日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

Google サイト内を検索    
WWW を検索 このサイト内 を検索

     1、日米国交樹立以前          2、和親条約と開国        3、通商条約と内政混乱      4、初めての遣米使節    

        5、開港と攘夷行動         6、薩英戦争と下関戦争   7、長州征伐と条約勅許       8、大政奉還と新体制    

 

6、薩英戦争と下関戦争

薩英戦争

♦ 背景

幕府は安政の5カ国条約にしたがって開港したが、当初の期待通り「人心の折り合い」に向かうどころか「人心の離反」が進む逆境になり、井伊大老の安政の大獄で多くの処罰者が出た。こんな状況下で上洛した島津久光は、朝廷にその事後策を建策し、朝廷は久光の案を実行すべく勅使を下向させ、久光に勅使の護衛を命じた。この江戸からの帰り道で久光一行は、文久2(1862)年8月21日生麦事件を起こした。イギリスは翌年の5月9日幕府にこの生麦事件の賠償金として44万ドルを支払わせたが、まだ薩摩へ要求した条件の結論が出ていない。この解決のためイギリスは、支那艦隊司令長官・キューパーが指揮する艦隊を薩摩に向けた。

一方、その後真っ向から攘夷要求を掲げる朝廷は、文久3(1863)年春に上洛した将軍・家茂にはっきりした攘夷期日とその方策を示せとせまり、家茂は京都で捕虜になったのではと見まがうばかりに留め置かれた。もはや孝明天皇には頭も上がらない。攘夷はどうするのだ、何時行うのだと朝廷から責められて、何の政治的、軍事的裏付けもないまま文久3年4月20日、「5月10日に攘夷決行」と答えてしまった。この5月10日になると、先鋭的な長州の攘夷派は下関海峡でアメリカ商船・ペンブローク号を砲撃した。さらにフランスやオランダの軍艦をも次々と砲撃したが、これが次章で述べる「下関戦争」のきっかけとなる。

♦ イギリスの思惑と薩摩の思惑


鹿児島市、城山公園展望台より桜島を望む
(桜島と手前の市街地間の海上で英国艦隊が行動した)

Image credit: 筆者撮影

こんな風に攘夷行動が激化する中、前章の「5、開港と攘夷行動−戦争の危機と賠償金支払い」で書いたように、イギリスは幕府から44万ドルの生麦事件賠償金を取ったが、肝心な薩摩との交渉がはかどらない。そこでニール代理公使は、イギリス政府の指示通り艦隊司令長官・キューパーと連携し、6月22日(1863年8月6日)旗艦ユーリアラス号はじめ合計7艘の軍艦で横浜を出港し、ニール自身が鹿児島で薩摩藩と直接交渉に乗り出した。鹿児島に着いた艦隊は6月28日、城下の前ノ浜前方に停泊し、ニールは藩主・松平修理大夫(島津茂久・もちひさ)宛に生麦事件の賠償要求書を送り、24時間以内に回答を出せと迫った。内容は前章「5、開港と攘夷行動−生麦事件へのイギリスの要求」で書いた通りである。ニールとキューバーは薩摩に7艘ものイギリス艦隊を見せつけ、威圧によって決着をつけたかった。大艦隊の横浜集結に恐れをなした幕府も5月9日、44万ドルもの大金を一括で支払ったから、彼らは鹿児島でも同様に発砲せず事が運ぶことを期待していた。

薩摩藩政府はこの賠償要求書に対する返書を送り、書簡の往復では「弁知致し難き義これ有り候間」明日「水師提督その餘重役の面々上陸あらんことを乞う」と、書簡では分からないから陸上で直接話そうと誘いをかけた。しかしキューパーやニールはこれを薩摩藩の計略であると感じ上陸を拒否した。薩摩側は更に計略を練って、小船を7艘集めこれにスイカやその他必需品を積み、商人を装った侍を乗組ませ、7艘の軍艦に接近し夫々の軍艦に乗り込む。これを合図に砲撃をし勝利しようと謀った。イギリス側もこれも計略だと見破り、旗艦のユーリアラス号のみに1艘の小船の商人の乗艦を許し、武装した警護兵が日本人を取り囲んだ。乗船した日本人は皆「決死の士」として選抜され、久光と茂久に別れの杯をもらった勇者であったがなすすべがなかった。

