日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

6、薩英戦争と下関戦争

背景

幕府は安政の5カ国条約にしたがって開港したが、当初の期待通り「人心の折り合い」に向かうどころか「人心の離反」が進む逆境になり、井伊大老の安政の大獄で多くの処罰者が出た。こんな状況下で上洛した島津久光は、朝廷にその事後策を建策し、朝廷は久光の案を実行すべく勅使の江戸下向を決め、久光に勅使の護衛を命じた。この江戸からの帰り道で、久光一行は文久2(1862)年8月21日、英国人を殺害するという生麦事件を起こした。イギリスは翌年の5月9日幕府にこの生麦事件の賠償金として44万ドルを支払わせたが、まだ薩摩へ要求した殺人犯人の断罪と賠償金支払いの結論が出ていない。この交渉のためイギリスは、支那艦隊司令長官・キューパーが指揮する艦隊を薩摩に向け、薩摩側の発砲で薩英戦争が始まった。

一方、その後真っ向から攘夷要求を掲げる朝廷は、文久3(1863)年春に上洛した将軍・家茂にはっきりした攘夷期日とその方策を示せとせまり、家茂は京都で捕虜になったのではと見まがうばかりに留め置かれた。もはや孝明天皇には頭も上がらない。攘夷はどうするのだ、何時行うのだと朝廷から責められ、何の政治的、軍事的裏付けもないまま文久3年4月20日、「5月10日に攘夷決行」と答えてしまった。この5月10日になると、先鋭的な長州の攘夷派は下関海峡でアメリカ商船・ペンブローク号を砲撃した。さらに、次々と海峡を通過するフランスやオランダの軍艦をも砲撃し、実質的な海峡封鎖をしたが、これが外国側に口実を与え下関戦争に突入する。

薩英戦争

♦ イギリスの思惑と薩摩の思惑


鹿児島市、城山公園展望台より桜島を望む
(桜島と手前の市街地間の海上で英国艦隊が行動した)

Image credit: 筆者撮影

こんな風に朝廷からの攘夷要求が激化する中、前章の「5、開港と攘夷行動−戦争の危機と賠償金支払い」で書いたように、イギリスは幕府から44万ドルの生麦事件賠償金を取ったが、肝心な薩摩との交渉がはかどらない。そこでニール代理公使は、イギリス政府の指示通り艦隊司令長官・キューパーと連携し、6月22日(1863年8月6日)旗艦ユーリアラス号はじめ合計7艘の軍艦で横浜を出港し、ニール自身が鹿児島で薩摩藩との直接交渉に乗り出した。鹿児島に着いた艦隊は6月28日、城下の前ノ浜前方に停泊し、ニールは藩主・松平修理大夫(島津茂久・もちひさ)宛に生麦事件の犯人断罪と賠償という要求書をあらためて送り、24時間以内に回答を出せと迫った。内容は前章「5、開港と攘夷行動−生麦事件へのイギリスの要求」で書いた通りである。ニールとキューバーは薩摩に7艘ものイギリス艦隊を見せつけ、威圧によって決着をつけたかった。大艦隊の横浜集結に恐れをなした幕府も5月9日、44万ドルもの大金を一括で支払ったから、彼らは鹿児島でも同様に発砲せず事が運ぶことを強く期待していた。

薩摩藩政府はこの要求書に対する返書を送り、書簡の往復では「弁知致し難き義これ有り候間」明日「水師提督その餘重役の面々上陸あらんことを乞う」と、書簡では分からないから陸上で直接話そうと誘いをかけた。しかしキューパー提督やニール代理公使は、これを薩摩藩の計略であると感じ上陸を拒否した。そこで薩摩側は更に計略を練り、小船を7艘集めこれにスイカやその他必需品を積み、商人を装った侍を乗組ませ、7艘の軍艦に接近し商人だといって夫々の軍艦に乗り込む。これを合図に陸上から砲撃し、乗り込んだ侍たちが船内を撹乱して勝利しようと謀った。イギリス側もこれも計略だと見破り、旗艦のユーリアラス号のみに1艘の小船の商人の乗艦を許し、武装した警護兵が日本人を取り囲んだ。乗船した日本人は皆「決死の士」として選抜され、久光と茂久に別れの杯をもらった勇者であったが、多勢に無勢、なすすべがなかった。

この作戦が失敗に帰すと、更にまた薩摩藩家老・川上但馬も書簡をニールに届けたが、ニールは、翻訳のため時間が要るから明朝来いと使者を帰した。艦隊には毛筆書きの日本語をも学んでいた若いイギリス人翻訳官・サトウも乗組んでいたが、翻訳の後に作戦を立てる時間も必要だったのだろう。

♦ 薩英戦争に突入

現在の鹿児島港近辺、下図とほぼ同一縮尺で対比
(図の右下、桜島港の南側に大正3年、桜島の
大噴火で溶岩流が海中に大量に張り出し、
薩英戦争当時からの地形が大きく変った)

Image credit: Yahoo! Japan, http://map.yahoo.co.jp/
薩英戦争当時の英国艦隊砲撃行動軌跡
Image credit: 「大久保利通傅」、勝田孫弥著、
明治43年、同文館、国会図書館蔵

