薩摩と急接近したわけだ。

♦ 倒幕挙兵の秘密計画

一方、この様に少しも反省の色がないと幕府を非難する薩摩藩は、大久保一蔵を先頭に少し身の自由を得た岩倉具視と密かに謀り、王政復古計画を練り始めた。また、島津久光は伊達宗城と連名で再度朝廷に書を送り、兵庫開港の結論は幕府に話をせよとの朝廷の返答は全く理不尽だと詰め寄ったが、朝廷はもはやこれを聞かなかった。幕府や朝廷に話し合いで解決しようと出来る事は全て行ったと思う久光にしてみれば、これで全てが終わったのだ。久光はかっけ病を理由に京都藩邸から大阪に引き上げ、薩摩藩論は「倒幕挙兵」にしっかりと固まった。

慶応3(1867)年8月14日京都の薩摩藩家老・小松帯刀(たてわき)邸を密かに訪ねた長州の御堀(みほり)耕助は、小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵などと会談し薩摩の藩論を再確認したが、小松は最終決定した「倒幕挙兵」という藩論を明確に伝え、御堀とその方策や戦略を協議した。これで、従来からあった薩長両藩の互いの懐の探り合は終わったのだ。9月18日久光は、いよいよ長州と最終的な合意を確立すべく、挙兵倒幕の詳細を煮詰める目的で大久保を長州に派遣し、萩藩主・毛利敬親(たかちか)や藩家老とその手順を協議させた。この時大久保一蔵の日記によれば、毛利敬親は「皇居と天皇を護る事は実に大事であり、玉(=天皇)を奪われてしまっては実に致方なき事だと大変なご懸念を示された。返す返すも手抜かりはないと思うが、特別に念を入れ注意するようお頼み成された」と書いている。万一幕府に追い詰められた場合、「玉」である天皇を京都から脱出させる手はずまで整えたのだ。こうしておかないと自分たちが朝敵にされかねなかったからだが、過去に失敗し、朝敵になった経験から出た対策だった。更に数日後尻を押された広島藩もこの計画に賛同し、薩摩・長州・芸州の三藩同盟を作った。

長州から帰った大久保は10月6日、新帝踐祚の特赦で罪を許され役職に復帰した倒幕派公家の一人、権中納言・中御門経之(なかみかどつねゆき)の依頼と手引きで岩倉具視に会い、薩摩と長州は硬く同盟した事を伝えた。岩倉村に隠棲しながらも朝廷政治を心配し、待ちに待っている岩倉具視から希望した会見だった。そこで大いに安心した岩倉は大久保と王政復古の方策を協議し、新政府に移行した場合の太政官制度を提案し、また戦争になった時に掲げる錦旗の図柄まで示し大久保にその製作を一任した。大久保は早速大和錦などの素材を調達し、長州に製作を依頼し、周防・山口の政事堂と京都薩摩藩邸の奥深くに格納した。後に鳥羽・伏見の戦いでこの錦旗が非常な威力を発揮し、幕府軍総崩れの発端の一つに成るほど重要な働きをするが、岩倉具視の策士らしい先見性と準備だった。

2日後の8日には薩摩、長州、広島各藩の代表が中御門の邸に集まり、前権大納言・中山忠能と中御門に三藩の合意決議内容を説明し、更に小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵が三藩連合の趣旨を連署した書を提出した。そして2人の公家に「討幕の勅命降下」をぜひ斡旋してくれるよう依頼した。これと期を合わせるように、岩倉具視もまた王政復古遂行に関する「王政復古の議」を作成し、中山忠能を経由し天皇に密奏した。いわく「大小の諸外国は国を挙げて富強の策を取り、知識・技術を発展させ万里に雄飛し、世界情勢は一変している。こんな中、我が皇国の政体制度を革新し、萬世にわたる大条理を立て国是を確立し、衆心を一致させねばならない。しかるに、徳川幕府の貧政は名分の紊乱(びんらん=秩序の乱れ)をきたし、これでは万国と対峙不可能である。こんな征夷将軍職は断然廃止し、大政を朝廷に復し、賞罰・与奪の命を全て朝廷から出し、政体制度を革新し皇国の大基礎を確立し、皇威恢張の大根軸を確定すべし」と、新体制確立を目指す明確なものだった。

