日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ユリウス・ハインリヒ・クラプロート翻訳の「三國通覧圖説」

ペリー提督の読んだフランス語版「三國通覧圖説」は、ドイツ出身の言語学者・東洋学者で中国語や満州語以外にもコーカサス地方の言語やチベット語にまで興味を示し、パリで権威者になったユリウス・ハインリヒ・クラプロートの翻訳である。そんな活動の中でクラプロートは、ロシアのイルクーツクで、元日本人漂流者でロシアに帰化した日本語学校教師の新蔵から日本語を学び、林子平の書いた「三國通覧圖説」に自身で調査した補強資料も入れ、フランス語に訳したのだ。

一方、仙台藩士であった林子平は日本で良く知られているが、「三國通覧圖説」や「海国兵談」を著わし、当時積極的になっていたロシアの樺太やカムチャッカからの南下政策とそれに対処できていない日本の国防に警鐘を鳴らした。しかし不幸にも松平定信の処士横議の嫌疑を受け、1792(寛政4)年、両出版本の発禁処分、版木押収と蟄居に処され、失意の一生を終えた。

最終的に自身の所持に帰した「三國通覧圖説」を翻訳したクラプロートは、下記にその翻訳の一部を記載する如く、1832年、『三國通覧圖説 San Kokf Tsou Ran To Sets』と題し翻訳と追加情報を入れたフランス語の本を発行した。
日本書籍の収集で知られる出島商館長・ティチングは、1779(安永8)年11月から1784(天明4)年11月まで3回に渡り長崎に滞在した。「三國通覧圖説」の出版日は、幕府奥医師・蘭学者の桂川甫周の序と共に巻末に「天明丙午夏 東都書林 室町三町目 湏原屋市兵衛梓」とあるから、これは1786年即ち天明6年の夏の事であり、ティチングが日本を去った後の出版である。多くの日本書籍を収集してヨーロッパに持帰ったティチングは、林子平の「三國通覧圖説」の原本をも入手していたとすれば、ティチングがバタビアやインドに居る間に日本の誰からどのようにして入手したのか、残念ながら本サイトの筆者はその確証をまだ知らないが、末尾に書く通り、幾つかの可能性が有る。

 『三國通覧圖説 San Kokf Tsou Ran To Sets, ou Apercu general des trois royaumes』
(典拠:『三國通覧圖説 San Kokf Tsou Ran To Sets, ou Apercu general des trois royaumes』, Traduit de L'Original Japonais-Chinors, par Mr. J. Klaproth., Paris: Printed for the Oriental Translation Fund of Great Britain and Ireland. 1832.

クラプロートがフランス語に翻訳して出版した『三國通覧圖説 San Kokf Tsou Ran To Sets』の中の、「翻訳者の前書き」と「無人島の説明」部分の日本語訳は次の通りである。

♠ 翻訳者〔クラプロート〕の前書き
(〔 〕内は本サイト筆者のコメント)