明朝また薩摩は2人の伊地知を談判使節として艦隊に送ったが、ニールはそれまで提案された薩摩側の書簡内容を全て拒否し談判は進まなかった。この時イギリス側の測量・偵察隊が鹿児島湾の奥深くの重富(しげとみ)に停泊していた薩摩藩所有の汽船、天佑丸、白鳳丸、青鷹丸の3艘を発見しこれを拿捕した。これはキューパーが賠償金の一部として薩摩の資産を差し押さえるという本国政府の命令に従った行動だったが、これを見ていた薩摩側も終にこらえきれず、7月2日発砲命令が出され、双方からの正式な開戦通告もないまま打ち合いとなり戦いの幕が開いてしまった。

これはたまたま暴風雨の中の出来事だったが、キューパーは薩摩の砲撃が始まると捕獲した3艘の汽船を焼き払い、7艘の軍艦はいったん湾の北側の磯の方角に向かって単縦陣を作って進み、その陣形のまま海岸に沿って南下しながら、祇園之洲砲台を破壊し新波止砲台や弁天渡砲台などに向かって砲撃した。しかし新波止砲台前辺りから先頭を行く旗艦ユーリアラス号に薩摩砲台の砲火が集中し、艦長以下多数の死傷者を出した。ユーリアラス号が進むこの位置(右・下図の赤印)は、たまたま薩摩藩砲台が訓練用標識を立て十分砲撃訓練を積んだ場所だったから、練習時の照準をそのまま実戦で使えたわけだ。イギリス艦隊では死者13人、負傷者50人が出たという。これに対しイギリス側は炸裂砲弾やロケットと呼ぶ一種の焼夷弾をも多用したから、暴風下の城下町で火災が発生し多くの町屋や仏閣が焼失し、磯にあった斉彬以来の集成館も大被害を受け焼失してしまった。拿捕され焼失した3艘の薩摩所有の蒸気船のほかに、磯近くに停泊する数艘の商船も砲撃され焼失した。

翌3日には風もなくまた砲火を交えたが、それも散発的に止み、突然イギリス艦隊は横浜に向け引き上げた。旗艦ユーリアラス号の艦長の戦死をはじめ、予想以上に多くの死傷者が出たため一時的な戦意消失と、多くの軍艦修理などのための体勢建て直しであったようだ。

この戦闘で双方に少なからぬ被害があったが、薩摩ではイギリス艦隊の再来襲を非常に恐れていたし、イギリス艦隊にも多くの修理が必要となり、横浜には再出撃で必要になる陸戦隊も十分でなく、すぐには引き続きの鹿児島出撃が出来なかった。しかし横浜に帰ったニールは1ヶ月後の8月12日幕府に書簡を送り、薩摩がイギリスの要求に従わなければ再度艦隊を鹿児島に派遣すると通告した。

♦ 賠償金の支払い

イギリス艦隊再来襲を非常に恐れる薩摩では平和解決を模索し、家老代・岩下と応接掛・重野の2人の使者を横浜に送り、9月28日よりニールと交渉に入った。平和構築が目的だから、薩摩もほぼイギリスの言い分を認めざるを得ない。ある程度の交渉の輪郭が見えると岩下は重野を京都にいる久光の元に急派し、交渉内容を説明し指示を仰いだ。久光は「猶また臨機応変、無事を謀るべき旨」を申しつけ、とにかく先ず平和決着を図れと指示した。11月1日ニールと会見した薩摩の使者・岩下たちは、賠償金10万ドル(2万5千ポンド相当)を支払い、犯人処刑を約束する証書を与えた。一方イギリスも薩摩の軍艦購入の周旋をする証書を与えたが、これでイギリスと薩摩藩との生麦事件の賠償交渉が解決した。

イギリスと交渉した薩摩の使者・岩下らはしかし、約束した賠償金の10万ドルという大金を工面できない。そこでうまく幕府から借金する形で金を用立てることに成功したが、その後これが幕府に返還されたか筆者は知らない。

歴史的にはここからイギリスと薩摩は急速に接近するが、この薩英戦争でイギリスの実力を理解した薩摩藩が、軍事力増強にイギリスの手を借り始め、将来の人材育成のため、幕府には内緒で留学生をイギリスに送り始めるのだ。また京都に居る久光はこの戦争経験から、必ずや戦争になるであろう横浜鎖港の不可を幕府に強く説き、大阪や兵庫の海防強化を説いたが、強く攘夷を要求する朝廷にその歓心を買おうとすり寄る幕府と薩摩藩との感情的な乖離が始まる。

♦ イギリス国内の反応

要求の通り幕府と薩摩藩から賠償金を獲得したニール代理公使は、極めて微妙で困難な政治問題を外務大臣・ラッセル卿の指示どうり処理したと、名誉ある「バス勲章・コンパニオン(The Companion of the Order of the Bath)」を授与された。このバス勲章は軍人や文官に授与されるものだが、大変名誉な勲章のようである。しかし一方イギリスの新聞や議会では、鹿児島の町が焼かれ、罪もない一般人が犠牲になったという議論が巻き起こり、議会の冒頭、偶然に鹿児島の町を焼いてしまったが当初から意図したものではなかったという「女王の遺憾の意」が表明される程までに議論が沸騰した。パルメストン内閣の落ち度だとして反対派の攻撃対象になり、「軍靴や剣を鳴らした外交」と非難された。こんなイギリスの民主主義の声は、次に書く下関戦争にも大きな影響を与える。

