日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

ペリー提督からの贈り物

ペリー提督率いる7艘にも上る黒船艦隊が安政1(1854)年1月16日に江戸湾深く小柴沖の投錨地に勢ぞろいしてから、日米の交渉地を何処にするかでもめていたが、日本側の譲歩でやっと横浜での応接に決まり、2月10日から日米の談判が始まった。日本側は開口一番に通商は拒否したが、薪水食料の供給や遭難者への親切な対応、更に石炭供給は直ちに約束した。ペリー提督が危惧していた全てを拒否する対応ではなかったから、ひとまず交渉が出来る事を確認したペリー側は、日本側が拒否した通商条約の交渉にも探りを入れて来た。そしてこのタイミングを見計らったペリーは2月12日、フィルモア大統領からの国書の最後に書いてあった通り、アメリカから持って来た贈り物を献上したいという願いを出し、2月15日、準備して来た日本国皇帝への贈り物を陸揚げし贈呈した。日本側にとっては初めて見る実際に動く汽車の模型や電信機など珍しい品物が多くあり、ペリー提督からの贈り物は友好を掻き立てるには絶好のタイミングだった。

 贈り物の陸揚げと贈呈式

 
徳川家の紋         林家の紋
『ペリー提督日本遠征記』に載せられた、紺地に白抜きに
染めて旗にしてボートに立てた、徳川家と林家の家紋。
( 三葉葵紋は上下が逆に、林紋は90度横になっている )

Image credit: US Government

贈り物の陸揚げと贈呈式の指揮に当たったマセドニアン号艦長・アボット大佐とミシシッピー号艦長・リー中佐は、午前11時頃から27艘もの大型上陸用ボートに梱包した贈答品を乗せ、上級士官や海兵隊の総員300人程に守られ、音楽を吹奏する楽隊と共に上陸し、ペリー提督からの贈り物を日本側の用意した屋根の下に搬入した。当日は朝から雨が降っていたが、多くの荷物は損傷も無く陸揚げされ、無事に格納された。

この時に中でも日本側の眼を驚かせたものは、ペリー提督からの贈り物を運ぶ先頭のボートの舳先に紺地に徳川家の葵の紋を白抜きに染めた旗とアメリカ合衆国の旗を並べて立て、艫には同様に林大学頭の家紋を白く染めだした旗も立てていた。これを目にした日本側の全員がビックリし、その準備の良さに感嘆したのだ。この家紋あるいは紋章の伝統は、日本と同様にヨーロッパでも12世紀頃から存在し後にアメリカでも使われているから、ペリー提督の遠征艦隊の誰でも良く認識できたものである。

この贈呈式に出席したアボット大佐とリー中佐は士官達と共に林大学頭に会い、アメリカからの贈り物の目録を渡し、贈呈式を終えた。この時アボット大佐は、日本の代表的な工芸品や食器などを欲しいと言うアメリカ側の希望一覧表を出している。この贈呈式が終わると林大学頭は、ペリー提督との次回の交渉日を約束し、アメリカ側から強く要求されていた複数港の開港に対する返答を約束した。

この日の贈り物の贈呈式にはペリー提督と参謀長・アダムス中佐は上陸しなかったが、林大学頭はこの事情を細かく観察し記録している。いわく、

この後もペリーとアダムスが上陸する時はアボットとリーは船に残り、アボットとリーが上陸する時はペリーとアダムスは船に残った。アボット大佐とペリー提督は位階(筆者注:海軍の階級)は同じとの事であり、服飾(筆者注:階級章)も同じ物を着けている。リーはアダムスと同様である(筆者注:当時2人の階級は中佐であったが、アダムスは艦隊参謀長(Captain of the Fleet )役であった)。これに付いて考えるに、ペリーとアダムスが上陸中に若しこちら側で伏兵を隠して置いて使節らを討取る様な事があれば、直ちに船に残っているアボットがペリーに代わり水師提督になり、リーをアダムスの代わりにする計画の様に察せられる。

