上陸ボート上に設置したホウィッツァー砲
ペリー提督は時に応じ、日本の皇帝や交渉全権代表に対し敬意を表する目的で、数十発の祝砲を撃たせた。こんな中で軍艦の大砲も撃ったが、艦載する上陸ボート上に設置したホウィッツァー砲(ホイツァー砲とも)も使った。日本側代表者たちはこの使い勝手の良いホウィッツァー砲をぜひ譲ってもらいたいと、ペリー提督に繰り返し要望した。
♦ ペリー提督から海軍長官宛書簡
(典拠:33d Congress, 2d Session. Senate. Ex. Doc. No. 34.)
日本側代表者たちは、即役立ちそうなアメリカの艦載上陸ボートに設置したホウィッツァー砲(ホイツァー砲とも)と台車3組をぜひ譲って貰いたいとペリー提督に繰り返し要請したが、和親条約締結の4日後、これを本国に伝えるペリー提督の書簡いわく、
日本、江戸湾、神奈川沖停泊、合衆国旗艦・ポーハタン号上にて
1854年4月4日
海軍長官閣下、
拝啓、日本の交渉代表者から唯一援助を要請された事は、艦隊に装備されているものと同様に造られた3組づつの真鍮製ホウィッツアー砲と艦載ボートの提供であります。この提供要請は繰り返し行われました。
本官は、ボートと大砲は軍艦搭載装備の一部であり、分離することは出来ない。しかしサラトガ号を(筆者注:条約書を届けるため)帰国させるので、思い切ってサラトガ号の大砲を提供し、他の2組は次の好機会を取らえ日本に送る様我が政府に託します、と回答しました。
如何に彼らが喜んだか、あるいは、こんな小さい好意がこの国に来るであろう我が市民に対する恩恵として戻って来るかどうか等とは述べる必要もありません。従って本官は、大砲と全装備の車付き台車等々を日本に送るべく、緊急に要請するものであります。
この贈り物は将来、日本帝国政府の全面的な信頼の下に有利な影響力を受け、百倍にもなって戻って来ましょう。
今回の我々の交渉を通じ醸成されて来た親切と友好の感情は、全面的に育成される事こそ非常に願わしいものであります。
大いなる尊敬を込めて、敬具。
M・C・ペリー
東インド・支那・日本海、合衆国海軍艦隊・司令官
と言うものである。日本側全権の中には現職の浦賀奉行・伊沢美作守などがいたから海防の窮状を良く知っていて、手軽に移動でき、水陸両用で使えるこのホウィッツァー砲(ホイツァー砲とも)は喉から手が出るほど欲しかった物だ。残りの2組が何時日本に着いたか筆者には不明ながら、この後ペリー艦隊が下田に移動し隊列を組んで上陸する時も、何台もの車付き台車に乗せたホウィッツァー砲が了仙寺へ向かう行列に加わった。更にハイネの描いた了仙寺境内での演習のスケッチにも、演習中の4台の台車に乗せたホウィッツァー砲が描かれているから、見物した多くの日本人の知るところとなった。
♦ アメリカが提供した真鍮製12パウンダー・ボート・ホウィッツァー砲
レプリカ製造のケンタッキー州 Steen Cannons 社、
真鍮製12パウンダー・ボート・ホウィッツァー砲。
後方に車付き台車が見える。
Image credit: Courtesy of "Steen Cannons".