下関戦争

下関戦争は薩英戦争に比較し、まわりの環境要素が複雑に絡み合っている。朝廷の攘夷要求貫徹を狙う長州、腰の引けた幕府の交渉姿勢、朝廷にすりよる横浜鎖港使節のヨーロッパへの派遣、更なる開港・開市期日の到来、外国外交官の思惑、商業利益追求の外国勢の攻勢と、記述もその分膨らんでしまう。

♦ 長州の外国船砲撃事件


下関市、火の山公園展望台より関門海峡、西方向を望む
(タンカーの航行する辺りが、潮流の最も早い壇ノ浦付近)

Image credit: 筆者撮影

朝廷からの度重なる攘夷圧力でついに将軍・家茂は、やる気も無い攘夷開始を 「5月10日」 と朝廷に約束したが、攘夷実行を掲げる長州は、文久3(1863)年5月10日になると幕府命令の攘夷期日が来たと、下関海峡東側の田ノ浦沖で汐待のため仮停泊したアメリカ蒸気商船・ペンブローク号を突然2艘の軍艦から砲撃した。それは月のない真夜中のことだったが、将軍・家茂が朝廷に約束した5月10日の攘夷を武力をもって即実行したのだ。

このラッセル商会所有の商船・ペンブローク号は4日前に横浜を出港し、横浜にあるアメリカのウォルシュ・ホール商会の船荷を積み長崎経由で上海に向かう途中だったが、当時長州が自藩で使っていた帆走軍艦・庚申(こうしん)丸と癸亥(きがい)丸を使ったアメリカ商船攻撃だった

下関海峡は最も狭いところで巾600メートルくらいしかなく、うねりながら東西に20キロメートルほども続く狭く細長い海峡だから、潮の満ち干きによる潮流が発生し、西向きに、又は東向きに最高5ノット、即ち時速9キロメートル程の速さで流れる。当時の蒸気船の航行速度は、軍艦でもせいぜい最高時速10ノット程だったから、商船が下関海峡航行時は、安全航行と燃料節約のため時として汐待をした。この時は闇夜だったしボイラーの火を落とさなかったので蒸気もすぐ上がり、運が良かったのだろうか、ペンブローク号は被害もなく豊後水道に逃げることが出来た。

これから約2週間後の5月23日、今度はフランスの小型報道軍艦・キエンシャン号が横浜から長崎に行く途中下関海峡を通ったが、長州はまた庚申丸と癸亥丸から砲撃し、陸上の前田、壇ノ浦、専念寺などの砲台からも砲撃した。幸運にも潮流は西向きで、この潮流に乗ったキエンシャン号は応戦しながら逃げ切った。長崎に着いたキエンシャン号は、たまたま横浜に行くと言うオランダ軍艦・メデュサ号に委託し、横浜に停泊中のフランス艦隊司令官・ジョレス提督に宛て、下関での砲撃事件報告書を提出した。このフランス報告書を預かり横浜に行くオランダ軍艦・メデュサ号もまた5月26日下関海峡を通ったが、長州は再び砲撃をし、メデュサ号も応戦しながら通過した。このように長州藩は、半月足らずの間に3艘もの外国船を砲撃し、従って下関海峡は完全に長州による封鎖状態になった。

♦ アメリカとフランスの個別報復

 
前田御茶屋台場跡の碑及び明治天皇行啓記念碑(左)と、台場跡から海峡を望む(右)。
ワイオミング号はこの台場の前方200m位を通り、全ての砲弾は頭上を通過した。

Image credit: 筆者撮影

国威を侮辱されたと6月1日、まず下関に来て報復砲撃を加えたのが、南北戦争下のアメリカ北軍政府海軍の蒸気スクリュー推進軍艦・ワイオミング号だった。ワイオミング号はたまたま南軍の軍艦を追跡し横浜に来ていて、日本駐在アメリカ公使・プルーインを通じ、商船・ペンブローク号が長州から攻撃されたことを知ったのだ。

国辱を晴らそうとただちに横浜から単独で下関に来たワイオミング号はアメリカ国旗を掲げながら海峡に接近したが、この国籍表示を無視した陸上からの砲撃をものともせず東側から海峡に侵攻し、意識的に出来るだけ北岸の砲台寄りを通過する航路をとったので、海峡の中央付近に照準を定めてあった前田台場や壇ノ浦台場などから発射されたほとんど全ての砲弾は4mから5mの頭上をかすめるだけだった。この時、この軍艦・ワイオミング号には、アメリカの横浜領事館の通訳となっていたジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)も乗組んでいた。

