日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

大老・井伊直弼に、条約の無断調印を面責

安政5(1858)年6月24日、早朝6時ころ家を出た福井藩主・松平慶永は大老・井伊直弼の私邸を訪れ、朝廷から 「再度諸侯と協議せよ」と命ぜられ条約調印の勅許を得られなかったのに、アメリカと通商条約の調印を終えたのは、将軍家自ら勅命に背いたことになり示しがつかないと井伊を責めた。こうなったからにはどうやってこの罪の許しを得るのだ、いつ井伊自身で京都に行く気かと問い詰めた。また、将軍後継は一橋慶喜にすべきだとも説いた。両者の話し合いは平行線で、井伊直弼は登城時間が来たと話を打ち切った。

同じ日の早朝、前水戸藩主・徳川斉昭は松平慶永に使いを送り、本日大老や老中と重要な話をするつもりだから貴殿も一緒に登城してくれと要請した。そして示し合わせた名古屋藩主・徳川慶勝(よしかつ)と子息の水戸藩主・徳川慶篤(よしあつ)を伴い11時ころ登城し、大老と老中に面会を求めた。この徳川斉昭の登城は予定外で、事前に幕閣と予定外登城の了解が無かったから、後に幕府、すなわち井伊直弼からこれを理由に処罰を受ける事になる。続いて登城した松平慶永は、まず老中・久世に面会を求めた。

斉昭は登城すると廊下を渡りながら、「条約に無断調印したことは御違勅であり、今日は掃部頭に腹切らせずには退出できない」と大声で罵りながら入ってきた。老中たちは井伊に斉昭には会わないほうがよいと勧めたが、井伊は、「会わなければ臆病と思われ将軍の威厳にもかかわる。自分が切腹することで将軍のお役に立つなら厭だとはいえない。ご一同続いてくれ」といい、老中と共に会見した。

斉昭は、朝廷の思し召しに勅答も済まぬうちから条約に調印とは御違勅であり、もってのほかだと詰め寄った。井伊は斉昭に、朝廷の意向は 「御国体に拘わらぬように」との事である。今日の蛮夷の形勢は昔と大違いで、地の果てにあるような国にも隣に行く気安さで航海する技術を持ち、兵器なども実戦で試して改良し、強国となった今はとてもかなわない。そんな諸蛮が交易と通商を望んで来ているのに、古いしきたりを守って手強く断ったらたちまち戦争になる。四方を海に囲まれた日本はとてもかなわない。すでに諸侯の存寄り(意見)をたずねてあるが戦争をすべきだとの声は皆無だった。朝廷は 「もう一度諸侯の赤心を訊ねよ」との仰せだが、もう少しでそれも出揃う。アメリカ使節も云うように、英仏の軍艦も清国に勝った勢いで近日中に渡来するということで、戦争を避けられない状態に至ってから条約を結ぶのは国の面目が立たず、そんな最悪な状態を避けるための対処である。井伊がこのように筋道を立てて説明すると、斉昭もそれ以上の明確な反論ができなかった。立場の無くなった斉昭は、越前(松平慶永)を呼べと応援を求めたが、慶永とあなたとは家格が違うから同席など出来ないと諌められると、突然話題を変え、将軍の後継は一橋殿(慶喜)にすべきだと詰め寄った。井伊は、血統から云って紀伊殿(徳川慶福)で、もう将軍・家定とも話し内定したと伝えた。今度は斉昭が、なぜ早く朝廷に使いを立てないのかとなじったが、井伊は間部下総守が内定済みだと答えた。どうしても井伊に一撃を加えたい斉昭は、松平越前守(慶永)は格別優秀だから、国難の折、大老に任ずべきだととんでもないことを云いだした。老中・間部詮勝が引き取って、一応ご尤もではあるが、神祖以来大老と老中を中心に置き、御三家を配したのが将軍補佐の組織である。今仮に、皆様方御三家の中に格別優秀な方が出たといって御四家にするわけには行かないでしょうなどと、冗談とも取れるとりなしをすると、皆大笑いになった。まさに家格をいいつのり名誉心をくすぐるこんなやり取りが続き、午後2時ころになると斉昭、慶勝、慶篤は皆手持ち無沙汰になり、始めの威勢はどこへやら、皆ニコニコと退出していった。

この顛末の報告を受けた将軍・家定は、「掃部に詰め腹切らせる」などといきまいた前中納言(斉昭)はけしからぬと、たいそうに立腹だった。

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07/04/2015, (Original since 08/04/2010)