ジョーン・ブルック大尉
バージニア・ミリタリー・インスティチュート
教授時代(1866〜1898年)の肖像
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明治31(1898)年に当時の日刊新聞・時事新報に連載され始め単行本にもなって以来、広く読まれた福沢諭吉の『福翁自伝』に咸臨丸の渡航を、
目に蒸気船を見てから足掛け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、それで万延元年の正月に出帆しょうというその時、少しも他人の手を借らずに出掛けて行こうと決断したその勇気といいその伎倆といい、これだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。前にも申した通り、航海中は一切外国人のカピテン・ブルックの助力は借りないというので、測量するにも日本人自身で測量する。アメリカの人もまた自分で測量している。互いに測量したものを後で見合わせるだけの話で、決してアメリカ人に助けて貰うということは一寸でもなかった。ソレだけは大いに誇っても宣いことだと思う。
と書いている。初めて咸臨丸でアメリカに渡った福沢は、軍艦奉行・木村摂津守の家来の一人として乗っていたから、明治以来、この文章が広く信じられてきた。
しかし一方、咸臨丸の太平洋初渡航に多大な貢献をしたジョーン・ブルック大尉、すなわち福沢の云う「カピテン・ブルック」については、あまりにも知られていない。ブルックの事跡を調べれば、筆者には咸臨丸がブルック大尉の助け無しに渡海できなかった様に思われるし、地味ではあるが、横浜開港前後の日本と非常に太い線でつながっている人物だ。上に引用したように福沢は、「カピテン・ブルックの助力は借りない・・・」と一方的にブルックの名前まで挙げその功績を否定し、咸臨丸の壮挙だけを称えたようだが、何か特別な意図があったのだろう。
さて、ブルック大尉と日本のかかわりは、大きく次の3つに分けられる。
1、ペリー提督が幕府と日米和親条約を締結して日本を去った約一年後の1855(安政2)年5月13日、ブルック大尉はアメリカ海軍の太平洋調査船団の一員として下田に上陸した。
アメリカ海軍はすでに組織的な全世界の海洋調査を始めていたが、1852年10月、アメリカ政府はグレイアム海軍長官やケネディー海軍長官の強力な後押しで、太平洋全域と支那海、および日本の太平洋側沿岸や日本海側沿岸からカムチャッカ及びベーリング海域も含む広域の海洋測量調査を計画した。これはかってないほど大規模な、充実した測量・観測設備を備え、植物学者や動物学者、また画家兼写真家まで乗組む調査船団で、アメリカ政府の力の入れ方が分かる一大海洋調査だった。翌年6月11日、すなわちペリー提督が日本に向けてアメリカのノーフォーク軍港を出発した約半年後、同じくノーフォーク軍港を出発した調査船団の構成は、旗艦のスループ型砲艦・ヴィンセンス号(700トン)、二檣帆測量船・ポーパス号(224トン)、スクリュー蒸気軍艦・ジョン・ハンコック号(530トン)、補給船・ジョーン・P・ケネディー号(350トン)、そして95トンのスクーナー型小型測量船・フェニモア・クーパー号の計5隻からなっていた。ただし、補給船・ジョーン・P・ケネディー号は積荷の関係で、ニューヨーク港から出航した。
海軍士官で且つ測量や天文観測もする海洋学者として実績のあるジョーン・ブルック大尉が、この調査船団の科学調査や観測の専門家として、旗艦・ヴィンセンス号上に乗組む科学者達の指揮を任された。南太平洋を調査した後、香港を出発した艦隊は日本の沖縄本島、奄美大島や喜界島、種子島、九州南部を測量しながら下田に入港した。
ここでブルックは志願して、長さ9mにも満たない旗艦・ヴィンセンス号のカッターに帆を仮付けした帆走小型ボート・ヴィンセンス・ジュニア号に、食料や測量器具、テントや小型ホウィツァー砲を積み、下田から日本の太平洋沿岸を函館まで詳細に測量した。この過程で各地の日本人と小規模な交流もあった。函館で本隊と合流した後、調査船団は再びカムチャッカ、ベーリング海調査を終えサンフランシスコに帰ったが、これがブルック大尉の一回目の日本との出会いだった。