ワイオミング号はこうして長州の砲撃を潜り抜け、港に停泊中の長州藩の蒸気軍艦・壬戌(じんじゅつ)丸と帆走軍艦・庚申丸及び癸亥丸の間をすり抜けながら砲撃した。同乗させていた日本人水先案内人の 「そんな進路を取れば座礁する」と言う制止も聞かず侵攻し、また町の後ろの亀山台場からも盛んな砲撃もあった。しかし、正確に喫水線に狙いを定め発射した3発のワイオミング号の11インチ・ダールグレン滑腔砲の砲弾のうち、3発目が動き始めた壬戌丸のボイラーを一撃の下に打ち抜いて爆発・座礁させた。長州藩で建造された庚申丸は沈没し、更に癸亥丸も大破した。この壬戌丸は、アメリカ公使・プルーインの1863年7月24日付けスーワード国務長官宛の報告書によれば、もと 「ランスフィールド(Lancefield)」という船名の約600トンの大砲4門を備えた鉄造蒸気船で、長州が11万5千ドルでイギリスのジャーディーン・マセソン商会から買ったばかりの船だった。また癸亥丸は、もと 「ランリック(Lanrick)」という船名のアヘン貿易に使われた帆船で、同じ商会から2万ドルで購入し、大砲を10門備えた船だったと言う。単独で1時間ほどで攻撃を終えたワイオミング号にも5人の死者と7人の負傷者が出た。帰帆の途中に姫島に死者を葬ろうとしたが大勢の見物人が浜辺に居て中止になり、豊後水道の辺りで水葬に付し、その後悠々と横浜に引き上げた。

ちなみにこのワイオミング号のマクドゥーガル艦長は、3年前の1860年3月17日、咸臨丸がサンフランシスコに無事たどり着き、メーア島のアメリカ海軍ドックで修理を受けたが、その補修の陣頭指揮を取った人だ。艦長たるもの自身で船の細部まで、その素材に到るまで良く知っていないといけないと忠告し、勝海舟に 「彼に頭上一針をこうむり、すこぶるその言う所、的実なるに感ず」といわせた程の人だった。

その4日後、今度はフランスの艦隊司令官・ジョレス提督が蒸気軍艦・セミラミス号とタンクレード号で下関に侵攻し、前田と壇ノ浦台場を砲撃し、陸戦隊を上陸させて守備兵を駆逐し砲台を破壊して去った。これらの報復攻撃は、アメリカとフランスの間に何の連携もなく夫々に直接その侮辱を晴らしたものだ。しかし、この長州の砲撃事件すなわち関門海峡封鎖は、攘夷・鎖港を進める日本側の動きを突き崩そうと主導するイギリスをはじめ、フランス、オランダ、アメリカの4カ国連合艦隊を呼び込み、後に「下関戦争」と呼ばれる長州と4カ国連合艦隊との戦争になってしまう。

♦ 鎖港議論と横浜鎖港談判使節の派遣

少し戻るが、いったん5月10日の攘夷を決めた将軍・家茂自身には、勿論どうやって攘夷を実行したらよいのか考えはなかったようだし、もともと開港の必要性を説いていた将軍後見役・一橋慶喜も、朝廷の攘夷決定を聞くといったんは辞表を出したくらいだったから、攘夷について確たる見通しもなかった。しかし慶喜は、朝廷始め長州も尊攘派の全員が「攘夷・鎖港」と言うなか、将軍が四面楚歌におちいる孤立を避け「将軍職・徳川家を守る」という義務感から朝廷の意思に迎合しようとした。過去からの自身の意見を封じ、朝廷にさらに擦り寄ってでも徳川の存続を図ろうと空約束をしたのだ。しかし最後には、「5月10日の攘夷はできませんでした」と朝廷に将軍後見役辞任の辞表を出そうとしていたようだ。慶喜は朝廷の意思を尊重する方向に舵を切ったが、しかし事がここまで来れば、「禁中並びに公家諸法度」を作り朝廷を制御した「征夷大将軍・徳川家康の江戸幕府」はもはや崩壊していたのだ。

前章の「5、開国と攘夷行動−戦争の危機と賠償金支払い」に書いたように、長州が下関海峡でアメリカ蒸気商船を砲撃する前日の5月9日、3港鎖港交渉を命ぜられ江戸に帰っていた老中格・小笠原長行が、幕府の生麦事件賠償金支払い遅延であわやイギリスと戦争になりかけた状況を救うべく、独断で44万ドルの賠償金をイギリスに支払った。引き続き江戸に帰ってきた一橋慶喜も江戸の幕閣や役人から3港閉鎖の総反対にあい、「攘夷は出来ません」とまたまた朝廷に辞職を申し出た時だ。

この様に幕府は、朝廷の圧力で5月10日の攘夷開始を約束し、その取り掛かりとして条約国と3港閉鎖交渉開始を決定し、その指示で老中格・小笠原長行が各国公使達に、鎖港交渉開始を通告する文久3年5月9日付けの書簡まで送付していた。その後将軍・家茂が京都から解放され帰府したが、幕府内部の「現在から見た良識派」は、そんなことをしたら大変な戦争になると危機意識を持ち続けていた。そして帰府した老中・板倉勝静(かつきよ)が 「将軍と老中が共に上京し、朝廷に鎖港の利害を説明すべきだ」と朝廷説得を主導し、幕議が決定しかかった。これはしかし将軍後見役・一橋慶喜の大反対で実現しなかったが、その後幕閣の議論は3港閉鎖か1港閉鎖かで綱引きがあり、とりあえず横浜1港の永久閉鎖談判に落ち着いた。この意味は、長崎と箱館ではそのまま貿易を続け、横浜港だけを閉ざし、少しでも朝廷の意に沿う形だけでも造り、その間に朝廷との間の融和を図ろうという、時間稼ぎの全く姑息な案だったわけだ。