と書いている。これは取りも直さずペリー艦隊の危機管理の中心の一つであり、日本の侍の戦でも城主が城を出て戦う時は必ず城代を決めた場合が多くあるから、林大学頭やその他の役人達はよく心得ていたに違いない。ペリー艦隊の各軍艦には必ず夜間の歩哨が立ち、厳格な規律がある事も日本側には良く分かっていたのだ。

 アメリカからの贈り物の内訳

翌日の16日、アメリカ側の贈り物一覧表が老中に提出され、海防掛け、大目付、目付、江川太郎左衛門などを加えた一同の評議がなされた。評議の結論は、

不用意な事ではあるが今更致し方もないから、彼等の望みの品は応接掛けの判断でどんな品物を渡しても良いが、ただし金銀は渡さぬように。その他は応接の者へ委任する。御台様への貢献物があるが、これを受取る事は間違いである。今は居られない事を伝える様に。

と云うものであった。しかしその後、この「御台様への貢献物」を返した形跡は無いからそのまま受け取ったのであろうが、当時将軍家定の正室は二人とも病死し、薩摩出身の天璋院が輿入れする前であったのだ。アメリカからの贈り物の内訳は、主任通訳官・ウィリアムスによれば夫々、

皇帝(将軍)宛:4分の1縮小蒸気車模型とレール、電信機と長さ3マイルの電線及びガタパーチャ電線(gutta percha wire筆者注:海底ケーブル)、銅製フランシス救命艇、銅製ボート、農業器具、オーデュボン鳥類図鑑、ニューヨーク州博物誌、議会年報、ニューヨーク州法典、ニューヨーク州議会誌、灯台報告書、バンクロフト米国史、農業指導書、米国沿海測量図、モリス工学書、銀装飾衣料箱、8ヤード大幅高級深紅色羅紗、8ヤード大幅深紅色ベルベット、米国標準ヤード尺、同ガロン枡、同ブッシェル枡、同天秤と分銅、マデイラ・ワイン、ウィスキー、シャンペン・シェリー酒・マラシーノ酒、茶、州地図とリソグラフ、スタンド付き望遠鏡、鉄板製ストーブ、香水類、ホール・ライフル銃、メイナード・マスケット銃、騎兵刀、砲手刀、カービン銃、陸軍ピストル、ニューヨーク州立図書館・郵便局カタログ、錠付き郵便袋。

御台様宛:花模様刺繍ドレス、金色化粧箱、香水類。

林大学頭宛:オーデュボン獣類図鑑、4ヤード大幅高級深紅色羅紗、時計、ストーブ、ライフル銃、陶製茶器セット、6連発ピストルと火薬、香水類、ウィスキー、刀剣、茶、シャンペン。

伊勢守宛:銅製救命ボート、ケンドール著述のメキシコ戦争とリップリー著述のメキシコ戦争史、シャンペン、茶、ウィスキー、時計、ストーブ、ライフル銃、刀剣、6連発ピストルと火薬、香水類、4ヤード大幅高級深紅色羅紗。

その他の老中及び交渉委員(備前守宛、和泉守宛、伊賀守宛、大和守宛、紀伊守宛、井戸対馬守宛、伊沢美作守宛、鵜殿民部少輔、松崎道太郎):夫々に贈られたが、詳細内容は省略する。
しかし特に、当時浦賀奉行で交渉委員の1人だった伊沢美作守宛のリストには、「真鍮製ホウイッツァー砲と台車2台」との記録がある。これは手軽に上陸ボートや台車に乗せ換えて使える榴弾も打てる小型砲で、日本側が特に譲渡を希望したものである。これに付いては 上陸ボート上に設置したホウィッツァー砲 筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) を参照して下さい。

この他にも多くの農機具、ジャガイモ、種などがあった。

以上はペリー艦隊の主任通訳官・ウィリアムスの日誌の記録であるが、こんな贈り物の数を見れば、大量に持って来たことが分かる。特に阿部伊勢守に送られたケンドール著述のメキシコ戦争とリップリー著述のメキシコ戦争史は、ペリー提督自身が蒸気軍艦・ミシッピー号を率いて参戦し勝利を収めた戦いだったから、ペリーとしては是非読んでもらいたい書籍だったろう。ケンドール著述のメキシコ戦争(The War between the United States and Mexico illustrated (1851) by KENDALL, George Wilkins and Carl NEBEL.)は従軍記者であったケンドールの著述で、素晴らしい挿絵が入り、大人気の書籍であったと言う。

