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History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

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タウンゼント・ハリスの「江戸開市」や「兵庫開港・大阪開市」に対する認識の変化

♦ カス国務長官への書翰 (万延1年6月15日、1860年8月1日)

ハリスは1858(安政4)年1月から2月にかけての蕃書調所での通商条約交渉で、あれほど日本側を恫喝し、なだめすかしながら合意を勝ち取り、下田、箱館、長崎、そして下田に代る神奈川に続く開港場を、「1860年1月1日から新潟、1863年1月1日から兵庫」と定め、開市場を、「1862年1月1日から江戸、1863年1月1日から大阪」と定めたが、その後2年半程も経った1860(万延1)年8月1日、次のような書翰を自国のルイス・カス国務長官に送っている。これは、大老・井伊直弼が水戸浪士に暗殺された4ヶ月ほどの後である。いわく、

江戸で締結した条約の第3条に、1862年1月1日から交易のため江戸市中に住む権利がアメリカ市民に与えられていますが、ここ何ヶ月にも渡りこの条項が私の懸念材料となり、心配の種だけでなく、苦悩にすらなってきています。
この都市の住民は、世界の如何なる都市とも大きく異なっています。その主要部分は世襲の大名、身分の高い侍、幕府の高級役人などで、夫々に大勢の家来が居ます。これらの、総て帯刀した家来たちの合計は非常に多くの人数に上り、30万人以上とも言われています。このクラスの侍たちの性格が重要問題で、何もする事がなく、彼らの多くは全くふしだらで、自分より下級と見れば傲慢になり、過激にふるまいます。徒党を組んで通りをノシ歩き、多くは酒が入り、常に帯刀し、すぐ違法行為に走るだけでなくその機会を探し回っています。
こんな彼らが外国人を見る目は、単にその主君の意見の反映に過ぎませんが、この主君たちの多くは江戸に外国人が入ってくることに反対で、その家来たちが我々に敵意を抱くのとほぼ同じようなものです。こんな現状から、交易のためアメリカ市民が江戸に入ってくると、非常に重大な問題が持ち上がるのではないかと云う大きな恐れを抱いています。・・・
江戸は商業都市でも工業都市でもなく、流入する商品は住民のためだけに確保され、そこから出荷される商品は何もありません。・・・
すでに出来上がったこの国との交易は、高額で利益に富む究極の姿になると思われますが、外国人と日本人の衝突が1回でも起れば、こんな望みある期待もひどい打撃を受け、ほぼ壊滅するでしょう。この条約で取決められた期間内に外国人が差別なくこの首都に住む権利は、最も遺憾な結果を引き起こし、期待を寄せる総ての人達に致命傷を与えるでしょう。・・・
イギリスとフランスの公使たちと頻繁に情報交換をしましたが、本件に関して合意に達しています。
我々の間では、夫々が各々の政府に書翰を送り、江戸の開市を1年延期すべく、時としての緊急事態に合わせた更新権限と共に自由裁量権の付与を申請すべきと合意しました。

ハリスはこの様に書き、カス国務長官に、自身がこの問題で日本政府と交渉をする時の自由裁量権付与を申請した。この書翰が何時ごろ国務省に着いたか定かではないが、1860年11月6日にはエイブラハム・リンカーンが第16代アメリカ合衆国大統領に選出され、ウィリアム・スーワードが新国務長官になっているから、政府の変わり目に当たったのだろう。本国からハリスには、何の返答もなかった。

♦ タウンゼント・ハリスと老中・安藤信正との問答 (万延1年9月18日、1860年10月31日)

上記のハリスの書翰からほぼ3ヶ月ほど経つ頃、外交を担当する老中・安藤信正と会ったハリスは、それまでに安藤から考慮を願いたいと言われていた開港・開市延期につき再度意見を求められた。次のような会話がある。いわく、

安藤: 我が国は封建制度であり、一つの政令を出し一挙に治めるという政治ではなく、、そのため一時に取り急ぎ取極めをするやり方では行き届かず、折り合わない。先般の会談の折に説明した件はどのように考慮されたか、分かりやすくご説明願いたい。

ハリス: 私の今の立場では、その件に関し何も約束はできないが、ここに居る限り、話の趣旨を自国政府に報告し、できるだけ都合の良い様に取り図るのが私の職務です。深く承知しては居ないが、開港以来不都合が起る基本は江戸から生じているように思います。例えば神奈川で殺人があったが、江戸から生じている。・・・
すでに条約談判の時、日本側代表者の方が固く断って打ち明けるに、役人中に不同意の者が居る等と言われ、また江戸の地では商売の利益が出る場所はなく、神奈川の商売だけで充分だと説諭された。しかしその時はその説に同意しなかったが、私も1ヵ年あまりも江戸に在留し、ようやく代表者の方の言われた事が虚説ではなかったと判明しました。こう自分で分かっていても条約変更の取り決めはできず、詳細を政府に取り次げるだけです。

安藤: そうかも知れないが、どうやって政府へ掛け合えばいいのだろうか。

ハリス: 今回の話は私からも政府へ連絡しますが、自国の外務宰相へ宛てた直々の書翰を出していただいて結構です。

この様に話し、通商条約の交渉時は、日本側代表だった井上清直と岩瀬忠震の説を信じなかったと告白している。そして交渉を始めるにあたり、政府から政府への書翰から始める事を示唆したのだ。