この方針に従い、何とか横浜鎖港交渉の道を探ろうと文久3(1863)年9月14日、板倉勝静などの幕閣は、築地軍艦操練所でまず最初に通商条約を結んだアメリカ公使と200年も付き合いのあるオランダ総領事に話を持ちかけた。両国は、兵庫・新潟開港や江戸・大阪開市を延期したのにまたそんな話は聞けないとはっきり断り、アメリカ公使のプルーインは、幕府が横浜鎖港などすれば益々反対派を勢いづかせるだけで、断固として反対派を押さえ込まねば幕府のためにならないとまでアメリカの正論を伝えた。イギリスやフランスの公使たちも、鎖港の話など聞けないと話し合いにも応じなかった。

この時アメリカはすでに南北戦争の最中で、日本における外国外交官のリーダー的存在だったタウンゼント・ハリスは退官し、アメリカに帰った後のことだ。1862(文久2)年5月、代わりに派遣されたのはプルーイン公使で、アメリカ政府の国務長官・スーワードの日本に於ける外交方針も、イギリス、フランス、オランダなどと十分提携し歩調を合わせるものに変更され、その旨ブルーインに明確に指示されていた。この他国との協調路線は、たとえアメリカ外交にとって最善の選択ではなくても、日本での権益を守る方策として採用せざるを得ないものだった。従って、ほぼ2年前の文久1年11月にタウンゼント・ハリス公使が将軍に提出した書翰を通じ、リンカーン大統領が幕府の 「両都両港開市開港延期」要請に理解を示してくれていたが、幕府が非常に親密と思い頼りにしていたそんなアメリカに話しても、最早アメリカの返事は、イギリスやフランスに話すのとたいして変わるものではなくなっていたのだ。

こんな交渉の始まる直前の9月2日(1863年10月14日)、フランス陸軍士官アンリ・カミュが3人で横浜郊外を乗馬で通行中、井土ヶ谷村字下之前で浪士3人に殺害された。この賠償交渉をしなければならないフランス公使・ベルクールは10月26日、また鎖港談判をしたいという若年寄・田沼玄蕃頭と横浜に停泊中の軍艦で会うことにした。この会談でベルクールは、陸軍士官殺害の謝罪をする使節をフランスに派遣し、その賠償の決着をつけた後で、「ついては鎖港の儀申したく」と話してはどうかと非公式に提案した。フランス公使にしてもイギリスのように大艦隊を動員できない状況下で、日本がフランスに使節を送り賠償金の決着をつけてくれれば手数が省ける。なんとか鎖港交渉をしたい幕府にとっても、ベルクールのこの提案は渡りに船だったから、すぐに採用された。

横浜鎖港談判使節に任命された外国奉行・池田長発(ながおき)と同・河津祐邦(すけくに)らは12月27日、フランス軍艦・ル・モンジュ号で上海に向い、上海からフランス郵船でパリに向かった。この鎖港談判使節派遣と、使節・池田長発がその後ヨーロッパ文明を実際に体験して開眼し、更に英・仏・蘭が下関に軍艦を派遣する計画の存在をフランス外務大臣・ドロワン・デ・ルイスから知らされたこの使節一行の突然の帰国は、これから書く下関戦争に向かう連合艦隊に一時的に大きなショックを与えることになる。

♦ オールコックの攘夷・鎖港の打開策

上述のように幕府は、直接フランス、イギリスなどと横浜鎖港談判をしようと外国奉行・池田筑後守、河津伊豆守、目付・河田相模守らを先ずフランスに向け派遣したが、休暇でイギリスに帰国していたオールコック公使が日本へ帰ってくる途中、上海でたまたまこの鎖港談判使節一行に出会った。そこで池田はオールコックに、「開市以来、内地の人心多少の不折合いを生じ」そのため和親の外国にも迷惑がかかっているので、「ついては横浜鎖港の義申し談じ候」と、自分達の使節派遣の趣旨をオールコックに説明した。要は、攘夷殺人など過激派の活動で和親の国々に迷惑をかけているので、過激な行為を冷やすためにも横浜を鎖港したいという訳だ。そしてニール代理公使を通じ連絡をしてあるが、フランスの後でイギリスに行くから、公使からもイギリス政府にその旨連絡してもらいたいと頼んだ。びっくりしたオールコックは、自国政府は横浜鎖港など決して快く思わないし、談判は成功するはずがない。自国政府からも日本の状況は良くないから改善策を取れとの特命もあって日本に帰任するところだと言った。しかし池田は、自分たちも特命を受けている身だから 「鎖閉の義、不理の考案とも察せらるべく候えども」と、たとえ鎖港提案が不条理で不利のようであっても、とにかく予定通り行動しようと決し、使節一行はそのままフランスに向かった。