2、カリフォルニアと支那間の航海が増えるにつれ、更なる詳細な海洋調査が必要になった。1858(安政5)年4月海軍省からブルックに、フェニモア・クーパー号を使っての海洋調査命令が出た。そして再度日本にやって来た。
この調査の目的は、島や岩礁、危険水域の詳細位置の確定にあった。準備を進めるブルックは、このプロジェクトに尽力するカリフォルニア選出のグイン上院議員を通し、アメリカに帰化した前漂流者・ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)と知り合い、日本に帰りたいというヒコを日本まで乗船させることにした。薄給ではあるが船長付き事務官という資格だ。準備が整った1858年9月26日、95トンのフェニモア・クーパー号は、いよいよサンフランシスコからハワイに向け測量調査に出発した。こんな小さい船だから、ヒコはたちまち船酔いに見舞われ船室に閉じこもったままだった。しかしブルックの調査結果は、ハワイまで危険水域もなく、現在の航路に何の問題もないことを確認した。
ホノルルで補給したブルックは、更に5週間にわたりハワイ諸島の西北西、1,700Km位までにある岩礁の幾つかを調査・測量した。この近辺はハワイと日本や支那への航路近くに当り、位置の特定が不可欠の岩礁群がある。ここには「グアノ」と呼ばれる大量の堆積物が岩礁上にあることを確認し、領有宣言もした。グアノは長年に渡る海鳥の糞の堆積物で窒素肥料になる。当時大規模な採掘が行われたという。サンフランシスコからハワイまでや、この岩礁群調査の間、ヒコはずっと船酔いで仕事にならなかった。
再びハワイに帰ったブルックがホノルルに滞在中、数回日本人遭難者が救助されハワイに連れてこられ、その都度ヒコが通訳の労をとった。その中で淡路島出身の「ティム」と呼ばれる遭難者は、ぜひフェニモア・クーパー号で一緒に日本に連れて帰ってもらいたいと強く望み、ヒコはブルックに紹介した。淡路島はヒコの出身地・播磨に比較的近いから、双方で懐かしく思ったのだろう。ティムの日本名は「政吉」という。ブルックは親切にもティムをも雇う形で同行を許した。
一方船酔いで苦しんだヒコは、ホノルルでブルックの許可を得てそれ以降の測量調査に付き合わず、自費で客船に乗り、単身香港に到着した。そこからアメリカ東インド艦隊・タットノール提督の旗艦・ポーハタン号に同乗し上海に移動した。ハワイでブルックに書いてもらった親切な推薦状のおかげで、アメリカ人になっているヒコは海軍からも親切な待遇を受けた。ヒコの幸運はまだ続く。1858年の「日米修好通商条約」を仕上げ、疲れきったハリスが休暇を取るためミシシッピー号で上海に来ていたが、ここでハリスは国務省から、それまでの「駐日米国総領事」の地位から「駐日米国公使」に昇格する通知を受けた。そして新開港地・神奈川駐在のアメリカ領事に、カリフォルニア出身のイーベン・ドールを新しく任命したばかりだった。ドール新領事はヒコに会うと、早速ヒコを神奈川領事館付き通訳として採用する事に決めた。ハリス公使、ドール領事、ジョセフ・ヒコは1859(安政6)年6月22日、ミシシッピー号で無事下田に帰り、公使館や領事館を作るための準備をし神奈川にやって来た。
ホノルルでヒコと別れたブルック調査隊は、1859年3月9日、進路を西南西に、1,300Km離れたジョンストン島岩礁の調査に向い、更にマーシャル群島、マリアナ群島、その他のサンゴ礁を調査しながらグアム島を経由し香港に向った。香港からは沖縄、種子島、大隈半島と日本沿岸測量にかかり、8月13日、ついに開港直後の神奈川に到着した。ブルックはすぐ神奈川の丘の上にできた本覚寺のアメリカ領事館を訪ねたが、ここでドール領事と共に領事館通訳なっていたヒコに再会したのだ。5ヶ月ぶりである。