♦ 倒幕の蜜勅

かねて秘密裏に岩倉具視と連携している前権大納言・中山忠能と権中納言・中御門経之は、上述の如く薩・長・芸の三藩連合の趣旨と合意の決議内容を聞き、朝廷から倒幕の蜜勅を出すべく動き始めた。いまだ陰の立役者である岩倉具視が倒幕勅書の文案を整え、中山忠能が天皇に内奏し宸裁を得たという。これは朝廷の関白や摂政を経由する正規の手順を踏まない、名実ともに「蜜勅」だった。

薩摩藩に下された明治天皇からの倒幕勅書は慶応3(1867)年10月13日付けで、長州は14日付けであるが、同文で次のように書かれている。いわく「詔す。源慶喜は累世の威をかり、闔族(ごうぞく=一門)の強をたのみ、みだりに忠良を賊害(=殺傷)し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めておそれず。万民を溝壑(こうがく=どぶ谷)におとしいれて顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆せんとす。朕今民の父母となる、この賊にして討たずんば、何を以てか上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎(しんしゅう=深い恨み)に報ぜんや。これ朕が憂憤の在る所、諒闇(りょうあん=天皇の喪服期間)にして顧みざるは、万やむを得ざればなり。汝宜しく朕が心を体して賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山嶽の安におくべし、これ朕の願いなり、敢えて懈る(おこたる)ことなかれ。慶応三年十月十四日、正二位・藤原忠能、正二位・藤原実愛、権中納言・藤原経之、奉る」。すなわち、徳川慶喜は先祖の威をかり一門の勢力をもって忠義で善良な者を殺し、朝命を聞かず、孝明天皇の命を偽った。万民を苦しめ、日本はまさに転覆する事態だ。孝明天皇の喪はまだ明けていないが、万やむを得ない。賊臣慶喜を全滅させ、時勢を一変させ、万民を安心させよ、というものだ。そして、最後には中山忠能、正親町三条実愛(さねなる)、中御門経之の奉行によると書かれているが、この勅書は明治天皇の命による、この三人の執行であるということだ。裏では当然、岩倉具視が中心として動いていたわけだ。

本当にこれだけの、蜜勅の言う慶喜を殺すに値する慶喜の悪事があったかといえば、従来心から尊王の慶喜には値しない。慶喜が将軍であった期間、すなわち前年の12月5日から10月12日まではむしろ外交に専念し、朝廷を恫喝したのは兵庫開港の勅許を出させた時だけだから、これが万死に値するとは言えないだろう。しかし兵を挙げさせる勅書には、慶喜のみならず家定、家茂の時代からの幕府の行為を悪行として挙げつらい、こう書かざるを得なかったようだ。同時にまた朝廷から、松平容保と松平定敬は朝廷の膝元で幕府を助けたという罪により「誅戮を加えよ」という御沙汰書も出された。

この蜜勅が薩摩と長州に出されると、大久保一蔵から二藩の代表六人が署名した請書が岩倉と上記三人の公家宛てに出されたが、これらは全て秘密裏に行われたことで、幕府は全く探知できなかったのだ。

この倒幕の勅書はしかし、次に書く将軍・徳川慶喜からの大政奉還の上表が同じ十四日に出たため、しばらく延期することが急いで天皇に上奏され、薩摩と長州にも伝えられたという。

♦ 土佐藩の大政奉還建白、慶喜の上表

一方、薩・長・芸の倒幕計画が動くことを知った薩・土同盟下にある土佐藩の後藤象次郎は、かねて長崎から帰国・上洛の途次坂本龍馬と合意したと言われている「船中八策」を前土佐藩主・山内容堂に建策し、大政奉還を幕府に説くよう進言した。後藤は、何とか土佐藩が恩を受けたと思う幕府と薩・長の武力衝突を避けたいとの思いで、幕府への建言に先立ち、京都で薩摩藩家老・小松帯刀や西郷吉之助、大久保一蔵らと会い、幕府へ大政奉還の建白をする藩意を伝え了解を求めた。この時は、それまで強く拒否を貫いてきた薩摩藩の了解を取れたが、小松帯刀の理解が西郷や大久保の意見を抑えたようだ。翌日の慶応3(1867)年10月3日、後藤はさっそく容堂の命であるこの大政奉還論を徳川慶喜に建白し、その詳細を説いた。追い詰められていた慶喜はこの建白に従い、諸侯に諮った後、大政奉還を朝廷に伝えた。