時をおかずオールコックが元治元(1864)年1月24日に横浜に帰ってきたが、明らかに新しく明白なイギリス政府の方針変更があった。確かに薩英戦争で鹿児島の町を焼いたことに対するイギリス世論に厳しい意見も多かったから、外務大臣ラッセル卿のその方針は、条約に合意された権益は武力を使っても守るが、その前に先ず日本政府に強くその履行を求め、武力行使については海軍提督や日本に派遣された軍事責任者と緊密に連絡し合意した後にせよ、という明確な指示であった。

引き続き朝廷の厳しい攘夷圧力により幕府は、横浜鎖港をはっきり打ち出し、それまでにも砲台を築いたり、武器を製作したり、蒸気軍艦や大砲購入に大金を投入したり、兵士を増やし訓練も強化したりと、外国人の目にはその動きは明らかで、大きな懸念材料だった。更に幕府は、国内商品の値上がりを抑えるべく、4年前の万延1(1860)年閏3月に制定した 「五品江戸廻送令」により商品の横浜への直接流入を規制していたが、更なる値段高騰を理由に江戸の生糸商人が浪士に殺害される事件("Narrative of a Japanese" by Joseph Heko)等もあり、幕府は文久3(1863)年9月から更に規制を強め、横浜への生糸の流入が一層減少していたから、オールコックが横浜に帰って来た頃はイギリスを始めフランス等への生糸供給が激減していた。こんな背景に押され、オールコックは権益を守るための策を練り始めた。

そしてオールコックは、自国の外務大臣ラッセル卿の命じた基本方針は 「条約に合意された権益は武力を使っても守る」ことだが、これに照らしても長州のとった条約国船舶に対する下関海峡の砲撃封鎖は明白な条約違反で、海峡の自由航行が守られねばならないと声を大にして断じたのだ。それは、アメリカやフランスは独自に下関に軍艦を派遣し懲罰行動を取ってはいるが、下関海峡の封鎖により、横浜−紀伊水道あるいは豊後水道−下関海峡−長崎のルートがすでに使えなくなり、また兵庫の開港、大阪の開市も近々行われる約束だから、全条約国にとってこの海峡と内海の封鎖は明らかな条約違反だという論理だった。

この論理のもとに条約国海軍が長州による下関海峡封鎖を軍事力で開放して見せれば、日本がたとえ横浜を実力で鎖港しても条約国の軍事力でたちまち開放するぞという、戦争の一大デモンストレーションになる。これはまた、更なる貿易関税の引き下げと、横浜で供給が激減した生糸等の供給増加へ向けた日本側の規制撤廃をさせる圧力にもなるのだ。フランス、アメリカ、オランダの公使たちもオールコックの提唱に賛成し、6月19日(1864年7月22日)、幕府がそれをやらなければ軍隊をもって海峡を開放すると、その旨を記述した4カ国共同覚書に調印し、四カ国公使たちも数度にわたり夫々幕府に海峡封鎖解除を要求して来ていた。

オールコックは、横浜が鎖港されれれば必ず日本と4カ国の戦争になる。その前に軍事力を使って下関封鎖解除をやって見せれば、横浜鎖港を阻止できるし、貿易関税の引き下げ交渉も出来ると考えたのだ。この考え方は、この下関戦争のすぐ後にオールコック公使は本国に召還されたが、その時に外務大臣に出したオールコックの弁明書に明らかである。いわく、

下関砲撃は、我々が横浜から締め出され、必然的に戦争になることを避けるため必要でした。砲撃の動機、目的、その実行手段に関し、私の弁明とその正当性はこの一点にあります。結果がそれを証明しています。破局は回避され、戦争の危険性は完全になくなったといえないまでも無期限に延期され、横浜における我々の立場は、当面の全ての危機から開放されました。消滅しかかっていた貿易は、前以上に回復しています。

一方、それまで完全な独立路線を維持していたアメリカのハリス公使も帰国し、アメリカでは南北戦争も続いていて、後任のプルーイン公使も自国政府の方針通りイギリス・フランス・オランダ公使たちと全面的な協調路線を取ったから、オールコックの主導する攘夷・横浜鎖港への対抗策、すなわち4カ国艦隊を派遣し封鎖された下関海峡を開放する武力行使が決まった。その時のアメリカ政府、すなわち北軍は南北戦争の最中に全ての海軍力を南軍の港湾封鎖に集中的に投入していたから、日本にいたアメリカ軍艦は1艘の小型帆走軍艦・ジェームスタウン号だけだった。帆走軍艦では、操船上他国の蒸気軍艦との統一行動は不可能だ。そこでプルーイン公使は横浜にある民間のハード商会から、600トン程で小型砲3門を備えた蒸気船・ターキャン号を借り上げ、小型帆走軍艦の30ポンド・パロット砲1基を据付け、帆走軍艦の士官・ピアソン大尉と兵士18人を乗せやっと参戦することができた。しかしこんな船でもイギリス海軍の兵を多数救助したから、ある程度の存在感を示すことは出来たようだ。

