日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

幕府のパリ約定破棄

♦ 4ヵ国公使への「パリ約定破棄」通告

本文に書いたごとく、元治1(1864)年7月22日の横浜鎖港談判使節・池田筑後守一行の突然の帰国は、幕府のみならず外国公使たち全てに驚愕を与えた。帰国した池田長発(いけだながおき)、河津祐邦(かわづすけくに)、河田煕(かわだひろむ)の三使節は直ちに報告書を幕府に提出し、関門海峡でのフランス軍艦・キエンシャン号への砲撃賠償金として3ヵ月後に14万ドルを支払い、幕府はフランス海軍と共同してでも関門海峡の安全航行を確立し、関税率を引き下るという 「パリ約定」 なるものに調印して来た事が報告された。また。フランス陸軍士官アンリ・カミュの遺族には、遺族扶助金として3万5千ドルを即金で支払ったことが報告された。更に、見て来た通りの海外の驚くべき発展を説明し、そんな中での鎖港の不可を論じたのだ。更に日本から欧米への公使派遣、各国との締盟、海外留学生の派遣、欧米新聞社との通信の交換、日本人の海外渡航免許発行の必要性等をも提言した。これは当初幕府が与えた使命と180度異なるもので、少しでも横浜鎖港に向かう糸口でもつかんで来る事を期待していた幕閣は、緊急協議の後、池田長発等使節一行に「使命不履行」の罪で即刻の隠居蟄居、逼塞、閉門等を申付けた。

長州による関門海峡の封鎖を実力で解放すべく4ヵ国連合艦隊を出発させる直前での、日本使節の突然の帰国に不信を抱く4ヵ国公使たちは、翌日夫々に幕府に状況説明を求めた。そこで幕府は7月24日、各公使へ「パリ約定破棄」を通告した。アメリカのプルーイン公使に宛てた通告書いわく、

亜墨利加合衆國ミニストルレシデント
エキセレンシー          
ロヘルトエッチプライン 江

貴国第八月十九日附けの書簡落手。云々申越され趣その意を了せり。然る處右契約書の意によって処置せるときは國乱忽ち目前に起り、遂に両國和親の破れに至るは必定なれば、右等縷々の事情は佛國ミニストルへ申入、約書の趣廃棄せんとする事に至れり。その段心得られ度、返書斯くの如くに候。拝具。謹言。
 元治元年七月二十四日
水野和泉守 花押

この様に幕府は時を移さず、パリ約定破棄通告を4ヵ国公使に送ったのだ。

♦ プルーイン公使の国務長官宛て報告書
典拠:Papers Relating to Foreign Affairs, Accompanying the Annual Message of the President to the Second Session Thirty-eighth Congress, Part III. Washington: Government Printing Office. 1866

こんな約定破棄通告やその他の幕府情報をもとに、プルーイン公使はスーワード国務長官宛に1864年9月3日付け、即ち元治1年8月3日付けの報告書を送った。当時の日本国内情勢は、日本の史料でも各方面で多くの出来事が同時に起こっていて分かりずらいが、アメリカ公使館では良く整理された情報を得ていた事が明らかである。いわく、

日本国内合衆国公使館、    
神奈川、1864年9月3日
拝啓、
長州に対抗する遠征艦隊の出発と定められた日の前日、先月19日、日本側から伝えられていた如く、条約国代表者が若年寄を通じ延期されていた御老中の最終決定を聞く日になって、昨春ヨーロッパに向かった日本使節団が突然、郵便蒸気船でここに到着しました。同時にフランスと日本との間の約定に関する内容情報を得ましたが、幾つかの条目の中で、使節の帰国後3ヵ月以内に大君が内海を開放する事が述べられていました。こんなに折りの悪い時期の帰国とは考えられていませんでしたが、大君の召喚によるものの様です。従って連合艦隊への指令撤回が必要になりました。使節が取り決めてきた約定は、大君はそれにより直ちに内戦を宣言せねばならないと言う様に批准できないもので、そして若し批准したとしても大君が実行出来るものでも無い事がはっきりしていますから、私は御老中に宛て大君の判断を聞きたいと書簡を送りました。翌日、イギリスとオランダの私の同僚からも外国掛老中へ宛てた同様の書簡が出され、同時にフランス公使からは、大君は何時約定を実行する準備が出来るか問い合わせが出されました。本件に関する全情報は、外国奉行を以て通知する旨の連絡を受けました。