  日本人の林子平(Rinsifee)により書かれた日本と隣接する『三国通覧図説 (Apercu, general des trois Royaumes,)』と題するこの著作は、1786年に江戸で出版された。著者は自国語で書いているが、漢字の中に、中国語の表意文字だけでは表すことが出来ない、日本語構造を再構築する ひらがな(Fira kana〔林子平の原著にはカタカナが使われている〕)と呼ばれる表音文字が点在する文体で書かれている。しかしこの文体は、日本人には困難解消になるが、日本語よりは中国語に馴れたヨーロッパ人には困難になる。しかしながら今、私が1805年に原本を入手して以来、シベリアのイルクーツクに滞在時、詳しい出自は不明ながらニコラス・コロティージン(Nicolas Kolotyghin)と名乗る伊勢(Ize)出身の新蔵(Sin sou)という名の日本人移住者に助言を求める機会があり、私はその大部分を制覇し理解する事が出来たとあえて言いたい。この男は充分な教育を受けていなかったが、それでも私にとって彼の自国語に関しては全てが役立ったが、彼は日本で良く使われる漢字さえも少ししか知らず、同音の漢字を頻繁に混同した。
  林子平は朝鮮の概説からはじめているが、それを否定はできないまでも全く貧弱である。この国はヨーロッパに少ししか知られていないので、満州族時代に出版された『Tai thsing y thung tchi』というタイトルの中国の偉大な地理書に記載されてはいるが、私は日本人の著者により説明を加えるのが適切だと思う。その構成は殆どの中国の地理書と同様に、主として歴史的なものである。その中で、彼等の国が存在し始めて以来文明が中断されれた事がなく、その結果、政治地理に関する伝統が、何世紀にもわたって続いた野蛮さでほとんど全ての古い文献を破壊してしまったヨーロッパよりもはるかに良く保存されている。祖国で起こったすべての事を記録するという中国人の習慣は、歴史的概念の保存に非常に有利であるため、年代記に記載されている全ての場所の正確な位置を決定するのは簡単である。一言で言えば、中国の比較地理学はローマ帝国やヨーロッパ一般の比較地理学よりも強固な基盤に基づいて確立されている。
  中国の体系的な手法は、おそらくヨーロッパの読者にとって朝鮮に関するこの作品の内容をつまらないものにするだろうが、地理的、地形的な作品は心地よい時間を持ったり、想像力をたくましくするように構成されているわけではない。
  私は、琉球諸島(iles de Riou kiou)、あるいは林子平の言う琉球(Lieou khieou)の説明に少なからぬ補足説明を加える事もできたが、それは、私の『アジアに関する研究報告(Memoires relatifs a l'Asie)』の第2巻で述べた主題の繰り返しになってしまう。 日本側の説明は非常に簡潔ではあるが、バジル・ホール(Basile Hall)船長の報告によって疑問視され、更にその一部はブロッサム(Blossom)号の遠征によってさえ明らかにされなかった幾つかの点について、私たちへの説明に事欠かない。とりわけこの著述は、琉球の文明は中国というよりむしろ日本的なものであること、住民は中国語の表意文字も理解しているものの、自身の言葉を書くのに通常は日本語の表音文字を使用していることを示している。
  私には、林子平の本の中で最も興味深い部分は、日本の北方に位置し、アイヌ人(Ainos)または千島人(Kuriles)が住んでいる大きな蝦夷島の説明であるように思える。彼等は自分たちで名前を付けた列島に住むだけでなく、ヨーロッパではサハリン(Sakhalien)という不適切な名前で知られている大きなタライカイ(Taraikai)島や、カムチャツカ(Kamchatka)の南端にも住んでいる。
  イルクーツク滞在中、私は蝦夷に関して他の2つの日本関係文書を参照する機会があり、その1つは1720〔享保5〕年に書かれ、もう1つは1762〔宝暦12〕年に書かれたものである。私はそれらから異なる抜粋を作成し、林子平の文章の適切な箇所に挿入した。ただし、この著者の文章と区別するため、この部分を2つの角括弧で囲むという予防措置を講じた。 林子平はその著作の中で、蝦夷のアイヌ人の言語の中の数字の読みだけを記述している。 私はそれらを、蝦夷やタライカイ島で話されているこの民族の慣用語と、ロシア人によってクリルスカヤ・ロパトカ(Kourilskaya lopatka)と呼ばれるカムチャツカ南端の千島列島の慣用語の相対語彙に置き換えた。 後者の原稿は有名なステラー(Steller)の手になるもので、イルクーツクで、シベリアと東アジアの人々に関する多くの重要な情報を提供してもらった州顧問官・クランツ(Kranz)氏から私に伝えられた。
  無人島・Mou nin sima(Bonin sima)あるいは無人島の記述については、私の『アジアに関する研究報告』の第2巻で既に引用したものであるが、ビーチー(Beechy)船長の発見と完全には一致していないようである。したがって、この海洋探検家が訪れた諸島は、我が著者が説明したものと同じではないと推定される。 ただし、そこからそれほど遠くないはずではある。 更には、我々はこれらの島々の位置を日本の地図に従って判断すべきではなく、ましてや不釣り合いに大きいアロースミス(Arrowsmith)のアジアの地図に従って判断すべきでもない。 林子平が発行した著書によると、これらの島の中で最大のものは一周わずか15里しかなく、イギリスマイルでおよそ47.5マイルであるが、アロースミスの地図ではその周囲は少なくとも140マイルはある。 日本地図に載る村や寺院は最早存在せず、放棄された島かも知れない。 日本の神道信仰(la croyance de Sinto)の寺院であることも知っておくべきで、ケンペル(Kampfer)の作品の外観から納得できるように、通常は板で簡素に造られた小屋に過ぎない。
          1832年5月12日、パリ。
                     クラプロート。