ブルックは8月16日馬に乗って江戸に向かい、アメリカ新公使館の麻布・善福寺にいるハリス公使に面会すべく横浜を出発した。しかしブルックが江戸に行っている間に、不幸な事故が起った。神奈川沖に停泊していた測量船・フェニモア・クーパー号が、21日突然の強い嵐に見舞われ、碇を引きずったまま横浜方面に流され、久里浜沖の海獺島(あしかしま、現在の久里浜港沖約2km)の岩に乗り上げて浸水し、難破してしまったのだ。アメリカに帰る船を失ったブルック調査隊は、横浜で幕府から家を借りて一時滞在することになり、ハワイから同行してきたティム(政吉)も一緒だった。横浜滞在中の8月25日、横浜の波止場でロシア海軍士官が日本の侍に襲われた時には負傷者を自宅に連れてきて応急手当をしたり、1860年1月3日、強風下に横浜の街が火事で焼けたときには消火を手伝ったり、神奈川から横浜にかけて港の水深を測量したりと、地味な活躍をしている。この水深測量の結果は、ハリスが横浜から神奈川に強引に商人たちを移転させようとしたとき、神奈川は水深が浅く大型船舶が接岸できず、横浜からは移転できないという重要な根拠になったほどだ。
一方ブルックに良く仕えたティムこと政吉は、後にブルックが咸臨丸に乗り込むと故郷の淡路島に帰ったが、程なく徳島藩に通辞・天毛(あもう)政吉として召抱えられ、横浜にあるアメリカ商社から蒸気船購入などの通辞を務めている。
3、咸臨丸に乗り込みサンフランシスコに向かう。
測量船・フェニモア・クーパー号を横浜で失ったブルック調査隊一行は、日本遣米使節を送るため来日するタットノール提督のポーハタン号に便乗して帰国する予定だった。しかしここでブルック大尉の立場は、日本側からアメリカへの、「誰か、派遣する日本軍艦に乗り組んでもらえないか」という要求を満たすにはこれ以上にない候補者だった。本文で書いたように、既に水野筑後守と永井玄蕃頭から日本軍艦にはアメリカ人を乗船させたいという幕閣への申請が出ていたから、アメリカに行く事になった軍艦奉行・木村攝津守が幕閣よりハリス公使に依頼してもらい、ハリスやドール領事らの意向を受けたブルックは、日米友好のため自分の能力を使おうと、「日本軍艦に乗り組んで欲しい」という日本側の願いを聞き入れた。
しかし、最後まで懸念が残ったのは日本の派遣する軍艦についてだった。ハリスの情報では側輪推進式蒸気船らしいとの事だったので、ブルックは、冬の太平洋を渡るには帆走時の抵抗の少ないスクリュー推進式の新しい船でないとだめだと意見を述べ、タットノール提督も同意見だった。早速ドール領事は、神奈川奉行にこのことを伝えたが、これが1860年1月15日(安政6年12月23日)のことだ。2日後ポーハタン号の主任技術者とブルックは、実際に日本側が再度選定し直した咸臨丸を検分し、これなら同乗できると最終決断を下した。本文にも書いたが、この一連のブルック大尉の助言により、幕府は早速咸臨丸の派遣を正式決定し、勝海舟は徹夜で咸臨丸の整備をすることになる。しかし海舟自身はころころと船を変える上層部の方針に不満で、「万事甚だ不都合ならん」と議を唱えているが、ここでは触れない。以上がブルック大尉の咸臨丸に乗り込む経緯である。
1860年2月7日(安政7年1月16日)、咸臨丸はブルック以下11人のアメリカ人を乗せ横浜を出港し、浦賀で補給品を積み込み太平洋に乗り出した。浦賀で出航準備をしている間にブルックの部下達は、咸臨丸の艦砲の長い砲身を荒海の航海に備えてしっかりと固定し、ブルック自身は万次郎に航海用精密時計の補償原理を説明したりと長航海の準備万端を整えた。
しかし一旦荒海に出て、大圏航路沿いに北東に進路を取り暴風雨の中を航海し始めると、ブルックは様子がおかしい事に直ぐ気付いた。船長の海舟は浦賀を出港する前から下痢をしていて起き上がれなかったが、海舟自身も、「熱病を煩っていたけれども・・・軍艦の中で死ぬるがましだと思ったから」咸臨丸に乗り込んだと書いているほど悪かったようだ。おそらく下痢と船酔いで起き上がることも出来ず、ほとんどの日本側乗組員も船酔いになり、木村攝津守も船室から一歩も出られなかった。最初の3日間は石炭を焚き、蒸気推進と一部の帆を揚げた帆走の両方であったから、風に合わせた帆の操作にそれほど神経を使わずに済んだ。しかし完全な帆走に移ってからは、交代で24時間たえず風と海の様子を観察し、適宜帆の上げ下ろしや角度の調整をせねばならないし、風に逆らったジグザグ走行も必要になる。