♦ タウンゼント・ハリスへの権限委譲

安藤信正とこんな会話があった後の約3ヶ月も経つ頃、万延1年12月4日即ち1861年1月14日の夕刻、ハリスが息子とも思い頼りにしていた通訳のヘンリー・ヒュースケンが、芝・赤羽接遇所から公使館の善福寺へ帰る途中、芝・薪河岸の中の橋付近で攘夷派の薩摩藩士たちに殺害された。この事件は、それまで独自外交を展開し、時には比較的日本の利益をも考え判断してきたハリスを痛く傷つけた。兎に角、早急に犯人を探し出し処罰すべく幕府を激しく督促したが、こんなに苦労を共にしたヒュースケンの命を金に換算などできないと賠償金交渉までは踏み込まず、他の公使たちとも一線を隔した独自方針を保持し続けた。

文久1年3月23日即ち1861年5月2日、幕府は将軍・徳川家茂の「七年間の両都・両港の開市・開港の延期を要求する直書」を条約各国元首宛に送った。ヒュースケンの代わりに通訳官に採用したポートマンにこれを翻訳させ、国務省に送る5月8日付けの書翰の中で、ハリスは、再度の自由裁量権の付与を申請した。いわく、

去る1860年8月1日付けの第26号書翰に、条約に定められた江戸の開市を延期する事は思慮分別のある方法だと云う私の意見を述べてありますが、それ以降も私の見解は不変で、同書翰の再吟味をお願いするものであります。
今まで大阪に行く事ができず、従って、そこに外国人が永住する事に関し実際どんな感情を持たれるのか定かではありません。しかしそこは、、実際日本の精神的君主である帝が住む土地であることから「天」あるいは「聖地」と日本人に呼ばれる地方で、恐らく、外国人がその地方に住む事は日本人の一部から嫌われるでしょう。兵庫は単に大阪の港に当たり、その開港は大阪の状況次第ですが、新潟は大した問題ではありません。・・・
日米両国の国益のため他国外交官と歩調を合わせ最善の活動ができるよう、日本に在留するアメリカ外交官に自由裁量権を与えられん事を提案申し上げます。

これに対しスーワード国務長官は、「大統領の見解は開港・開市の延期は認められず、日本政府からヒュースケンの殺害に関し満足のいく回答と在留外国人の安全を保障する回答がなければ、条約国の軍事力行使も辞さない構えを示すべきだ、と云うものである。しかし大統領のハリスに対する厚い信頼のため、大統領は自身の意見を撤回し、ハリスに自由裁量権を付与した」との連絡をよこした。更にしかし、アメリカの公式な外交職務を遂行中のヒュースケンの殺害に対し、日本側からの目に見える解決が獲得できるまでは、どんな譲歩もするなと云う命令も同時にあった。

上述のように、ヒュースケンの命を金に換算できないと賠償金交渉を逡巡してきたハリスだったが、スーワード国務長官の指示を受けるとすぐ安藤・久世という幕閣と直接交渉を成立させ、文久1年11月13日即ち1861年12月14日、幕府は早速合意した1万ドルの賠償金を支払いこの問題に終止符を打ち、ハリスは江戸開市延期交渉の自由裁量権を手に入れた。この日付けはしかし、条約で取決めた江戸開市日のたった17日前という際どさだった。ハリスはすかさずイギリス公使・オールコックやフランスのベルクール公使などと連携し、江戸開市の延期を自国民に通達し、オランダの総領事も将軍の延期要請直書が出たからと、すでに半年の延期を仮通達していた。このため条約4カ国は、江戸市内での更なる混乱発生を抑えることができたようだ。

特に興味深い事は、ヒュースケンの殺害賠償金・1万ドルをハリスが安藤・久世という幕閣と直接交渉し成立させた直後にオールコックに送った書翰で、「我が政府から、江戸・大阪の開市と兵庫・新潟の開港を1867年1月1日まで延期する自由裁量権を与えられた」と通知している事実だ。これは5ヵ年の延期に当たるが、遣欧使節がロンドン覚書に調印した「5ヵ年」という開市・開港延期は、すでにこの時点で、ハリスとオールコックとの間に「5ヵ年」という腹案ができつつあったように見える。

以上の如くアメリカ政府は、ハリスに開港・開市の延期交渉決定権を付与したが、これが、幕府がヨーロッパには遣欧使節を派遣し開港・開市の延期を交渉したが、アメリカには派遣しなかった理由である。こうして正式にハリスがアメリカ政府から江戸開市延期交渉の自由裁量権を得たために、仮の延期が行われ、日本の遣欧使節が最終的にイギリス、フランス、オランダ、ロシアなどと合意した江戸・大阪・兵庫・新潟の開市・開港の5ヵ年の延期は、後にアメリカもこれを正式に認めている。

最終的なロンドン覚書上の「5ヵ年」延期を正確に言えば、「右条約の第三ヶ条中の事を施行するを、千八百六十三年第一月一日より算し、五年の間延ばす事を承諾せんと預定せり」と記述される如く、兵庫・大阪の開港・開市が5ヵ年の延期であった。従ってこれは、江戸開市は原条約から6ヵ年の延期になり、その後の徳川慶喜の大政奉還にからむゴタゴタで更に4ヶ月延期したから、実質6年と4ヶ月もの延期になったわけだ。また実際には、その直後の戊辰戦争で江戸は明治政府に掌握されたから、旧幕府が鉄砲洲に準備し始めた「江戸運上所」を引継ぎ、明治政府が新しく築地外国掛を任命しやっと業務を始めたのが明治1年5月6日、即ち1868年6月25日だ。これは、ほぼ6年7ヶ月の遅れだった。

上述の通りハリスは、「私も1ヵ年あまりも江戸に在留し、ようやく代表者の方の言われた事が虚説ではなかったと判明しました」と告白しているように、ある意味で特殊な首府・江戸の開市は、日本の諸問題を凝縮している都市の開市だったのだ。

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08/05/2011