♠ 無人島の説明
(この作品にはこれらの島々の地図が付属している)

(〔 〕内は本サイト筆者のコメント)

  これら島々の本来の名前は、小笠原島 O gasa wara simaであるが、通常は無人島 Mou nin sima (Won jin tao)、つまり人間のいない島と呼ばれており、私〔林子平〕の著述で採用したのはこの名前である。 小笠原島あるいは小笠原諸島の名前は、最初に島を訪れ、地図を作成した航海者から命名されたものである。 これは、新大陸の南部が、200年前にこの地を発見したイタリア人のメガラニウスの名前にちなんでメガラニアと呼ばれた事と同じである。
  無人島(Mou nin sima)諸島は伊豆(Idzou)の南西270里に位置する。伊豆の国の下田(Simota)から三宅(Miyake)島まで13里、そこから新島(Sin sima)まで7里、新島から三倉(Mi koura〔現用:御蔵〕)島まで5里〔この間の林子平の記述は、三宅島と新島が実際の位置とは反対に記述されている〕、そこから八丈(Fa tsio, or Fa tcho)島まで41里、最終的に後者から無人島の最北端まで180里、最南端までは200里である。
  八丈と無人島の間の海には他に5つの島があり、その内の1つは裸の岩である。 三倉島と八丈島の間には、黒瀬川つまり黒い深淵の流れと呼ばれる非常に強い海流がある。 この海流は非常に速いため、航海者たちは、この海で通過するのが最も困難な部分であると考えている。 これは地図上で見ることができる。
  この群島を構成する大小の島々や岩々の数は89ある。島々の中で最大のものは2つの大きな島で、4つの中規模の島、そして4つの小さな島がある。これら10の島々は広く、草や木に覆われている。平地は住むには快適な場所である。他については、70個の急峻な岩場であり、居住の可能性はまだ十分に調査されていない。
  この群島は北緯27度に位置する。そこの気候は暑く、高い山々の間に谷をつくり、小川によって潤され、非常に肥沃であるため、野菜、小麦、モロコシ、あらゆる種類の穀物、サトウキビを生産することができよう。ナンキンハゼまたはハゼの木(croton sebiferum) 、またワックス・ツリーと思われるが、育成できる。そこでは良い漁獲も出来、良い利益になろう。
  この島々には多くの植物や木々が自生するが、四足獣はほとんど見られない。 太くて人がかかえられない程の大木で、高さはしばしば30中国尋(8フィート) にもなる大木がある。そこの木は硬くて美しい。今でも棕櫚(Tsoung liu、または Chanxœrops Excelsa)に似た非常に高い木を見ることができ、ヤシの木、中国語で「Pe louan tsu」と呼ばれるビンロウジュのなる木、〔原本にある白欒子の翻訳は無い〕、「Katsiran」、紫檀、エノキ、クスノキ、ヤマイチジク、葉がツタに似た高木、シナモンの木、桑の木、等々がある。
  植物の中には「San ki rei 〔山皈来〕」と呼ばれる「Smilax china」、「Assa ghiou kwa」と呼ばれ薬草の「To ki」、等々がある。
  鳥類に関しては、さまざまな種類のオウム類、鵜、ヤマウズラ、白いカモメに似ているが体長3フィートにもなる鳥などが見られる。 これらの鳥はどれもおとなしく、手で捕まえることができる。
  この群島の鉱物類の主な物は、明礬、緑礬、さまざまな色石、化石、等々がある。
  海にはクジラ、大海老、巨大な貝、そして「sea gall・海胆」と呼ぶウニが生息している。海は一般に多様な生産物に富んでいる。
  延宝3年(1675年)、 3人の長崎住民である島谷市左衛門(Simaye Saghemon)、中尾庄左衛門(Biso Saghemon)、島谷太郎左衛門(Simaye dairo Saghemon)は皆で海路で伊豆の国へ旅立ったが、彼等は中国人棟梁が造った大型ジャンクに乗っていた。 天文と地理に精通したこの3人には、小網町(la petite rue des Filets)に家を構えていた江戸港の初代海軍大工の八兵衛(Fatobe)が同行した。 彼らの船には30人の船員が乗組んでいた。 帝国海軍のパスポートを取得した後、彼らは4月5日に下田港を出港し、八丈島に向かった。 そこから彼らは南東に航海し、80の群島を発見した。 彼らは地図と正確な説明を作成したが、そこには航海状況、気候、列島の産物に関する珍しくて詳しい記載がある。彼らは同年の6月20日に下田に戻り、そこで島谷(Simaye)はその旅の記録を出版した。
  この著者が三倉島と八丈島の間にある急速な黒瀬川の流れについて全く言及していないことは注目に値する。 その幅は20町(matsi)を超え、東から西まで約100里を猛スピードで流れる。 この流れが夏と秋の方が冬と春よりそれほど弱くなければ、この省略は驚くべきものである。 島谷が無人島に行く時、4月に続く閏4月初旬にそこを通り過ぎ、6月下旬に戻って来た時、彼は海流の流れがそれほど強くないことに気付いたに違いなく、この危険な水路に注意を払わなかったのだ。
  80の島々のうち最大の島は一周15里ある。従って、それは壱峻島(Yki)の一周とほぼ同じである。他の島は一周10里あり天草島(Amakousa (Tian thsao))と同じ大きさである。 この2つ以外にも更に8つあり、一周2から6、7里である。 これら10島には〔原本の ”湊あり” が翻訳から抜けている〕居住可能な平坦な土地があり、穀物栽培にも適している。地理的な位置から結論付けられるように、気候は温暖で耕作に有利である。 様々な貴重な産物もある。残りの70の小島は何も生み出さないただの険しい岩の山である。
  A.ここから次のB.まで〕強制労働宣告を受けた泥棒たち移民がこれらの島々に送られた。 彼らはそこで土地を耕し、農園を置いた。 彼らは村に集まり、全国の他の地方から同じ者たちが集められた。B. この間、原本と内容が大きく違う。クラプロートは八丈島の情報を入れたのか〕 我々はこれらの島に行き、同じ年にその産物を持ち帰ることができる。 こうして容易に商業関係が確立され、そこから得られる利益は多大なものとなる。 それは明らかである。
  安永年代(1771年から1780年まで)、私〔林子平〕は任務を受け肥前(Fisen)に送られた。〔クラプロートは ”鎮台” と述べる記述を公職の出張と捉えたのか〕 そこで私〔林子平〕はアーレント・ヴェルレ・フェイト(Aarend Werle Veit)と呼ぶオランダ人に会ったが、地理書(Ze o ga ra fi)をくれた。その中に、日本の南東200里に位置し、著者がウースト・エイランド(Woest Eiland)と呼んでいる島々について言及している。 ウースト(Woest)という言葉は砂漠、エイランド(原文ではエーランド(yeirand)となっている)は島を意味する。 彼によると、これらの島々に人は住んでいないが、数種のハーブや木々が生息している。 日本はこれらの島々の一つに植民地を設立し、そこで穀物やその他の産物を育成できる。航行距離の長さにかかわらず、この計画は役立つ。オランダの商会 (Oran konfania) にとっては、島の所有の利益は非常に少く、それは遠過ぎて死ぬには小さすぎる。
  塾考に値するこんな意見を報告する必要があると思って記述し、無人島諸島について私〔林子平〕が言いたかった事を終わる。