この大政奉還は、上に述べたように薩長が岩倉具視と蜜策を巡らし討幕の勅命降下を画策している時期と同時期である。将軍も幕閣も、激しく幕府に対抗する討幕運動のような危険な動きがある事は捕縛者の自白等から知っていたようだが、朝廷から秘密裏に出された「倒幕勅書」までは知らなかった。

在京の老中・板倉勝静が江戸の老中に宛てた10月9日の手紙に「当地の今の形勢は実に容易ならず、全く切迫し、天皇の膝元の京都で暴動の兆しがあり、一同大いに心配している。夫々会議で対策を検討している。それというのも、今回松平容堂が当今の形勢は非常に苦しく、重臣・後藤象次郎を国許から派遣し別紙の如く建白書を差し出し、口述でも申し立てたが、現今の状況で行くとどんな危難が起るとも知れず、種々苦慮しているが、国体を一変し王政復古をすればその御名義で散々になった人心もまとまり、国内は治まるだろう。これ以外の良策があればこんなことを建白はしないが、容堂の見込みではこれ以外になく、皇国のため御当家のためと思い心より申し上げるとのことである。上様のお考えでも、今のまま経過すれば実に心配で心休まる暇もないが、何とか対策が無ければならない所だ。王政復古は正大至公の道理であり名義に於いて甚明ではあるが、さて実行する上での具体策は何も無い。さりながら、今すぐ何とか良い考えがあり人心の取りまとめができなくては、蟻集する浮浪はもちろん藩士間にもごうごうとして不穏な動きがある・・・先頃捕縛し自供した者によれば、京都を火の海にし各地から兵を揚げるというような陰謀が露見している。これらは浮浪の徒だけでもなく、陰では大藩の動きもあり長州人が最も関係しているようだ・・・」と述べている。

この様に将軍・慶喜を直接支える老中・板倉でさえ「王政復古を実行する上での具体策は何も無い」と白状している通り、つまるところ「公議を尽くし聖断を仰ぎ、策を立てる」という事だけで、新体制下でも主導権発揮を期待する幕府から見れば、いわば無策で返上してしまったわけだ。将軍・慶喜は、土佐藩の建白にある「上院に公家・諸大名、下院に諸藩士を選補し、公論によって事を行えば、王政復古の実を挙げる事が出来る」という考え方に大きな期待を抱いて決断したようだが、それ以上の具体策は何もなかった。この大政返上という考えは今初めて出てきたものではない。過去にも朝廷の態度が強硬になる都度、将軍後見職当時の慶喜自身を始め、松平慶永などからも何回も出てきた考えだったから、上院・下院を設け公論により決するという手続きがあれば上手く行くと慶喜自身は納得したのだ。そして、神祖すなわち徳川家康が天下の覇権を握ったのは天下が平和になることを願ったのであり、天下を私する意図ではなかった。今回自分が大政奉還するのも、同じく天下の平和を願うためだ。「政権を執る」と「政権を返上する」とは取捨異なる行為だが、天下を治め朝廷に奉ずる心は同一だ、との論理だった。

今回大政奉還に当たり、将軍・徳川慶喜は次のように上表した。いわく「臣慶喜が謹んで皇国の時運の歴史を考えますと、昔、王が綱紐(こうちゅう)を解き、摂政が権を執り、保元・平治の乱で政権が武門に移ってから、祖宗(=徳川家の歴代将軍)に至り、更に寵眷(ちょうけん=寵遇)を受け、二百余年の間子孫が相受し、臣(=慶喜)がその職を奉じたとはいえ、政刑は妥当適切を欠くことが少なくなく、今日の形勢に至ったことは、詰りは薄徳の致す所と慚懼(ざんく=恥じ恐れる)に堪えません。まして当今外国の交際は日増しに盛んになり、いよいよ朝権が一途に出なければ綱紀(こうき=国家の大法・細則)は立たず、従来の旧習を改め、政権を朝廷にお返しし、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力し共に皇国を保護すれば、必ず海外の万国と並び立つことになりましょう。臣慶喜、国家に尽くす所はこれに過ぎるものはないと存じます。しかし、なお意見があれば上申すべく諸侯へ命じてあります。この様に本件を謹んで奏聞致します。以上。十月十四日 慶喜」。翌日の十五日、朝廷はこの返上を受け入れる許可を出し、一応諸議案を公議に付する建前になった。

