日米交流
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History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

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エアロン・H・パーマー (Aaron H. Palmer) の大統領宛書簡
(33D Congress, 2d Session. SENATE Mis. Doc. No. 10, Accompanying document B より訳出)

エアロン・パーマー(アーロン・パーマーとも)は弁護士で、ニューヨークで自身の法律事務所、「The American and Foreign Agency for Claims (アメリカ国内・国外請求権法律事務所)」を開いていた頃から、ヨーロッパの人脈を通じ、アジアからインドネシアやオーストラリア、アフリカやインド、シベリアから樺太や千島列島、カムチャッカやアリューシャン列島などの政治情勢・経済活動・産物・航路情報などを地政学的に細かく研究し、アメリカとの貿易拡大の可能性を調査していた。その後パーマーは連邦最高裁判所の法廷専門弁護士(Counselor of the Supreme Court of the U.S.)になったが、自身で集めた情報を駆使し、これら新興国地域に使節を送り貿易拡大の実現を図る計画を、数次に渡りアメリカ政府や議会に建策していた。

こんな中で、アメリカ捕鯨船員の日本での虐待問題が伝わると早速政府に建言し、更にまたこの解決と日本開国・貿易拡大をにらみ、1851年1月6日フィルモア大統領に直接書簡を送り、ずっと自身で提案し続けてきた計画の実現を再び強く働き掛けた。いわく、

1851年1月6日、ワシントンにて、
拝啓、
我が政府が選ぶ価値のある、東アジアやインド諸島の海洋独立国との外交関係、通商関係、蒸気船航路の確立等を考慮し、この重要課題に向けた、大統領閣下の速やかなる配慮を求めたいと思います。
如何なる東洋向け使節の特別支出予算も無い現在、支那の国民が東方及び南方アジア諸国に向け、自国を「中華民国」と謳い、支那皇帝が日本を除くそんな国々の上に立つ宗主と位置づけられる支那の立場を考慮すれば、こんな国々の統治者たる支那に向けた、合衆国を代表する使節の早急な派遣が必要であり、同様にこの使節を、これら地域のアメリカ貿易統括長官として任命すべきであります。
この海域の合衆国艦隊をこの使節の統括下に配置する事により、支那への使節としての業務を阻害しないよう、使節はその蒸気軍艦に乗り、短期間だけ日本やその属領、朝鮮、コーチ支那(筆者注:ベトナム南部、メコン川下流地方)、シャム、ビルマ、東インド諸島などに行き、特に日本政府とは交易を開き通商条約を結びます。そして、この東方地域の貿易活動が増加し、我が政府による駐在公使や領事が任命できるほどになるまで、この方法を継続します。
地理学的、政治的、商業的、水路学的な各種重要情報はそんな短期的訪問で取得できますが、それは、我が国がこうして訪問した国々と近い将来交易活動を行うに際し、特にサンフランシスコからその地域への蒸気船連絡網を確立するに当たり、石炭補給基地の選定や、不可欠な暫定的準備を行う上で非常に有用で有利な情報となります。
この包括的で、効率的、経済的な組織のもと、我が国の支那との正当な通商は、(公式には禁止されている)アヘン取引量を含まないイギリスのちょうど半分の量で、利益の見込める取引量は更に巨大ですが、支那とその近辺の国々との貿易拡大と管理監督に要する年間費用は、たとえこの使節を、1849年2月24日付けでテイラー将軍(筆者注:ザカリー・テイラー大統領)に提出したニューヨークからの建白書で推奨したような、全権が伴う公使に格上げしてみたとしても、イギリスの支那貿易の監督官とその確立した五ヶ所の特権的貿易港の領事体制で発生した、1848年3月31日現在の年間経費である、英国貨幣・33,326ポンド10シリングの10分の1にも満たないでしょう。
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一般的に、日本国民は外国人に対し友好的で親切であると云われていて、外国人と交流し貿易したいという気持ちを例外なくはっきり示していますが、彼らの統治者とその国法への恐れの念から、公然とそうする事は妨げられています。この国の政府は、やがて周囲の状況の力で、また特に太平洋へ進出している我が国民の存在により、益々強まるこの時代の商業精神に屈服することになります。
1811年(筆者注:文化8年)には、当時蝦夷と千島列島諸領の奉行(筆者注:松前奉行)だったよく名の知れた日本の政治家・荒尾但馬守(筆者注:成章・しげあきら。文化8年夏、国後島で捕縛されたロシア軍艦ディアナ号艦長・ゴロウニンの尋問にあたった)は、帝国の諸港を外国貿易に開く事に賛意を持っていましたが、松前から江戸の老中に宛てた公式報告で、「創造主の創った、太陽、月、そして多くの星々は夫々の経路を自由に経巡るが、外国船が長崎以外の如何なる港にも入ることを禁じた人手による日本の国法は、永遠ではあり得ない」と述べています。この人物は最終的に江戸幕府の上席奉行に昇格し、政務上の大事に参画する職に連なりました。
私は過去5年間に、種々な機会を捉え、日本で野蛮で侮辱的な取り扱いにあった遭難アメリカ人水夫たちに関する我が政府の注意を何時も繰り返し促してきたし、そんな暴力行為に対する満足のいく償いと賠償金を江戸幕府に支払わせ、日本沿岸で不幸にも船が難破したり、悪天候時や救助を求めて、あるいは修理のために、彼らの如何なる港へも避難を余儀なくされるこれら我が同胞に、寛大な厚遇と友好裏の保護を受ける権利を保証させるべく、何らかの有効で強力な、国家の対策が採られる必要性と緊急性を示してきました。
前の国務長官・ジョーン・M・クレイトン氏宛ての1849年9月17日付けの書簡の中に、これは国務省にある私の記述書類のファイルにありますが、アメリカの捕鯨船・ラゴダ号乗組員の日本に於ける拘留と受難、そしてそこからアメリカ軍艦・プレブル号の艦長・グリン中佐により長崎で救い出された詳細記述が報告されていますし、私は昨年の4月、上に述べた重要事項を完遂すべき計画を提出し、クレイトン氏の賛同を得ています。それはあらゆる局面と、特に日本人の国民性と智謀に関し再度十分に考慮しているので、彼らが我が同胞に加えた不法行為に対する賠償を即座に要求し、その再発がないよう十分な保証を取り付ける事は、我が政府が威厳をもって採用できるただ一つ実現可能なものだと、私自身満足に思うものであります。必要な気転、精力、そして確固たる目的を持つ使節に委ねられ、堂々たる合衆国艦隊に支援され、提案の如き性格を持つ使節団は、確信を持って予言できますが、高慢で強情な将軍、その「老中」、精神的な「帝」たちを、何らかの満足できる解決策へと速やかに引き込み、その帝国に我々との通商の道を開かせるでしょう。
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大いなる尊敬と共に誠実と謙譲の念を込め、敬具、 エアロン・H・パーマー
ミラード・フィルモア大統領閣下