1853年6月25日付けで那覇から海軍長官へ宛てたペリー提督の小笠原諸島・父島訪問時の報告書簡は、上院文書「33d Congress, 2d Session. Senate. Ex. Doc. No. 34.」のP.36からP.38に載っているが、この中でペリー提督は、クラプロートの翻訳した「三國通覧圖説」の小笠原島に関する部分のほゞ全てを引用し掲載している。
以上、クラプロートの翻訳書のフランス語から日本語への翻訳は、ペリー提督の小笠原島調査に関する件を述べる目的から、『三國通覧圖説 San Kokf Tsou Ran To Sets, ou Apercu general des trois royaumes』中の「序論」「著者の序文」「朝鮮」「琉球」「蝦夷」その他、上記2項目以外の翻訳は省略した。
パリの国立図書館の写本目録に「Alphabets septsyllabaires」と題するものが有り、これは江戸時代の寺子屋などでよく使われた「七ツいろは」であるという。そこにクラプロートの記述とおぼしき「予はシベリアに於てこれを得、日本人ニコラウス・コロチキンによりて通読卒業せり、1806年」とあるという〔『南蛮広記 続、新村出著』。「七ツいろは」は江戸時代よく手習いなどに使われ、平仮名や片仮名、万葉仮名など七つの書体に書き分けた いろは歌である。クラプロートは新蔵からこんな手習い本で「いろは」を習い、日本を訪れた事も無いのに日本語の読みかたを完全にマスターしていたのだ。以上のフランス語への翻訳と林子平の原本を見比べて、クラプロート恐るべしと思うのは、本サイトの筆者だけであろうか。