戊辰戦争勃発と徳川慶喜の帰東

♦ 王政復古のクーデター

10月13日付けの倒幕の勅書を受けた薩摩藩の小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵などはすぐに帰国報告し、藩主・島津茂久が兵を率いて上京する藩議を決め準備に入り、茂久は病気の久光の代理として11月23日京都に入った。長州からも毛利内匠が8中隊の兵を7艘の艦船に乗せ、船檣に薩摩と芸州の旗をつけ西ノ宮にまでやって来ていた。

慶応3年12月8日摂政二条斉敬の主導により、長州赦免の処置と外交問題について朝廷のメンバーと旧幕府及び在京諸侯の合同評議が始まった。しかしこの席には徳川慶喜、松平容保、松平定敬らは病と称して参朝しなかったが、この欠席は表面上、負け戦だった幕府が仕掛けた長州征伐の処置として、長州の赦免を議するのだから、大政奉還した今は「勝手にお決め下さい」という朝廷側への意思表示だったともとれる。しかし実際には、朝廷の王政復古クーデター決行予定が土佐藩の後藤象次郎から越前の松平慶永に極秘に伝えられ、慶永から徳川慶喜に伝えられていたのだ。慶喜は、政権も返上し軍職も辞職したから、朝廷で王政復古を行う事は当然だろうと平静だったという。この幕府の出席しない朝廷評議では、萩藩主・毛利敬親父子とその末家の官位を元に復し入京を許すと同時に、長州の重臣が兵を率いて上京すべきことも命ぜられた。また逼塞していた前右近衛権中将・岩倉具視などが元の如く許され復職し、家に帰ることが出来るようになった。

この評議は9日の明け方まで続き、摂政・二条斉敬以下の公家主要メンバーは散会と共に退朝したが、岩倉具視と気脈を通じる中山忠能と正親町三条実愛、更に前名古屋藩主・徳川慶勝、前福井藩主・松平慶永、広島藩・浅野茂勲などはそのまま宮中に留まった。名古屋、福井、広島は、あらかじめ岩倉から極秘にクーデターの手順を知らされていたのだ。そして前日の会議で公式に許され復職したばかりの岩倉具視は9日朝、朝命に従いさっそく参朝し、それまで密かに共同で策を練ってきた中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之と共に明治天皇に会い、以前に宸裁を経た王政復古の大策を断行すべきことを上奏した。そしてクーデター開始に当たりまず御所を封じるため、ただちに薩摩の西郷吉之助が朝命により藩兵を指揮し、建礼門、建春門、宜秋(ぎしゅう)門、清所門、乾(いぬい)門などで御所の守りを固め、名古屋、福井、高知、広島の4藩は夫々の兵を集め命じられた部署につき、禁門の守備が完了した。これは御所を封じ、佐幕派の二条斉敬や朝彦親王、あるいは万一慶喜などの参朝でもこれを差し止めるものだった。

この時までには主だった朝廷の公家、在京諸侯も次々と参朝し、天皇が学問所に出御し、王政復古の勅書を出した。すなわち仮に総裁、議定、参与の三職を新設し、神武創業時のごとく日本の政治を改革するという聖意を述べた。これは旧来あった役職の摂政、関白、征夷大将軍、議奏、伝奏、国事掛、京都守護職、京都所司代などの官職を廃し、征夷大将軍・徳川慶喜の辞職を聞き入れ、摂政・二条斉敬、国事掛・朝彦親王や議奏国事掛・柳原光愛などを罷免し参朝を停める処置だった。有栖川宮熾仁(たるひと)親王が総裁につき、この王政復古を陰で推し進めた中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之が議定に、岩倉具視は参与につき、薩摩の大久保一蔵や西郷吉之助は特別命令により会議に参加することになった。

これは、岩倉具視が中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之などと慎重に準備し天皇を巻き込んだクーデターだ。大久保一蔵や西郷吉之助などが御所を警備しそれを支えた形だったが、これは4年前の文久3年8月18日に孝明天皇主導で過激派公家や長州を排除した時と良く似たやり方だ。当時も薩摩藩が会津藩などと共に御所の警備という同じ役回りだった。