贈呈式と公開実演が終わったこれ等の品々はその後日本側の手で再度梱包され、3月2日に横浜から江戸に向け発送された。江戸城に着いた品々は早速黒書院・松溜・竹の廊下に並べられ、3月4日に老中達が下見をした後、翌日5日に将軍の上覧が行われた。当日将軍・家定は前水戸藩主・徳川斉昭を伴って見て回り、その時2挺の剣付き銃を斉昭に与えている。斉昭は大喜びで銃を手に取って見てその出来栄えに感心し、更に6連発のピストルも拝借して帰った。この2挺の銃は剣を着装するメイナード・マスケット銃で、恐らく雷管方式であったろうと思われる。

 汽車模型の運転

贈呈式の後1週間ほどで組み立てが終了した汽車の四分の一縮小模型は2月23日、応接場近くの広場に一周約100m程の円形に敷いたレール上を、時速20マイル、32km程の早さで実際に運転された。日本側は皆が蒸気で動く事は理解していた様だが、その速さに感心した。またこれに乗れば1日にほゞ400q、100里の旅が出来ると聞いて、その距離にも感心した。これに乗って江戸・日本橋から東海道を下ると、1日で尾張・名古屋の先の桑名まで行けるのである。

 
横浜での汽車実演風景        「4-4-0型」特許図面
· 横浜での汽車実演風景:Image credit: Courtesy of Brown University Library, 
https://repository.library.brown.edu/studio/item/bdr:304537/
·「4-4-0型」特許図面:Image credit: Creative Commons Attribution-Share
Alike 4.0 International license.

横浜で走った四分の一に縮小した蒸気機関車の模型は、長さが約2.4m程で実際に石炭を焚いて動かしたが、ペリー提督のためにアメリカ・フィラデルフィア市のノリス汽車会社(Norris Locomotive Works )が造ったものである。この会社はウィリアム・ノリスとスティーブン・ロング少佐により1832年に創立され、当時は汽車製造で有名な大会社であった。横浜で走った模型の汽車は「4-4-0型」と呼ばれ、前方に2軸4車輪の車体支持車輪があり、その後方に2軸4車輪の動輪があり、更にその後方には車輪無しという機関車タイプである。これは1836年に特許が出され、当時アメリカで最も多く製造された蒸気機関車であったという。ペリー提督はアメリカのそんな人気蒸気機関車の模型を横浜で走らせたのである。

このペリー提督が見せた汽車模型は、実は日本で最初に見る汽車模型ではない。前回の来航でペリーが日本側に国書を渡し江戸湾を退去してからほぼ1ヵ月後に、ロシアのプチャーチン提督も通商を求め長崎にやって来た。この時プチャーチンは、蒸気機関車の小型模型を持って来て佐賀藩の役人達に見せている。役人達は、長さ20cm程の蒸気機関車が、旗艦・パルラダ号の士官室のテーブルの上に敷いたレール上を走るのを見たのである。これはその寸法から想像できる通り石炭燃焼ではなく、アルコールを燃焼させて水を沸騰させる方式であった。佐賀藩ではその直後から同様の模型造りを計画し、田中久重が苦労の末その2年後に見事に造り上げたと聞く。これもアルコール燃焼方式の汽車模型で、長さ33cm、高さ30cmであったと言う。

 電信機の実演

翌日の24日には電信機の実演も行われた。応接場の北西の方へ900m程の洲干弁天前の民家との間に、50m毎に長さ3mの杉の柱を何本も立てて電線を張り、電池と電信機をつないだ。当時はまだ実用的な二次電池は発明されていなかったから、ダニエル電池であったと思われれる。『亜墨理駕船渡来日記』にある「台の下にギヤマンの壷七つあり。」という記述がこの電池であるが、電池は直列接続の7.7ボルトで使われたのだろう。電信機には受信用に紙テープを巻いたリールがあり、送信機側からモールス符号で「トン・ツー」と打たれた信号が受信機側の紙テープに「トン・ツー」と凹み筋を付ける方式で、このモールス符号をアルファベットに読み換え、「YOKOHAMA」、「JEDO」の様に読めたという。テレグラフの実演を見学した『渡来日記』の著者は、「何れにても筆談の理に同じ。」と書いている。