♦ 横浜鎖港談判使節・池田筑後守の突然の帰国と処罰

イギリス、フランス、オランダ、アメリカ4カ国の連合艦隊の出撃準備が整い、横浜からまさに下関に向け出航しようとしたそのとき、元治1(1864)年7月22日に突然、前述した横浜鎖港談判使節の池田筑後守一行が日本に帰ってきた。そして、関門海峡でのフランス軍艦・キエンシャン号への砲撃賠償金として三ヵ月後に14万ドルを支払い、幕府はフランス海軍と共同してでも関門海峡の安全航行を確立し、関税率を引き下るという 「パリ協定」 なるものに調印し、フランス陸軍士官アンリ・カミュの遺族には、遺族扶助金として3万5千ドルを即金で支払ったことが報告され、横浜鎖港をすべきではないと建言した。とにかくこれでフランスと日本は和解したのだ。これは、オールコックが主導したこの下関出撃の4カ国連合艦隊の崩壊を意味している。

鎖港談判使節の池田筑後守一行は、ヨーロッパでそのすばらしい文明を目撃し、ますます発展している交通、通信、軍事などの技術力を目の当たりにすると、日本で攘夷・鎖港と騒いでいることがいかに時代遅れかを痛感した。そして何にもまして、フランスからもイギリスからも鎖港談判など相手にもされなかったのだ。確かにフランスの外務大臣・ドロワン・デ・ルイスの対応は親切だったが、文久3年5月の長州の下関外国船砲撃事件や今回の横浜鎖港などは、先般フランスが譲歩合意した兵庫・新潟の開港及び江戸・大阪開市日延期の約束を無効にし、条約国に日本の条約遵守を強硬手段で要求させる口実を与えることになる。すなわち戦争になろう、と諭されたのだ。またすでに今回、英・仏・蘭が下関に海峡封鎖を武力解除する大艦隊を送る計画がフランスとイギリスで合意された事をも知らされ、横浜鎖港などすれば必ず戦争になる危険を諭されたのだ。

池田筑後守は、その長い帰国報告書に次のように書いている。いわく、

パリに出て来た元オランダ商館医師・シーボルトに会い、下関での理由も無いフランス軍艦・キエンシャン号への砲撃とフランス艦隊司令官・ジョレス提督の下関砲台の破壊と云う報復遠征費用は、西洋の通法では日本側が賠償するに値すると聞いた。・・・横浜鎖港の談判を始めると、文久2(1862)年5月に調印した「両都両港開市開港延期に関する約定」を元に戻し、無税の貿易を認めよとの言葉まで出し、交渉決裂になりそうだった。ましてスエズ運河が出来れば、各国が連衡合同し、日本に武力行使をしそうな勢いである。こんな世界情勢の中、日本国内では民心一和も無く、海陸の軍備も整わず、五洲万国を敵に回せば卵(からん、=石を投げて卵を割る)の勢いで、全国がどうなるか分からない。今の内に世界万国より優れた自立が出来るよう工夫し、国内を反覆する者は何としても力で抑制し、政府の権威を確立し、外国から文句が出ない様にし、条約を遵守し、海陸二軍を大充実すべきである。欧州の各国でも3〜5年の内には大乱が起こる兆しもあるから、国内を鎮圧し内治も行き届けば、欧州各国分裂の虚に乗じ画策する事も出来る。しかし只今破約にでもなれば欧州各国は合同し、御国・日本の災害となる事は必然の勢いである。

とこの様に述べ、こんな世界情勢の中では、海陸二軍の備えは勿論だが、各国との交際にも格別注意を払い、条約を守り信義を立てる覚悟で無ければならない。併せてまた、各国への公使派遣、多くの独立国との条約締結、海陸二軍強化習得のため留学生の派遣、西洋新聞社中への加盟、日本人の自由海外渡航を認める等々、五ヶ条の実施の上申書を書いている。京都表へは、自分達の実地目撃の上で前述した報告内容を 「御誠実に御奏上御座候はば、御氷解在らせらるべき儀と存じ奉り候」 と述べ、朝廷には唯一、こんな世界情勢と共にいったん締結した条約遵守義務とをよく説明すれば、朝廷も分かるはずだと書いて出した。本人も、直接京都にまでも行く覚悟だったともいわれている。

しかし、先鋭化した朝廷に横浜鎖港談判使節の成功を約束している幕府は、翌日の7月23日、談判使節がフランスと結んできたこのパリ協定を直ちに破棄し、池田筑後守に六百石召上げと隠居蟄居を、河津伊豆守に小普請入りと逼塞を、河田相模守に小普請入りと閉門を申しつけ、「不埒の至りに候」 と使命不履行を厳しく罰した。池田長発には幕閣に会い直接詳しい帰国報告をする機会をも与えぬ程の早業だった。幕府は朝廷に、「横浜鎖港をもって攘夷を始める」と約束してきたてまえ、いかに池田筑後守の報告書が理に適っていようとも、こうする以外の道は無かったのだ。

♦ 4カ国の下関砲撃とその結末


連合艦隊兵士に占領された前田御茶屋台場
(壇ノ浦台場の東側にあった)

Image credit: Felice Beato (born 1833 or 1834, died 1907)