♦ 鳥羽伏見の戦い

9日の天皇の王政復古勅書表明の後、ただちに新しく任命された総裁・有栖川宮を始め中山、中御門、大原、岩倉などの公家、そして徳川慶勝、松平慶永、山内容堂、浅野茂勲、島津茂久などの諸侯各職が小御所に集まり天皇の前で評議が開催されたが、この会議からまた歴史が大きく動き出す。

「徳川慶喜公伝」によれば、天皇の御前会議が始まると公家側から、徳川慶喜は政権を返上したが、本当の忠誠心から出たものか不明である。実績を示す必要があるとの強硬意見が出た。慶喜の辞官・納地を示唆したものだった。これを聞いた山内容堂が、この会議に慶喜を出席させないのは陰険なやり方だ。3、4人の公家が年若い天皇を操り政治的実権を盗もうとしている、と強烈な意見を吐いた。これを聞いた岩倉具視は「天皇の御前での言葉を慎め。このたびの挙は全て天皇の宸断から出たものだ」と叱りつけたという。容堂の発言は事実を突いたものではあったが、天皇の権威をもって宸断だ言われては陳謝するほかなかった。深く策をめぐらしてきた岩倉や中山、正親町三条らは、このクーデターの権威付けを注意深く積み重ねていたのだ。佐幕の武家側と革新を目指す公家・武家側で議論が大沸騰して深夜に及んだが、結局慶喜に大将軍辞職を許し辞官・納地を命ずることに決し、天皇の宸裁を経た。この決定は徳川慶喜に近い徳川慶勝と松平慶永を二条城に派遣して慶喜に諭させることにし、また会津藩と桑名藩については帰国を命ずることに決定した。この二つの決定は、いかにして幕府と会津・桑名がすぐ軍事力使用に打って出て内戦に発展しないようにするか、岩倉などにかなりの考慮と作戦があったように見える。

すでに怒りに満ちた徳川恩顧の多くの旗本や会津・桑名を始め彦根・津・大垣など親藩の兵が大挙して詰めている二条城で翌10日、慶勝と慶永が慶喜に会い会議の決定事項である「辞官・納地」を伝えた。2人は慶喜が奏上する回答の内論として、官位は一等を辞退し、納地は400万石の半分を新政府の入費として差し出す案を示した。慶喜は、この様に怒り立つ旗本や親藩がいる中での即答は避けたい。暫く検討と冷却期間を欲しいと回答を延ばした。尊王の慶喜にしてみれば基本的に朝廷の命を奉ずるに異存はなかったがようだが、怒り狂った兵たちの暴発が最も怖かった。不用意に暴発し局地戦にでもなれば朝敵になりかねなかったから、そうなれば尊王の慶喜には死ぬより辛いことだろう。徳川慶喜は二条城の諸隊長を集め「慶喜が切腹したと聞けば好きなようにしてよい。生きている限りは暴発を押さえよ」と命じたほどだ。しかし薩摩の謀略だと益々怒り狂う状況を放置できず、慶永の意見も入れ、いったん二条城から大阪城へ後退した。

それまで機会を見ては兵を上げる強硬意見だった薩摩の大久保や西郷も、暴発を避けようと大阪に退いた慶喜を見て、13日には様子を見るべく態度を軟化させた。そして岩倉も早々に慶喜が軽装で上洛し、官位は朝廷の伝統的な辞官で使われる「先内大臣」とし請け書を出すべきだとも示唆していた。しかしこれから10日間ばかりは、慶勝、容堂、慶永などが中心に公家側に説いて、納地をより公平に取扱うべく巻き返しを図りはじめた。そして徳川家が返納する納地については「新政府の政務に必要な分は、徳川領地の中より取調べの上、新政府会議の公論を以て確定する」ということでほぼ合意し、徳川慶喜が上京し自ら奏上し申請する事を待つばかりになった。慶喜はしかし、身内を説得するには新政府に必要な経費を全国の高割りで課すべきだとの意見を持っていた。朝廷と徳川慶喜の間を調停する松平慶永とその忠臣・中根雪江は、岩倉具視との根回しに全力を注ぎ、明けて明治1年1月2日、岩倉と中根は慶喜の上京と奏上の詳細手順を詰める段階にまで進んだ。薩摩藩の大久保一蔵の突き上げは激しかったが、岩倉は出来ることなら武力解決を避け、徳川慶喜がおとなしく上京し朝廷の意を尊奉する態度を見せれば、領地返納の件も諸藩の高割りで解決したかったように見える。