更にまた薩摩藩家老・川上但馬も書簡をニールに届けたが、ニールは、翻訳のため時間が要るから明朝来いと使者を帰した。艦隊には毛筆の日本語をも学んでいた若いイギリス人翻訳官・サトウも乗組んでいたが、翻訳の後に作戦を立てる時間も必要だったのだろう。

♦ 薩英戦争

現在の鹿児島港近辺、下図とほぼ同一縮尺で対比
(図の右下、桜島港の南側に大正3年、桜島の
大噴火で溶岩流が海中に大量に張り出し、
薩英戦争当時からの地形が大きく変った)

Image credit: Yahoo! Japan, http://map.yahoo.co.jp/
薩英戦争当時の英国艦隊砲撃行動軌跡
Image credit: 「大久保利通傅」、勝田孫弥著、
明治43年、同文館、国会図書館蔵

明朝また薩摩は2人の伊地知を談判使節として艦隊に送ったが、ニールはそれまで提案された薩摩側の書簡内容を全て拒否し談判は進まなかった。この時イギリス側の測量・偵察隊が鹿児島湾奥深くの重富に停泊していた薩摩所有の汽船、天佑丸、白鳳丸、青鷹丸の3艘を発見しこれを拿捕した。これはキューパーが賠償金の一部として薩摩の資産を差し押さえるという本国政府の命令に従った行動だったが、これを見ていた薩摩側も終にこらえきれず7月2日発砲命令が出され、双方からの正式な開戦通告もないまま打ち合いとなり戦いの幕が開いてしまった。

これはたまたま暴風雨の中の出来事だったが、キューパーは薩摩の砲撃が始まると捕獲した3艘の汽船を焼き払い、いったん湾の北側の磯の方角に向かって単縦陣を作って進み、海岸に沿って南下しながら祇園之洲砲台を破壊し新波止砲台や弁天渡砲台などに向かって砲撃した。しかし新波止砲台前辺りから先頭を行く旗艦ユーリアラス号に薩摩砲台の砲火が集中し、艦長以下多数の死傷者を出した。ユーリアラス号が進むこの位置(右・下図の赤印)は、たまたま薩摩藩砲台の訓練用標識を立てる場所だったから、練習時の照準をそのまま実戦で使えたわけだ。イギリス艦隊では死者13人、負傷者50人が出たという。これに対しイギリス側は炸裂砲弾やロケットと呼ぶ一種の焼夷弾をも多用したから、暴風下の城下町で火災が発生し多くの町屋や仏閣が消失し、磯にあった斉彬以来の集成館も大被害を受け焼失してしまった。拿捕され焼失した3艘の薩摩所有の蒸気船のほかに、磯近くに停泊する数艘の商船も砲撃され焼失した。

翌3日には風もなくまた砲火を交えたが、それも散発的に止み、突然イギリス艦隊は横浜に向け引き上げた。旗艦ユーリアラス号の艦長の戦死をはじめ予想以上に多くの死傷者が出たため一時的な戦意消失と、多くの軍艦修理などのための体勢建て直しであったようだ。

この戦闘で双方に少なからぬ被害があったが、薩摩ではイギリス艦隊の再来襲を非常に恐れていたし、イギリス艦隊にも多くの修理が必要となり、横浜には再出撃で必要になる陸戦隊も十分でなく、すぐには引き続きの鹿児島出撃が出来なかった。横浜に帰ったニールは1ヶ月後の8月12日幕府に書簡を送り、薩摩がイギリスの要求に従わなければ再度艦隊を鹿児島に派遣すると通告した。

♦ 賠償金の支払い

イギリス艦隊再来襲を非常に恐れる薩摩では平和解決を模索し、家老代・岩下と応接掛・重野の2人の使者を横浜に送り、9月28日よりニールと交渉に入った。平和構築が目的だから、薩摩もほぼイギリスの言い分を認めざるを得ない。ある程度の交渉の輪郭が見えると岩下は重野を京都にいる久光の元に急派し、交渉内容を説明し指示を仰いだ。久光は「猶また臨機応変、無事を謀るべき旨」を申しつけ、とにかく先ず平和決着を図れと指示した。11月1日ニールと会見した薩摩の使者・岩下たちは、賠償金10万ドル(2万5千ポンド相当)を支払い、犯人処刑を約束する証書を与えた。一方イギリスも薩摩の軍艦購入の周旋をする証書を与えたが、これで生麦事件の賠償交渉が解決した。