http://steencannons.com/cannons/
dahlgren-light-12-pounder-boat-howitzer/
ペリー艦隊の主席通訳官・ウィリアムスの日誌によれば、和親条約調印後の1854(安政1)年4月6日にペリー提督は横浜村を散策したが、その時に日本側が要請したこのボートに設置したホウィッツァー砲1式と台車2組が日本側に手渡された。役人は大喜びし、「火薬と弾丸は何所にありますか」、「早速撃って見せて下さい」と催促したと言う。この様に日本側の言う「バッテイラ」即ちボートに積んで発射もでき、野戦砲としても使えるホウィッツァー砲は、日本で直ぐにも役立つ優秀な武器であった。
ペリー提督から送られたこのホウィッツァー砲は安政1年3月12日、即ち1854年4月9日、ペリー艦隊の砲手・ウィリアムスが試射して見せ、浦賀与力・合原操藏にその操作方法を教授している。また井戸対馬守と伊沢美作守の処置伺い書による阿部伊勢守の命で、ホウィッツァー砲と台車はその後、御鉄砲玉薬奉行に提出されている。
ペリー提督の日本遠征時にミシシッピー号に乗り組んでいたウィリアム・スピーデン・ジュニアの日誌(William Speiden, Jr., Journals, 1852-1855, Library of Congress)の1854年4月6日の記述によれば、この艦載ボートと台車を組にして日本側に提供したホウィッツァー砲は「12パウンダー砲」、即ち、内径:11.7cm、砲身長(初期の "12-pdr small" の23門):82.6cm、砲身重量:136s の真鍮製砲であった。これは通常の弾丸(実体弾)も榴弾(破裂弾或いは炸裂弾)も発射できるもので、筆者は実測データを知らないが、800mから1,000m程の射程だと聞く。
これはペリー提督も参戦した米墨戦争当時に軍艦から行った上陸戦で、上陸する兵士を援護する使い勝手の良い軽量なボート砲やそのまま更に深く進攻出来る野戦砲が無かった経験を活かし、陸軍野戦砲として使われていたホウィッツァー砲をボート上にでも車付き台車上にでも簡単に着装できる様に、1849年、当時のダールグレン海軍大尉(後に海軍少将)が改良した物だったと言う。上の写真からも分かるが、この海軍仕様の砲身には通常付ける「砲耳」が無い。
♦ 将軍・徳川家定や老中・阿部伊勢守が「大砲船打ち」を見分
黒船に乗ったペリー提督が最初に来航して国書を渡して去った約3ヵ月程後の嘉永6(1853)年8月、幕閣は江川太郎左衛門等に内海台場建設を命じ、9月には国中の大船建造の禁を解き、全国に洋式火技奨励の布達を出し、オランダカピタン・クルチウスに軍艦や鉄砲を発注したりと急遽防衛策を打ち出した。こんな流れの中で幕府の下級武士の中にも、安政1(1854)年4月、自分は小船に積んだ大砲を操る「船打ち技」の免許皆伝者だと名乗り出て、国防に役立たせようと建造と稽古を願い出て許される者まで現れた記録が、東京大学史料編纂所のデータベースにある。
また上記データベースによれば、老中・阿部伊勢守が安政1(1854)年8月18日に浜御殿の庭先へ「大砲船打ち」の演習を見分に出かけ、その7日後には同様に将軍・徳川家定までも大砲船打ちを見に浜御殿へ出かけている。将軍はじめ老中までわざわざ「大砲船打ち」を見に出かけたのだから、全く異例の出来事である。浜御殿の庭先から沖へ2,700m、左右へ夫々330mの区域を通船差し止めとし実弾演習をした。これは明らかに、ペリー提督から送られたホウィッツァー砲をボート上に据えて操作する「ボート・ホウィッツァー砲」に触発された演習であった。
将軍・家定の8月25日の検閲時の記録では、鉄砲方・井上左太夫の指揮の下に、組与力や手付等が中型押し送船7艘に組み込んだ大砲を乗せ、押し送り船からおよそ1.1q 離れて直径2.7m の黒丸を入れた5.4m 四方の幕を置き、これを標的に実弾を発射した。この7艘の押し送り船には夫々1挺ずつの1貫目(約8.3ポンド)大砲、、5貫目(約42ポンド)大砲、10貫目(約82.5ポンド)大砲を装着してあり、1貫目大砲では通常弾を撃ち、5貫目大砲と10貫目大砲では破裂弾を撃った。その他に大型押し送り船や中型押し送り船に複数の大砲を組み込んだ物の実射も披露されている。この他にも、数多くの大砲や鉄砲の演習があった。これはペリー提督と日米和親条約を結んだ後たった5ヵ月後の事である。こんな記録を読むと、もっと早くから組織的に大船建造の禁を解き、洋式火技の奨励をして海軍の育成をしていれば、ここまでアメリカに「畏怖の念」による譲歩を迫られる事も無かった筈であるが、勿論歴史的事実を変えることは出来ない。