 
京都市伏見区御香宮門前町にある御香宮神社(左)と西奉行町にある伏見奉行所跡の碑
Image credit: 筆者撮影

このように新体制で朝廷の会議が進み、松平慶永や松平容堂の斡旋が進む中、幕府側は12月の中ごろまでには、直属の旗本や親藩藩兵を播州街道の西宮や札ノ辻、、奈良街道の河堀口、京都街道の守口、淀、八幡、山崎、枚方及び大坂城外の要所に配置していた。そして新撰組も伏見にやってきた。一方の薩摩と長州も、12月8日には伏見の御香宮神社に薩摩藩が警備部隊を置いていたが、500mほど南に伏見奉行所を見下ろす最前線だった。このように伏見、鳥羽方面を厳重に警備し守りを固める薩摩と長州は、新撰組が伏見に入ると更に伏見警備の兵を増強し、京都市中の巡回も強化し、双方のにらみ合いになっていた。

しかしこの頃江戸では、10月のはじめ頃より西郷吉之助の命令で、江戸市中の浪人を集め挑発的な破壊工作を図り、浪人による略奪や殺傷が繰り返され、市中の撹乱を煽った。幕府江戸警備陣の内偵が進むと薩摩の画策であることが判明し、その中心になっている薩摩藩邸への攻撃が命ぜられ、12月25日の夜明けに薩摩藩邸の焼き討ちが行われた。上述の如く辞官・納地も解決するかに見えた28日、江戸における薩摩藩邸焼き討ちのニュースが大阪に届くと、それまで慶喜がやっと押さえていた旗本や会津、桑名の怒りがいっきに爆発した。そこで「12月9日以来の非常の御改革(クーデター)は朝廷のご真意ではなく、松平修理大夫奸臣らの陰謀である事は天下に明白である。江戸、長崎などの乱暴や強盗は薩摩の唱導である。これらの奸臣どもをお渡し願いたい。ご採用なければやむなく誅戮をくわえ申す」と朝廷宛ての奏聞書を作り、遂に慶喜は討薩の兵を動かさざるを得ない事態にまでなった。そして大阪城から、討薩の奏聞書を朝廷に届けるという名目で北上を始めた。これはしかし、後に慶喜が「一期の失策」と大いに後悔しているが、押さえに押さえてきた暴発を「例え刺し殺されても会津・桑名の二藩を帰国するよう諭し得ず、いかようとも勝手にせよ」と許してしまったことによるものだ(「昔夢会筆記」)。それまでの慶喜自身の努力が、全て水泡に帰した一瞬だった。

この徳川慶喜率兵上洛の報に1月3日、急きょ朝議が召集された。討幕派の薩摩を代表する大久保一蔵の錦旗を押し立てた徳川征討の意見と、松平慶永のこれは旧幕府と薩摩の私闘であるという意見がぶつかり議論が激しく沸騰した。慶永の意見は、江戸その他の町で撹乱戦法を取る薩摩の悪行に怒った徳川方が、薩摩だけを討伐しようとする私闘で、決して朝廷に刃向うものではないというものだ。しかし最終的に岩倉具視も徳川征討の意見を出し、会議は徳川征討に決まり急転直下の激突になる。出来るだけ武力衝突を避けたかった岩倉にしても残念であったろうが、京都に向け兵を進める慶喜を、もはや弁護する理由を失ってしまったのだ。