イギリスと交渉した薩摩の使者・岩下らはしかし、約束した賠償金の10万ドルという大金を工面できない。そこでうまく幕府から借金する形で金を用立てることに成功したが、その後これが幕府に返還されたか筆者は知らない。

歴史的にはここからイギリスと薩摩は急速に接近するが、この薩英戦争でイギリスの実力を理解した薩摩藩が、軍事力増強にイギリスの手を借り始め、将来の人材育成のため、幕府には内緒で留学生をイギリスに送り始めるのだ。また京都に居る久光はこの戦争経験から、必ずや戦争になるであろう横浜鎖港の不可を幕府に強く説き、大阪や兵庫の海防強化を説いたが、朝廷の歓心を買おうとする幕府と薩摩藩の感情的な乖離が始まる。

♦ イギリス国内の反応

ニール代理公使は、微妙で困難な政治問題を外務大臣・ラッセル卿の指示どうり処理したということで、名誉ある「バス勲章三等(The Companion of the Order of the Bath)」を授与された。このバス勲章は軍人や文官に授与されるものだったが、大変な勲章のようである。しかし一方イギリスの新聞や議会では、鹿児島の町が焼かれ、罪もない一般人が犠牲になったという議論が巻き起こり、議会の冒頭、偶然に鹿児島の町を焼いてしまったが当初から意図したものではなかったという「女王の遺憾の意」が表明される程までに議論が沸騰した。パルメストン内閣の落ち度だとして反対派の攻撃対象になり、「軍靴や剣を鳴らした外交」と非難された。こんなイギリスの民主主義の声は、次に書く下関戦争でも大きな影響を与える。

下関戦争

下関戦争は薩英戦争に比較し、まわりの環境要素が複雑に絡み合っている。したがって記述もその分膨らんでしまう。

♦ 長州の外国船砲撃事件


下関市、火の山公園展望台より関門海峡、西方向を望む
(タンカーの航行する辺りが、潮流の最も早い壇ノ浦付近)

Image credit: 筆者撮影

朝廷からの度重なる攘夷圧力で、ついに将軍・家茂は朝廷に「5月10日」の攘夷開始を約束したが、攘夷実行を掲げる長州は文久3(1863)年5月10日、下関海峡東側の田ノ浦沖で汐待のため仮停泊したアメリカ蒸気商船・ペンブローク号を月のない真夜中の午前1時に突然砲撃した。将軍・家茂が朝廷に約束した5月10日の攘夷を即実行したのだ。この商船・ペンブローク号は4日前に横浜を出港し、ウォルシュ・ホール商会の船荷を積み長崎経由で上海に向かう途中であったが、当時長州で使っていた帆走軍艦・庚申(こうしん)丸と葵亥(きい)丸を使った攻撃だった。

下関海峡は最も狭いところで巾600メートルくらいしかなく、うねりながら東西に20キロメートルほども続く狭く細長い海峡だから、潮の満ち干きによる潮流が発生し、西向きに、又は東向きに最高5ノット、時速9キロメートル程の速さで流れる。当時の蒸気船の航行速度は、軍艦でもせいぜい最高時速10ノット程だったから、下関海峡航行時は、安全航行と燃料節約のため時として汐待をした。この時は闇夜だったし蒸気もすぐ上がり、運が良かったのだろうか、ペンブローク号は被害もなく豊後水道に逃げることが出来た。

これから約2週間後の5月23日、フランスの小型報道軍艦・キエンシャン号が横浜から長崎に行く途中下関海峡を通ったが、長州はまた庚申丸と葵亥丸から砲撃し、陸上の前田、壇ノ浦、専念寺などの砲台からも砲撃した。たまたま潮流は西向きで、この潮流に乗ったキエンシャン号は応戦しながら逃げ切った。長崎に着いたキエンシャン号は、横浜に行くオランダ軍艦・メデュサ号に委託し、下関での砲撃事件を横浜のフランス艦隊司令官・ジョレス提督に報告した。この横浜に行くオランダ軍艦・メデュサ号もまた5月26日下関海峡を通ったが、長州は再び砲撃をした。このように半月足らずの間に3艘もの外国船を砲撃したのだ。海峡は完全に封鎖状態になった。