従って我々は、フランス公使は個別に、イギリスとオランダの私の同僚達は共同の席で、竹本甲斐守や他の奉行たちの正式訪問を受けました。

外国奉行達は、使節一行の帰国は非常に残念な事だったと言いました。彼らはまず第一にあんな馬鹿げた約定を結び更にこんなに早く帰国したりしたので、大君は彼らは溺れ死んでいた方が良かったと思い、首にされるべきで、厳しく処罰されるだろうと言いました。次いで言うには、大君は約定の批准をしない事に決めたと公表し、更に、大君は時間を稼ぐ事が絶対必要であり、従ってまた直ぐ代わりの使節を送るだろうが、上海以遠には行かないであろうと言いました。

条約国側代表者は直ちに次の会談に入り、海軍と陸軍の司令官は前回の合意に基づき直ちに行動すべく指示されるべしとの覚書が合意されました。

貴方はお気付きになると思いますが、この覚書は、艦隊遠征費用賠償金確保を目途に、また現実的ならば交渉による更なる開港地を得るため、長州領内の何処かの港を領有するもくろみです。

遠征艦隊出航後まもなく外国掛老中の使者の正式訪問を受け、長州は大軍と共に家老達を京都に派遣し、大君から帝の警護を命ぜられた会津藩主との衝突になった。その戦いが続く中で市中の大半が破壊された。また帝は大君に防御を命じ、直ちに長州の処罰を命じた、との情報を得ました。私は更に竹本甲斐守やその他の奉行同伴の外国掛け若年寄から、大君は江戸に於ける長州屋敷・居館を奪い、帝の命令を実行するため大迫力で進軍するだろうと知らされました。同時に彼は、遠征艦隊は発進させない様要請するためにも来たと言いました

彼は知っていたのですが、艦隊は既に出航してしまっていました。遠征艦隊はイギリス蒸気軍艦9隻、オランダ4隻、フランス3隻、(傭船した)合衆国蒸気船・ターキャン号の1隻という編成です。イギリス軍提督は、若し希望するなら、喜んでジェームスタウン号を下関まで牽引する命令を出すと言いました。しかし帆船はそこに行っても、士官たちを悔しがらせその動きに恥ずかしくなるだけで、何の役にも立ちません。同時にジョレス提督とオランダ艦隊を指揮する艦長、更に私の同僚公使たちが彼らの意見として、我が国の国旗が示される事ば非常に望ましいと言いました。日本政府は合衆国の立場を十分に理解しているが、幕府を信用しない大名達はそれを誤解するに違いなく、この港にジェームスタウン号を保持する必要があったとしても、それによって合衆国は他の条約国と上手く行っていないという印象を与えてしまう可能性がありました。こんな状況下でプライス艦長と私は、殆ど新造で600トン超あり非常に有効であると思われるアメリカ蒸気船・ターキャン号を傭船する事は我々の義務であるとさえ感じました。この蒸気船はプライス艦長により ジェームスタウン号のピアソン大尉に委ねられ、蒸気船に既に装備されていた小型砲3門の外に、帆走軍艦の30ポンド・パロット砲を設置しました。

傭船は非常に常識的な条件で決まった事は喜ばしい限りです。私の次回報告書に傭船契約書を添付しますが、その時には恐らく遠征の結果をお知らせ出来るでしょう。

下記書類を添付いたします。
筆者注:添付書類のNo.1 〜 No.9は省略。但しこの中に、京都や大阪や大津からの、桂川から御所にかけ会津と長州の戦争が始まり火事になった事を伝える英訳された3種類の情報が含まれている。幕府が入手した生情報を外国公使達に提供したものであろう。)

尊敬の念を持って、敬具。
ロバート・H・プルーイン、  
日本駐在公使

ウィリアム・H・スーワード閣下
     国務長官、ワシントンDC

こうして一時膠着状態に陥っていた4カ国連合艦隊は、幕府から正式な「パリ約定破棄通告」を受けると1864(元治1)年8月28日朝、16艘の蒸気軍艦と1艘の武装蒸気船が下関に向かい横浜を出港した。

元のページに戻る


コメントは 筆者 までお願いします。
(このサイトの記述及びイメージの全てに著作権が適用されます。)
07/20/2019, (Original since 07/20/2019)