この様な正確な情報と共に、パーマーは確信に満ちた書簡をフィルモア大統領に送った。フィルモア大統領は、この4ヵ月後にオーリック提督に全権を委譲し蒸気軍艦を引き連れた東インド艦隊の日本派遣を命令し、また翌年2月、全権を委譲し日本開国交渉へ向けた新たな命令をペリー提督に出したわけだ。

上述の如くパーマーは、当時アメリカの連邦最高裁判所の名誉ある法廷専門弁護士だった。パーマーをこの様に熱心に東洋貿易の実現に駆り立てた意図は、その法廷専門弁護士という立場上、特定のグループに利益誘導をというあからさまなロビー活動よりは、真に国家的利益を実現したいとの思いだったように見える。しかし若し特別な意図があったとしたら、1849年9月にクレイトン国務長官宛に出した「日本を開国させる計画書」に、「充分な賠償金を請求する」とある如く、あるいは虐待を受けたというラドガ号船員たちに、日本から賠償金を取ってやろうとの意図も強くあったのかも知れない。しかし、そんな他意が有ったかどうかと云う辺りは、筆者にとっていまだ歴史の闇の中にある。

またパーマーは、ペリー提督とも以前から情報交換をしていたし、オランダのアメリカ駐在公使・テスタ男爵(Baron F. M. W. Testa)の仲介で、1850年1月8日付けで長崎のオランダ商館長・レフィスゾーン宛てに手紙を出し、国務長官・クレイトン宛に1849年4月14日付で提出したアジア向け使節派遣の自身の建策書の抜粋を送り、日本の幕閣にそんな情報が伝わる事を期待している。レフィスゾーンは、勝海舟の言う「日本紀(Bladen over Japan, 1852)」の中で、「自分が長崎滞在中にパーマー書簡を受け取った」と証言しているが、この情報の一部は長崎で日本語に翻訳され、読まれていたという(筆者注:勝海舟編纂『開国起原』中、最初に出てくる「カピタン列遜(レフィソン)氏の日本紀」参照)。

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08/10/2010