♦ アメリカとフランスの個別報復

 
前田御茶屋台場跡の碑及び明治天皇行啓記念碑(左)と、台場跡から海峡を望む
ワイオミング号はこの台場の前方150m位を通り、全ての砲弾は頭上を通過した

Image credit: 筆者撮影

国威を侮辱されたと6月1日、まず下関に来て報復砲撃を加えたのがアメリカ政府海軍の蒸気軍艦・ワイオミング号だった。ワイオミング号は、たまたま南軍の軍艦を追跡して横浜に来ていて、商船・ペンブローク号が長州から攻撃されたことを知ったのだ。ただちに横浜から単独で下関に来たワイオミング号は、陸上からの砲撃をものともせず侵攻し、出来るだけ砲台寄りを通過して前田や壇ノ浦からの砲撃を潜り抜け、港に停泊中の長州蒸気軍艦・壬戌(じんじゅつ)丸と帆走軍艦・庚申丸の間をすり抜けながら砲撃した。町の後ろの亀山台場からも砲撃があったが、正確に喫水線に狙いを定めたワイオミング号の11インチ・ダーグレン砲は壬戌丸のボイラーを一撃の下に打ち抜いて沈め、庚申丸も沈没した。ワイオミング号にも死傷者が出たが悠々と横浜に引き上げた。

ちなみに、このワイオミング号のマクドゥーガル艦長は、3年前に咸臨丸がサンフランシスコに無事たどり着き、メーア島のアメリカ海軍ドックで修理を受けたが、その補修の陣頭指揮を取った人だ。艦長たるもの自身で船の細部まで、その素材に到るまで良く知っていないといけないと忠告し、勝海舟に「彼に頭上一針をこうむり、すこぶるその云う所、的実なるに感ず」といわせた程の人だった。またこの軍艦には、アメリカの横浜領事館の通訳となっていたジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)も乗組んでいた。

その4日後、今度はフランスの艦隊司令官・ジョレス提督が蒸気軍艦・セミラミス号とタンクレード号で下関に侵攻し、前田と壇ノ浦台場を砲撃し、陸戦隊を上陸させて守備兵を駆逐し砲台を破壊して去った。これらの報復攻撃は、アメリカとフランスの間に何の連携もなく夫々に直接その侮辱を晴らしたが、長州の砲撃事件すなわち関門海峡封鎖は、攘夷鎖港を進める日本側の動きを突き崩そうとするイギリス、フランス、オランダ、アメリカの4カ国連合艦隊を呼び込むことになってしまう。

♦ 鎖港議論と鎖港交渉使節の派遣

いったん5月10日の攘夷を決めた将軍・家茂自身にはもちろんどうやって攘夷を実行したらよいのか考えはなかったようだし、もともと開港の必要性を説いていた将軍後見役・徳川慶喜も、朝廷の攘夷決定を聞くといったんは辞表を出したくらいだったから、攘夷について確たる見通しもなかった。しかし慶喜は、朝廷始め長州も尊攘派皆が「攘夷・鎖港」と云うなか、将軍が四面楚歌におちいる孤立を避け「将軍職・徳川家を守る」という義務感から朝廷の意思を尊重しようとした。過去からの自身の意見を封じ、朝廷にさらに擦り寄ってでも徳川の存続を図ったのだ。慶喜は朝廷の意思を尊重する方向に舵を切ったが、しかし事がここまで来れば、「禁中並びに公家諸法度」を作り朝廷を制御した「征夷大将軍・徳川家康の江戸幕府」はもはや崩壊していた。

前章の「5、開国と攘夷行動−戦争の危機と賠償金支払い」に書いたように、長州が下関海峡でアメリカ蒸気商船を砲撃する前日の5月9日、3港鎖港交渉を命ぜられ江戸に帰っていた老中格・小笠原長行が、生麦事件の賠償金支払い遅延であわやイギリスと戦争になりかけた状況を救うべく独断で44万ドルの賠償金をイギリスに支払った。引き続き江戸に帰ってきた一橋慶喜も江戸の幕閣や役人から3港閉鎖の総反対にあい、「攘夷は出来ません」とまたまた朝廷に辞職を申し出た時だ。