京都市伏見区淀本町にある淀城址天守閣石垣
Image credit: 筆者撮影

北上を始めた慶喜の先鋒隊は、明治1年1月3日早くも淀川から宇治川を遡り伏見の京橋に着いた。これを阻止しようとする薩摩藩との間に小競り合いが起ったが、折りしも申の下刻、すなわち午後五時頃鳥羽の方角から聞こえた1発の砲声に触発され、御香宮神社の東の高台に据えた薩摩藩の砲が火を噴き伏見奉行所を攻撃し始めた。奉行所の新撰組や伝習隊は善戦し、薩摩軍は後退した。しかし翌4日には官軍が錦旗をなびかせ進軍を開始するとたちまち形勢が変わり、徳川軍は淀まで後退し淀城に入り体制の立て直しを目指した。しかし、当時の淀城は幕府老中を勤める稲葉正邦の居城だが、なんと後退する徳川軍の入城を拒んだのだ。淀藩は錦旗を押し立てた官軍に対抗して朝敵となることを明確に拒んだわけだが、これが更なる徳川軍の背走後退につながった。淀城に入れない徳川軍が山崎近くに後退すると、徳川軍が山崎に配備した津藩からまで突然砲撃をされ大混乱に陥り、勢いに乗る京都からの薩長軍は徳川軍を更に追い落とし、遂に大阪城内にまで後退させてしまった。

慶喜に言わせれば、薩長からの砲撃が引き金になった。徳川側からの攻撃ではないと言いたかったろうが、錦旗がひるがえり、全軍が大阪城まで後退してしまえば、一番避けたかった朝敵そのものになってしまったのだ。上述の如く、岩倉具視がこのデザインを大久保一蔵に渡し、大久保の買い揃えた大和錦などの素材で長州が製作した、官軍を象徴する錦旗の威力は絶大なものだった。当時は、それほどまでに天皇に刃向かうことが大罪となり、兵の勇気をたちまちにくじく程恐れ多い行為だったのだ。

♦ 徳川慶喜の東帰

大阪城内の旗本諸兵の隊長たちはまだ諦めず、慶喜の出馬を得て、薩長側に再攻撃を仕掛けるよう慶喜に迫っていた。しかし始めから戦意はなく、徳川方の暴発を極力押さえてきた徳川慶喜には、朝敵になっては「謹慎して命を待つ」以外の意思はなく、更なる方策もなかった。1月6日夜の亥の刻、すなわち午後10時ころ、それまで密かに慶喜の意を受け大阪脱出を準備していた側近は、慶喜及び松平容保、松平定敬その他老中・板倉、酒井など少人数を伴い旧幕府軍艦・開陽丸(2590トン)の待つ大阪天保山に向かった。開陽丸は幕府がオランダに発注した軍艦で、日本に到着し幕府に引き渡され、まだ1年にも満たない最新鋭艦だった。

慶喜一行が天保山に着くと、不運にも沖に停泊するはずの開陽丸は薩摩の軍艦を追討中で認識できなかった。夜中にうろつくことも出来ず、とりあえず岸近くに停泊する米国軍艦・イロコイズ号(1488トン)に乗り込んだ。突然の珍客に、米艦では酒肴を出して厚くもてなしたという。徳川慶喜は大阪城に滞在中、外交問題に専念し外国公使たちに何回も謁見したが、特にアメリカのバン・バルケンバーグ公使は慶喜のリベラルな態度に良い印象を持っていた。前年の8月にはバン・バルケンバーグ公使が幕府に書簡を送り、日本政府が米国のサンフランシスコに領事を駐在させることを勧めてさえいる。そんな引き続きの確固たる信頼関係もあり、日本開国当時から條約国中の先輩でもあるアメリカ軍艦を選んだのだろう。慶喜は後にこの時のことを、米艦に頼んで江戸まで乗せてもらおうと思ったが、あまりに突然な要請になるのでフランス公使・ロッシュに相談し紹介状を書いてもらい米艦に乗り込んだと言っている。いずれにしてもその内に開陽丸も帰港し、将軍・慶喜は2時間ほどイロコイズ号に滞在の後、さっそく開陽丸に乗り移った。

それまで南北戦争のゴタゴタで軍艦を派遣できなかったアメリカも、この当時はすでにイギリスに次ぐ数の軍艦を日本に滞在させる余裕が出来ていた。そして官軍の討幕活動の間、バン・バルケンバーグ公使はこれらの軍艦に避難し、イギリスやフランスの公使も同様に自国軍艦に非難し、イタリア、オランダ、プロシャなどの外交官も夫々米・英・仏から軍艦への避難を受け入れられていた。