暴風下での2月14日のブルック日誌には、
熟練した万次郎はほとんど一晩中デッキに出ていた。彼はこんな仕事が好きなようだ。昔やった仕事を思い出すのだろう・・・日本人の乗組員は技量が不足していて(強風のさなか)帆を揚げることが出来ない。士官達も全く無関心で、こんな暴風の海での経験が何もなさそうだった・・・操舵手達も、どうやって風を利用し操船するか何も分かっていない。転桁索(てんこうさく)やはらみ綱操作にも参加しない・・・暴風。主上帆を帆桁に引き上げた。横帆の巻上げ綱が切れた。日本の乗組員は帆の巻込みが出来ない。我が船員を檣頭に登らせ、やっと帆を巻込んだ。
と書いている。17日には、
日没に上部の2つの帆を巻くよう命じたが、日本人は自分達だけで巻き込めなかった。我が船員が耳綱を引っ張り巻き込んだ。(デッキに出ている)ケンドールがまだ病気で寝込んでいる船長の代わりに指示を出している。
と、ほとんどアメリカ船員が咸臨丸を操船していたようだ。
20日には全く失望したことが書いてある。いわく、
今日士官や乗組員に、監視し、部署に着き、人員配置をする訓練を提案した。予想もしない事だったが、6人の大尉クラスの士官のうち数人が、その役目の遂行が出来なかった。(木村)提督は、無能な士官より陸上の位が上でないというだけで、優秀な監視が出来る士官に任務を与えなかった。その結果は成り行き任せになり、必要な人員配置が出来ず必要な操船が出来ないということだ。提督は船舶操船術は全く知らないで、知っている事といえば、私が船の面倒を見てくれるということだけだ。それで全て解決したと思っている。
と、だいぶ厳しい。
通訳として乗っていても操船術に習熟した中浜万次郎は別にして、このような暴風の海では、日本の仕官も乗組員もほとんどなすすべを知らなかった。中に数名の優秀な士官も居たようだが、封建社会の下級武士は上級武士の上につくことはできず、ブルックの強い要請にもかかわらず木村攝津守は組織を変えなかった。こんな悪戦苦闘が全工程の3分の2以上も続いたから、ブルックはじめ11人のアメリカ人の乗り組がなかったら、どうなっていただろうかと思うのは筆者一人ではあるまい。
参考のため、遣米使節の乗ったポーハタン号の船員の行動はどうであったろうか。仙台藩士で正使・新見豊前守の従者としてポーハタン号に乗った玉蟲左太夫はこう書いている。いわく、
規則にいたっては極めて厳しい。士官や船員にいたるまで各々当直があり、時間で交代する。もっぱらその職務に就いて、他には触れない。風波があっても怠りがない。
ブルック大尉がこのように厳しい組織的行動を少しでも期待して咸臨丸に乗船したとしたら、これは何としたことだと失望だけだっただろう。この厳しさは、乗船する全員の命にかかわっているからに他ならない。
とにかく咸臨丸はこんな暴風の海を無事に乗り切り、38日かけて3月17日、やっとサンフランシスコに到着した。
その後のブルック大尉
咸臨丸でサンフランシスコに着いたブルック大尉は、太平洋調査行以来ブルックと行動を共にしている製図担当のエドワード・カーンなどと、咸臨丸修理のお膳立てや市街の諸設備見学など、木村攝津守、勝海舟、その他幹部の面倒を見ている。サンフランシスコでの一連の事後処理が完了した後、ブルックは自身の太平洋調査航海の報告書をまとめるためワシントンの古巣・ネービーヤードに戻った。
その後不幸にも勃発した南北戦争では南軍で働き、南軍の兵器・水路測量局長に昇進して優秀な大砲を開発し、戦争終結後は、引退するまでバージニア・ミリタリー・インスティチュートの天文・彗星・地理学教授を勤めた。