この様に幕府は朝廷の圧力で5月10日の攘夷開始を約束し、その取り掛かりとして條約国と3港閉鎖交渉開始を決定していたが、その内部の少数の「現在から見た良識派」は、そんなことをしたら大変なことになると危機意識を持っていた。老中・板倉勝静(かつきよ)などもその一人で、将軍と老中が共に朝廷に鎖港の利害を説明すべきだ。閉鎖にしても、3港の閉鎖すなわち鎖国ではなく、せめて1港は開けておくべきだ、と朝廷説得を主張しが実現はしなかった。いったん国家の威信をかけて締結した条約を、勝手に鎖港などしたら戦争になることに間違いはなかったから、彼らにはそんな国際常識が少しは理解できていたのだろう。その後幕閣の議論は3港閉鎖か1港閉鎖かで綱引きがあったが、とりあえず横浜港1港の永久閉鎖談判に落ち着いた。何とか横浜鎖港交渉の道を探ろうと文久3(1863)年9月14日、板倉勝静などの幕閣はまず、最初に条約を結んだアメリカ公使と200年も付き合いのあるオランダ総領事に話を持ちかけた。両国は、兵庫開港や大阪開市を延期したのにまたそんな話は聞けないと断り、アメリカ公使のプルーインは、幕府が横浜鎖港などすれば益々反対派を勢いづかせるだけで、断固として反対派を押さえ込まねば幕府のためにならないとまで伝えた。イギリスやフランスの公使たちも、鎖港の話など聞けないと話し合いにも応じなかった。

この時アメリカはすでに南北戦争の最中で、日本における外国外交官のリーダー的存在だったタウンゼント・ハリスは退官し、アメリカに帰った後のことだ。1861年、代わりに派遣されたのはプルーイン公使で、その外交方針も、イギリス、フランス、オランダなどと十分提携し歩調を合わせるものに変更されていた。従って、幕府が親密と思っていたアメリカやオランダに話しても、イギリスやフランスに話すのと返事は最早たいして変わるものではなかった。

こんな交渉の始まる直前の9月2日(1863年10月14日)、フランス陸軍士官アンリ・カミュが3人で横浜郊外を乗馬で通行中、井土ヶ谷村字下之前で浪士3人に殺害された。この賠償交渉をしなければならないフランス公使・ベルクールは10月26日、横浜に停泊中の軍艦で、また鎖港談判をしたいという若年寄・田沼玄蕃頭と会うことにした。この会談でベルクールは、陸軍士官殺害の謝罪をする使節をフランスに派遣し、その賠償の決着をつけた後で「ついては鎖港の儀申したく」と話してはどうかと非公式に提案した。フランス公使にしてもイギリスのように大艦隊を動員できない状況下で、日本がフランスに使節を送り賠償金の決着をつけてくれれば手数が省ける。この提案は、なんとか鎖港交渉をしたい幕府にとっても渡りに船だったからすぐに採用された。横浜鎖港談判使節に任命された外国奉行・池田長発(ながおき)と同・河津祐邦(すけくに)らは12月27日、フランス軍艦・ル・モンジュ号で上海経由フランスに向かった。この使節派遣とその突然の帰国は、これから書く下関戦争に向かう連合艦隊に一時的なショックを与えることになる。

♦ オールコックの攘夷・鎖港への対抗策

上述の「鎖港議論と鎖港交渉使節の派遣」でも書いたように、幕府はフランス、イギリスなどと直接鎖港談判のため、外国奉行・池田筑後守、同・河津伊豆守、目付・河田相模守らをまずフランスに向け派遣した。休暇でイギリスに帰国していたオールコック公使が日本へ帰ってくる途中、上海でたまたまこの鎖港談判使節一行に会った。池田は「開市以来、内地の人心多少の不折合いを生じ」和親の外国にも迷惑がかかっているので、この状況をよく説明し、「ついては横浜鎖港の義申し談じ候」とその使節派遣の趣旨をオールコックに説明した。要は、攘夷殺人など過激派の活動で和親の国々に迷惑をかけているので、過激な行為を冷やすためにも横浜を鎖港したいという訳だ。そしてニール代理公使を通じ連絡をしてあるが、フランスの後でイギリスに行くから、公使からもイギリス政府にその旨連絡してもらいたいと頼んだ。びっくりしたオールコックは、自国政府は横浜鎖港など決して快く思わないし、談判は成功するはずがない。自国政府からも日本の状況は良くないから改善策を取れとの特命もあって日本に帰任するところだといった。自分たちも特命を受けている身だから「鎖閉の義、不理の考案とも察せらるべく候えども」と、たとえ鎖港提案が不条理のようで不利であっても、とにかく予定通り行動しようと池田と使節一行はそのままフランスに向かった。