こんな経緯の後大阪を出航した開陽丸は、途中暴風雨にも悩まされ難航したが、12日、徳川慶喜一行は無事江戸城に帰着した。慶喜が脱出し城主不在になった大阪城は徳川慶勝と松平慶永に託され、2人はその旨朝廷に奏上した。天皇はさっそく大将軍・嘉彰(よしあきら)親王に大阪城を本営とさせ、ここから四方の指揮を取ることを命じると、慶勝と慶永は入城に先立ち大阪城を点検し大将軍を迎える準備に入ろうとした。しかしこの時、長州がやったといい、薩摩だといい、会津だといい原因が定かでないが、混乱に乗じて大阪城は二番櫓、三番櫓、伏見櫓などを残しほぼ全焼してしまった。

♦ 六カ国列国公使への通告と外交団の中立性

少し遡るが、旧幕閣は明治1年1月3日に討薩の奏聞書を朝廷に提出するため先鋒隊が出発すると、英、米、仏、蘭、伊、普(プロシャ)の6カ国に対し老中・松平正質(まさただ)、板倉勝静、酒井忠惇(ただとし)の連名で注意を促す書簡を送った。いわく「松平修理大夫(=島津茂久)の家来は、日本国内の変革に乗じ不正な挙に及んだので鎮定するつもりである。條約で禁じている私貿易をしたり、日本政府以外へ武器や軍艦を売ったり、非開港場に船を着けたりすることがない様、厳重な條約遵守を貴国臣民へ布告願いたい。・・・薩摩の艦船は全て逮捕し、もし抵抗する場合は武力を用いるよう命じてある。もしそれに乗る外国人が有る場合は、勤めて危難に遭わないようようにしその国の官吏に引き渡すが、もし武力対決になった時は、その者の不了見から出たことであり、生命の安全は保障できない。また武力逮捕になる場合でも、貴国軍艦の介入はないものと信ずる」というものだった。

この通告書は、いわば日本国内の内紛に関する外国軍事力の中立性を確認するものだが、これを見る限り、諸外国と15年にもわたる外交交渉を通じ経験を積んだ当時の幕閣や外国奉行は、かなりのレベルで外交関係を処理できていたようだ。これに対しアメリカ公使・バン・バルケンバーグは、日本政府の敵は松平修理大夫1人なのか同盟者が居るのかとたずねてきたが、老中・酒井、板倉は修理大夫1人だが、与党するものがあれば誅戮すると回答した。このように分かりにくい日本国内の政治状況の再確認も、各国の主要な懸念事項だった。

3年半前の下関戦争のときも、英、仏、蘭、米の4カ国間では日本国内の内紛に加担しないという約束が出来ていたが、局外中立は外交の基本だ。しかし老中・板倉勝静などが上記の通告書をわざわざ出した裏には、表面的には中立を保つように見える当時の外交官の間でも、現実問題として大きな温度差が存在したからだと思われる。現在広く知られているが、薩英戦争以来の薩摩藩とイギリスは急速に接近した。イギリス人のグラバーなど武器商人は薩長に武器を大量に売り込み、イギリス公使館通訳・サトーは1866(慶応2)年3月から、若しこれを日本人が書けば必ず死罪にされたほどの幕府非正統論「英国策論」を横浜外人居留地で発行されていたジャパン・タイムスに寄稿したり、薩摩藩士・西郷吉之助や長州藩士とも親しいつながりがあった。この英国策論の日本語バージョンもサトー自身が書き、当時密かに版木印刷され出回っている。ハリー・パークス公使もグラバーの仲介で、イギリス東洋艦隊を指揮する司令官・キング海軍中将と共に招待によるとして鹿児島や宇和島に夫々5日間も滞在し大歓迎を受け、非公式に改革側に影響を与えている。明らかに老中・板倉などは、こんな薩摩寄りの行動を牽制したかったのだろう。

また、オランダは当時イギリス寄りだったが、これに対しフランスは明らかに幕府よりで、これ以降も旧幕府方に経済的援助をも意図したほどだが、プロシャやイタリヤはむしろフランス寄りだった。一方のアメリカはより中立で、内紛の一方に加担する可能性があると、幕府の発注した鋼鉄軍艦・ストーンウォールの引渡しを一時拒んだほどだった。しかし、バン・バルケンバーグ公使の心情は、幕府に好意を持っていたように見える。

 

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11/28/2008