 「三國通覧圖説」はどの様にしてクラプロートの手に入ったのか

ティチングは、林子平の著書に序を書き、「新製地球萬国圖説」と題する地理書の著述もある桂川甫周を通じ「三國通覧圖説」を入手したとする記述も時に見るが、残念ながら本サイトの筆者はその確証を知らない。

本サイト筆者のフランス語の翻訳が正しければ、上記の「翻訳者〔クラプロート〕の前書き」にある如く「私が1805年に原本を入手して以来、シベリアのイルクーツクに滞在時・・・」という記述から考え、クラプロートがイルクーツクで入手した様に解釈もできる。若しそうなら、大黒屋光太夫や新蔵たちが「七ツいろは」等と共に持っていたのだろうか。しかし光太夫の伊勢出港は「三國通覧圖説」の発行より2年以上も早いから、これはない。
ティチングは最後に出島商館長を務め1784年の暮れに日本を去り、バタヴィアやインドでの勤務の後に1794年に清国大使を務めた。その後1795年に本国に帰国し、1812年2月にパリで没している。以上から考えれば、林子平の「三国通覧図説」がヨーロッパでクラプロートの手に渡ったのなら1795年以降1805年の間である。そこで本サイトの筆者は、林子平の「三國通覧圖説」がどの様な経緯で誰の手によってティチングに届けられその後クラプロートが入手したのか。あるいはまた1805年、学術隊長・ポトツキ伯爵の好意で中国派遣隊員になり中国へ派遣された際、クラプロートがイルクーツクへの旅の途中何処かで、あるいは古くからの国境交易地であるイルクーツクで入手したのか、その確証を知りたいところである。長崎には清国からの貿易船が毎年来ていたから、中国経由の可能性も大いにある。

当時ティチングからヨーロッパのオランダ語の地理書を入手し、「欧羅巴総論、ポルトガル、イスパニア、等々」に分けて記述し、「地球、世界ハ其カタチ一ツノ鞠ノ如シ、太陽ヲ中心トシテコレヲ廻リ・・・」と誰にでも読めそうな「泰西輿地圖説」と題するヨーロッパに関する地理書を著わした福知山藩主・朽木昌綱がティチングに送った可能性もあろう。朽木昌綱は藩主になる前から熱心にオランダ語を学び、出島商館長・ティチングと交流し、藩主に就任後も日本を離れたティチングにオランダ語で書いた書翰を送っている。
離日後のティチングは多くの日本人交流者からオランダ語で書いた書簡を貰い、またオランダ語の書簡を送ってもいる。そんな人たちは朽木昌綱をはじめとして、蘭語通詞の茂節右衛門、西吉郎平、楢林重兵衛、堀門十郎、医者・蘭学者の中川順庵、蘭語通詞の名村勝右衛門、名村元次郎、本木栄之進、今村金兵衛、西敬右衛門、医者・蘭学者の桂川甫周、名前不詳の蘭語通詞、町年寄筆頭の後藤惣左衛門、蘭語通詞・蘭方医の吉雄幸作(幸左衛門)、等がいる。ティチングは離日後も、現存する書翰だけで見ても15人にも及ぶ程の日本人と文通していたのだ。("The Private Correspondence of Isaac Titsingh, Vol. I & II", Frank Lequin.
本サイトの筆者は現存するこれ等の書翰の中の5、6通しか理解できていないが、更に理解を深め、将来何処かでヒントが見つかる事を期待している。

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03/10/2024, (Original since 03/10/2024)