オールコックが元治元(1864)年1月24日に横浜に帰ってきたが、明らかに新しく明白なイギリス政府の方針変更があった。確かに薩英戦争で鹿児島の町を焼いたことに対するイギリス世論に厳しい意見も多かったから、外務大臣ラッセル卿のその方針は、条約に合意された権益は武力を使っても守るが、その行使と権限について明確な指示があった。引き続き朝廷の攘夷圧力により、砲台を築いたり、武器を購入したり、訓練をしたり、更に横浜鎖港をはっきり打ち出したりと幕府側の動きも顕著になっていたから、オールコックは権益を守るための策を練った。そして、自国の外務大臣ラッセル卿の基本方針は「条約に合意された権益は武力を使っても守る」ことだが、長州のとった下関海峡での条約国に対する砲撃は明白な条約違反で、海峡の自由航行が守られねばならないと断じた。その理由は、下関海峡の封鎖により、横浜−豊後水道−下関海峡−長崎のルートが使えなくなり、また兵庫の開港、大阪の開市も近々行われる約束だから、内海の封鎖は明らかな条約違反だという論理だった。下関海峡の封鎖を軍事力で開放すれば、日本がたとえ横浜を実力で鎖港しても軍事力でたちまち開放するぞという、戦争の一大デモンストレーションでもある。フランス、アメリカ、オランダの公使たちもオールコックの提唱に全面的に賛成し6月19日(1864年7月22日)、幕府がそれをやらなければ軍隊をもって海峡を開放すると、その旨を記述した4カ国共同覚書に調印した。

完全な独立路線を維持したハリス公使も帰国し、アメリカでは南北戦争も始まっていて、後任のプルーイン公使も自国政府の方針通り全面的な協調路線を取ったから、オールコックの主導する攘夷・横浜鎖港への対抗策、すなわち4カ国艦隊を派遣し封鎖された下関海峡を開放する武力行使が決まった。その時のアメリカ政府は南北戦争の最中で全ての海軍力を集中的に投じていたから、日本にいたアメリカ軍艦は1艘の小型帆走軍艦だけだった。帆走軍艦では、操船上他国の蒸気軍艦と統一行動は不可能だ。そこでプルーイン公使は民間のハード商会から蒸気船・ターキャン号を借り上げ、パロット砲1基を据付け、帆走軍艦の兵士を乗せやっと参戦することができた。しかしこんな船でもイギリス海軍の兵を多数救助したから、ある程度の存在感を示すことは出来たようだ。

♦ 4カ国の下関砲撃とその結末


連合艦隊兵士に占領された前田御茶屋台場
(壇ノ浦台場の東側にあった)

Image credit: Felice Beato (born 1833 or 1834, died 1907)

イギリス、フランス、オランダ、アメリカ4カ国の連合艦隊の出撃準備が整い、まさに下関に向け出航しようとしたそのとき、突然、前述した横浜鎖港談判使節の池田筑後守一行が横浜に帰ってきた。そして、下関でのキエンシャン号への砲撃賠償金として三ヵ月後に14万ドルを支払い、幕府はフランス海軍と共同してでも関門海峡の安全航行を確立し、関税率を引き下るという「パリ協定」なるものに調印し、フランス陸軍士官アンリ・カミュの遺族には、遺族扶助金として3万5千ドルを即金で支払ったことが報告された。とにかくフランスと日本は和解したのだ。これはオールコックが主導した下関出撃連合艦隊の崩壊を意味している。