こんな横浜鎖港談判使節・池田筑後守の突然の帰国という突発事件で頓挫したかに見えた4カ国連合艦隊は、幕府がパリ協定を破棄したと聞くやすぐさま7月26日の朝、横浜から下関に向け出港した。16艘もの蒸気軍艦で構成された大艦隊が来ては長州はたまらない。長州には負け戦が分かっているから講和をしようと試みたが、連合艦隊は8月5日から7日にかけて長州を砲撃し、力ずくで台場を壊し、再び海峡封鎖が出来ないようにするための戦争になった。連合艦隊の3日間の砲撃と上陸戦で完敗した長州は、8月14日(1864年9月14日)、現地で約定書を提出し和睦した。これは、 

  1. 外国船が馬関(下関海峡)通航の折は親切に取扱う。
  2. 石炭食料薪水その他入用品を販売する。
  3. 船が風破の難に遭った時は無障上陸してよい。
  4. 新規台場を造らず旧台場の修繕もせず大砲も置かない。
  5. 外国船への砲撃と遠征の賠償金は江戸における交渉に従う

を停戦条件としたものだった。連合艦隊はその後20日ほども3艘の見張り軍艦を下関付近に滞留させ、長州の協定遵守を監視させた。

一方幕府も元治1(1864)年9月22日4カ国と横浜で交渉の末、若年寄・酒井忠眦(ただます)は次のような取り決めを結んだが、2ヶ月前には朝廷から幕府に、禁門の変の責任を問う萩藩主・毛利慶親父子征討の命令が発せられていて、長州の暴挙を制御するのは幕府の責任であるから、賠償金は幕府が責任を持つべしという論法を受け入れた決着だった。それは、

  1. 長州の下関での外国船に対する暴挙への償金、4カ国が下関を焼かなかった償金、及び同盟艦隊派遣の諸費用として、合計300万ドルを支払う。
  2. 合計償金額を6分割し、各国がこの取り決めを批准した日から50万ドルずつ、3ヶ月ごとに支払う。
  3. 4カ国の主意は賠償金を得ることではなく、日本との交易である。もし日本が望めば、下関港か内海の適当な港を開き300万ドルの支払いに替えることを認める事もあるが、それは4カ国政府の判断で定め、賠償金の支払いを要求する時は、上述のごとく支払うこと。
  4. 日本は調印後15日以内に批准すべきこと。

この幕府責任に対する賠償金中の「4カ国が下関を焼かなかった償金」とは、前述した薩英戦争後のイギリス国内で、「町が焼かれ罪もない一般人が犠牲になった」と自国政府への非難が集中し、女王が「遺憾の意」声明まで出さざるを得なくなった。従ってこれは、この経験を生かした対応で、いわば注意深く一般市民に危害を加えない、あるいは街を占領まではしない武力行使であったわけだ。英文では「Ransom」という語を使っているが、いわば、街の開放身代金とでもいう性格のものだ。がしかし、これをも恩着せがましく賠償金を取る理由にしたイギリス外交のしたたかさは驚くほどである。

別の章で書くが、この第3項の「現金支払いか内海開港か」という選択に対し幕府は、港を開かず300万ドルの賠償金支払いを受け入れた。これは当時の幕府年間支出額の四分の一にもあたる莫大な金額だ。この賠償金は4カ国で分配され、最初に実被害を受けたアメリカ、フランス、オランダが夫々78万5千ドル、イギリスが64万5千ドルと決まった。しかしこの賠償金を受取ったアメリカ政府は、後にその全額を日本に返還筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) する事になる。

更に、これは後日判明した事だったが、イギリスの外務大臣・ラッセル卿は、オールコック公使に宛てた1864(元治1)年7月26日付けの書簡で、「今回貴君から受け取った書簡に関し、女王陛下の政府は、日本領域で自衛以外の如何なる軍事行動も取らぬよう明確に命ずる」と書き送った。更に8月8日付けの書簡では、「いまだ大阪の開市が始まらないうちに、内海の航行不能が通商を阻害すると云う理屈が分からないから、至急帰国の上わが政府と相談すべし」と、オールコック公使の帰国を命じていた。またそれから10日後にも、「大阪や京都が閉ざされている限り、通商のためのヨーロッパやアメリカの内海航行は不必要に思われる。・・・従ってそんな状況下で貴君は、キューパー提督に、長州に対する戦争行動に出る要請をすべきではない」と、再度の武力行使不許可の書簡をも送った。これら全ての書翰はしかし、4カ国艦隊が横浜を出航し下関で戦争が始まった後に日本に到着したから、下関戦争に影響を与えなかったと云われている。

またこの下関賠償金交渉の時すでに条約4カ国側では、アメリカ公使・プルーインがかねて主張する「日本の平和と安定のためには、朝廷が条約を勅許すべし。」と云う意見に完全に同意していて、日本の政情安定化のために不可欠だと、賠償金交渉に先立つ9月6日の会談でも、老中・牧野忠恭(ただゆき)、水野忠精(ただきよ)などに強く主張し、各国とも将軍宛の親書をも提出していた。この条約4カ国側の意見はその約1年後、朝廷の条約勅許及び兵庫先期開港を要求するため、突然4カ国側は軍艦9艘を率いて横浜を出帆し、兵庫沖に出現すると云う行動で強要される事になる。これについては、次章の条約国の兵庫沖への軍艦派遣と条約勅許筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) を参照されたい。

 


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03/19/2017, (Orginal since December 2006)