また主任通訳官・ウィリアムスの日誌によれば「ガタパーチャ電線(gutta percha wire)」と呼ばれた、銅線を天然樹脂で被覆した電線も海底ケーブルの例として披露された(A Journal of the Perry Expedition To Japan (1853-1854) by S. Wells Williams, First Interpreter of the Expedition. Edited by his son F. W. Williams. 1910. P.131 )。天然樹脂・ガタパーチャはマレー諸島からソロモン諸島に分布するゴムの木の一種からとる樹脂で、この地域の樹脂は絶縁特性に優れ、柔軟性に富み海水耐性が良く、海底ケーブルの被覆には最適であった。こんな海底ケーブルを、イギリス側のドーバーとフランス側のカレー間のドーバー海峡の海底に敷設し通信が確立されたと言う情報が、オランダから日本に、2年前の嘉永5(1852)年の「別段風説書」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) で伝えられている。この敷設は1851(嘉永4)年9月25日に開始され10月15日に仮設が終わり、諸問題を解決した後11月19日に一般公開されたものだ。イギリス側とフランス側にこの海底ケーブルに接続した電気式雷管を装備した大砲を置き、イギリス側のスイッチを入れてフランス側の大砲を打ち、フランス側からも同様にしてイギリス側の大砲を打ち、成功裏に開通式を終えた。早くもこの成功の翌年には、オランダから日本に「別段風説書」を通じ知らされていたのだ。また翌嘉永6年の別段風説書には、オランダと英国間にも同様に敷設されたと報じている。当時の日本には恐らく誰も詳しく理解できた人は居なかったと思われるが、その海底ケーブルの見本を最初の「別段風説書」情報の2年後、即ち敷設成功の3年後には横浜で実際に見る事が出来たわけである。現在の情報社会では国際間の情報通信は殆ど海底光ケーブルが担っていると聞くが、そこにつながる当時の最先端技術・電信機と海底ケーブルがペリー提督によってもたらされ、横浜で実物を見る事が出来たのである。
筆者注記:ここで「ガタパーチャ電線」は「1 box gutta percha wires.」として『ペリー提督日本遠征記』原書の357頁下段のリストに、「and gutta percha wire.」として主任通訳官・ウィリアムスの日誌の131頁に出て来るが、林大学頭の記録『墨夷応接録』には「雷電傳信機一、連銅線副え」とあるのみで、ガタパーチャ電線に当たる記述は無い。贈られたガタパーチャ電線は最早失われてしまった様だが、こんな歴史の流れと開発当時の英国での呼び名を参考に、「海底ケーブル」としたのは筆者の判断である事を明記します。)

 日本からアメリカへの贈り物

アメリカ側からは日本への贈り物の目録と共に、アメリカ大統領の執務室寸法は間口40フィート奥行き50フィートであるからと、ホワイトハウスのこの執務室に備え付けるにふさわしい、日本製漆塗り家具類の希望一覧も提出された。箪笥類、テーブル類、椅子類、茶器類、室内装飾カーテンや椅子カバー用の最上の絹布、装飾品として並べる最上の焼き物や茶わんや皿類、等の希望であった。この他にも武器類、植物やその種、船や軍艦雛形、通用金銀銅銭等が希望されていた。

しかし大型家具の箪笥、テーブル、椅子などは直ぐ用意できる物では無いから、日本側の贈り物は小型の箱類や織物、漆塗りの食器などが中心であった。林大学頭の記録『墨夷応接録』による将軍よりの贈り物は以下の様な物である。同品でも夫々宛先により数量にはかなりの違いがあるが、貨幣や武器など細々した物を除く主な品々は、