鎖港談判使節の池田筑後守一行は、ヨーロッパでその発展した文明を目撃し、ますます発展している交通、通信、軍事などの技術力を目の当たりにすると、日本で攘夷・鎖港と騒いでいることがいかに時代遅れかを痛感した。そして何にもましてフランスからもイギリスからも鎖港談判など相手にもされなかったのだ。確かにフランスの外務大臣・ドロワン・デ・ロイスの対応は親切だったが、文久3年5月の長州の下関外国船砲撃事件や今回の横浜鎖港などは、先般フランスが譲歩合意した兵庫・新潟の開港延期を無効にし、條約国に日本の條約遵守を要求させる口実を与えることになる。すなわち戦争になろう、と諭されたのだ。池田筑後守のその長い帰国報告書に、朝廷にはこの有様をよく説明し「御誠実に御奏上御座候はば、御氷解在らせらるべき儀と存じ奉り候」と、世界情勢といったん締結した條約遵守義務とをよく説明すれば朝廷も分かるはずだと書いて出した。しかし、朝廷に鎖港談判使節の成功を約束している幕府は3日後の7月22日、談判使節がフランスと結んできたこのパリ協定を破棄し、池田筑後守に隠居蟄居を、河津伊豆守に逼塞を、河田相模守に閉門を申しつけ、「不埒の至りに候」と使命不履行を厳しく罰した。幕府は朝廷のてまえ、こうする以外の道は無かったのだ。

こんな突発事件で頓挫したかに見えた連合艦隊は、幕府がパリ協定を破棄したと聞くやすぐさま下関に向け出港した。16艘もの蒸気軍艦で構成された大艦隊が来ては長州はたまらない。長州には負け戦が分かっているから講和をしようと試みたが、連合艦隊は8月5日から7日にかけて長州を砲撃し、力ずくで台場を壊し、再び海峡封鎖が出来ないようにするための戦争になった。連合艦隊の3日間の砲撃と上陸で完敗した長州は、8月14日(1864年9月14日)、現地で約定書を提出し和睦した。これは、 

  1. 外国船が馬関通航の折は親切に取扱う。
  2. 石炭食料薪水その他入用品を販売する。
  3. 船が風破の難に遭った時は無障上陸してよい。
  4. 新規台場を造らず旧台場の修繕もせず大砲も置かない。
  5. 外国船への砲撃と遠征の賠償金は江戸における交渉に従う

を停戦条件としたものだった。連合艦隊はその後20日ほども3艘の見張り軍艦を下関付近に滞留させ、長州の協定遵守を監視させた。

一方幕府も元治1(1864)年9月22日4カ国と横浜で交渉の末、若年寄・酒井忠眦(ただます)は次のような取り決めを結んだが、長州の暴挙を制御するのは幕府の責任であるから、賠償金は幕府が責任を持つべしという論法を受け入れた決着だった。

  1. 長州の下関での外国船に対する暴挙への償金、4カ国が下関を焼かなかった償金、及び同盟艦隊派遣の諸費用として、合計300万ドルを支払う。
  2. 合計償金額を6分割し、各国がこの取り決めを批准した日から50万ドルずつ、3ヶ月ごとに支払う。
  3. 4カ国の主意は賠償金を得ることではなく、日本との交易である。もし日本が望めば、下関港か内海の適当な港を開き300万ドルの支払いに替えることを認める。賠償金を支払うならば前述のごとく支払うこと。
  4. 日本は調印後15日以内に批准すべきこと。

この幕府責任に対する賠償金中の「4カ国が下関を焼かなかった償金」とは、前述した薩英戦争後のイギリス国内で、「町が焼かれ罪もない一般人が犠牲になった」と自国政府への非難が集中し、女王が「遺憾の意」声明まで出さざるを得なくなった。従ってこれは、この経験を生かした対応で、いわば注意深く一般市民に危害を加えない武力行使であったわけだ。がしかし、これをも恩着せがましく賠償金を取る理由にしたイギリス外交のしたたかさは驚くほどである。

別の章で書くが、この第3項の「現金支払いか内海開港か」という選択に対し幕府は、港を開かず300万ドルの賠償金支払いを受け入れた。これは当時の幕府年間支出額の四分の一にもあたる莫大な金額だ。この賠償金は4カ国で分配され、最初に実被害を受けたアメリカ、フランス、オランダが夫々78万5千ドル、イギリスが64万5千ドルと決まった。しかしアメリカ政府は、後にこの全額を日本に返却するが、また後日書く機会が来るだろう。

 

Yahoo! JAPAN サイト内を検索    

  • ウェブ全体を検索
  • このサイト内を検索

     1、日米国交樹立以前          2、和親条約と開国        3、通商条約と内政混乱      4、初めての遣米使節    

        5、開港と攘夷行動         6、薩英戦争と下関戦争   7、長州征伐と条約勅許       8、大政奉還と新体制    


コメントは 筆者 までお願いします。
(このサイトの記述及びイメージの全てに著作権が適用されます。)
03/24/2008