大統領宛:硯箱、紙箱、書棚、文机、卓付銀花銅牛香炉(=銀の花模様入り銅製の牛型香炉・卓付)、合子筐(=香入れ)、卓付押花筒、暖爈(=火鉢)、紅光絹(=紅羽二重)、素光絹、花縐(ちじみ)紗、紅纈(しぼり)縐紗。

ペリー提督宛:硯箱、紙箱、紅光絹、素光絹、花縐紗、紅纈縐紗。

アダムス中佐宛:紅素光絹、紅纈縐紗、髹椀(=漆塗り椀)。

ポートマン蘭語通訳官宛:紅素光絹、紅纈縐紗、髹椀。

ウィリアムス主席通訳官宛:同三種。

ペリーの息子(提督書記官)宛:同三種。

蒸気車、電信機、その外諸工巧5人宛:紅纈縐紗、髹椀。

乗船総人数宛:米200俵、雞鶩(けいぼく=とり、あひる)300羽。

この外にも阿部伊勢守、牧野備前守、松平和泉守、松平伊賀守、久世大和守、内藤紀伊守など老中から柳條峽絹(柳の枝模様の絹織物)を老中6人の合計で65疋も贈っている。絹1疋は小幅(約 36cm幅)で22m程の長さと聞くから、アメリカ側の希望した「室内装飾カーテンや椅子カバー用の最上の絹布」に当たる物だった様だ。また、林大学頭、井戸対馬守、井沢美作守、鵜殿民部少輔、松崎道太郎など交渉委員からの贈り物は、硯箱、紙箱、美濃紙、五彩箋等の各種文房具、各種の盃、餚板(こうばん=祝儀の席で口取り料理を盛るひろぶた)、雨傘、箒などの日用品、紅綾、素綾などの織物、人勝(=人形細工)、竹織竹製品、瓷盌(しわん=陶製碗)、醤油、檪炭(くぬぎすみ)や花紋席(はなあやむしろ=花ござ)まであった。

安政1(1854)年2月26日の会談での冒頭、日本側からアメリカ側へ上記の贈り物が披露され、目録が渡された。その後の会談で日本側から、懸案の開港場は伊豆・下田港と箱館港の2港が提案されると、ペリー提督からは下田港は良く知らないので実際に調査したいとの返答があり、林大学頭はそれを「もっともだ」と受け入れた。この会談が済むと日本側の準備した伝統の相撲を披露したが、その前に一つの余興がおこなわれた。『墨夷応接録』にいわく、

今日、下され物の内に米200俵(5斗俵)(筆者注:米1斗は約15kg、この1俵は75kg)があるものを、相撲取り75人程が来て1人で2俵づつ担ぎ1町余の所を運び、その外色々俵で曲持ちをして見せたところ、ペリー、アダムス始め異人は皆々感心していた。その後稽古相撲も見せた。異人共も大勢で種々の調練をし、夕刻に皆々が退散した。

と書いている。75人もの関取を呼んで、日本の軍事力ならぬ人力を見せたのだ(筆者注:『渡来日記』には総員93人とある)。更に『亜墨理駕船渡来日記』に、この俵200俵を浜辺からアメリカ軍艦まで、アメリカ側が俵1つを2、3人がかりで小船に乗せて運んだ。その作業中に1人のアメリカ人が足を滑らせ、俵と共に海中に落ちてしまった。こんな風にアメリカ側は俵の扱いに慣れていなかったので、見かねた日本側の村方人足が積み入れを手伝って遣った様子を記録している。

明治になって米俵の1俵は4斗、60kgと統一されたが、林大学頭の記録にある様に「5斗俵」と特に断っているから、この1俵の重さは75kgであった。これを相撲取りは1人2俵づつ担いだから、1人で150kgを担ぎ100m程運んだ訳である。ちょうどよい準備運動だった様だ。江戸時代の初期・寛文9(1669)年の統一令により1升枡の寸法が制定された様だが、この林大学頭の記録を見る限り、1俵については、当時は時に4斗俵や5斗俵があった訳である。

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11/05/2020, (Original since 11/05/2020)