日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

阿部伊勢守の辞表提出と翻意

本文でも触れたように、第二回目のペリー艦隊の来航で7艘の軍艦が小柴沖に投錨して以来、ペリー艦隊は江戸近海の測量を以前にも増して活発化させ、江戸に向かう姿勢を崩さなかったから、こんな動きに動転し始めたのは幕閣のみならず、江戸詰め親藩の藩主たちも同様だった。浦賀に出張し浦賀でペリー提督と応接をしようと待ち構えていた林大学頭は、こんなペリー側の圧力に大きな危機感を募らせた。安政1(1854)年1月28日、前回の応接で中心的役割を果たしアメリカ側に信頼されている浦賀の与力・香山栄左衛門に命じ、特別にアメリカ側と交渉させ、艦隊を羽田沖から引き戻せば横浜近辺で応接しようと主張を和らげた。

こんな幕府側の軟化を聞き知った福井藩主・松平慶永は、2月1日付けで阿部伊勢守に書簡を送り、平穏に対処するという真意が良く分からないが、アメリカ側が何処にでも勝手に上陸したり空砲を打ったりすれば、どんな「巨患」が突発するか分からない。より一層海岸を厳重に警備し、アメリカ側にも厳重に警告しておかねばならない、と警告した。

一方、ペリー提督と横浜で交渉を始めた林大学頭を指揮する阿部正弘はじめ幕閣は、徳川斉昭も参加した2月7日の幕議で、「米国に通信・通商を許さず」との基本方針を決め、指示を出した。いよいよ2月10日、横浜で日米の交渉が始まったが、その席で「薪水食料の給与と漂民撫恤(ぶじゅつ)」が基本合意された。2月19日の交渉でペリーは、そのために入港を許すと日本側の言う長崎は、支那に近すぎて良くない。長崎以外で、ここ横浜も含めた複数の港を「全権」という権限に於いて今すぐに決めて呉れ、と林に迫った。そこで林は、それ程までに場所にこだわるのなら、なぜ国書にはっきり書かなかったのか。「南部に一港」と言っているだけではないか。即答は出来ないと拒絶し、翌日、急遽江戸に帰り、幕閣の指示を仰いだ。そこで2月22日、幕閣は評議の末、下田と箱館を開くことに決定し林に指示を下した。2月26日に再びペリーと会談した林は、「下田と箱館を開港し、薪水食料の供給場所に充てる」と伝え、こうして日米和親条約の骨格が合意されたのだ。

ここに至るまでの約1ヵ月間に、今迄に無かった国家の進路を変更する多くの重要決断をし、日米交渉を指揮した阿部伊勢守は、突如として幕閣に宛て辞意を漏らし、安政1(1854)年2月26日付けの内願書を送った。これは上述の如く、林大学頭とペリー提督との交渉中、ペリーは開港地としての長崎は絶対に受け入れられないと強硬に拒絶し他の港を要求した。これに対処すべく急遽帰府し登城した大学頭が幕閣と会い、その決断として老中首座・阿部伊勢守が下田と箱館の開港を許可した4日後の事である。いわく、

私儀、存寄も奉ず(=上様のお気持も知らず)重き御役仰せ付けられ、別段の勤功も無き処に度々莫大の御恩賞を成し下され、御先代様より引続き、当上様より格別の御寵遇を蒙り奉り候段、冥加至極、有難き仕合せに存じ奉候。然る処、近来異国船の儀に付き、両上様には古今未曽有の御心配遊ばされ候儀出来仕り、重々恐れ入り奉り候。尤も時勢止む事を得ず儀に御座候えども、昨今俄かに相知れ候事柄にも之無く、弘化元年和蘭陀使節船が長崎に渡来(筆者注:オランダ軍艦・パレンバン号が「日本は開国すべき」と推奨する国王・ウィレム2世の書翰を届けに来た。阿部正弘は既に老中に就任していた)。其の頃より追々異船相見え、殊に一昨年秋、咬𠺕吧(ジャガタラ)都督より新加必丹差向け候う始末等を勘考仕り候得ば、此度の異船渡来一条も豫め相知れ候事に御座候。就いては、兼ねて御武備相整い海岸防禦筋行届き候様取計らい申すべき処、御備向き未だ御全備相成らず、諸向き共武備相整い申さず、拠(よんどころ)無き応接方万端穏便の御取扱いに相成り、権宜(=臨機の処置)の御處置とは申し乍ら、追々御国法は相崩れ、御国辱に相成り候段、及ばず乍ら私儀結構召仕わされ、各様の御筆頭に罷り在り候得ば、全て私の不行き届きの故と重々恐れ入り奉り候。この上精勤仕り、粉骨砕身御国恩を報い奉るべきは勿論の儀に御座候得ども、何分上に対し奉り、心中恐れ入り奉り候は申すに及ばず、諸藩へ対し面目を失い、この儘相務め罷在候ては、公辺の御処置に於いても自然御手緩みの様に相見え申し候。これに依り、最早異船退帆も致し候事故、今日より登城仕らず、恐れ入り相慎み罷在候間、引続き御役御免成し下され候様願い奉りたく存じ奉り候。就いては去々子年に成し下され候御加増一萬石は其の儘頂戴仕り居り候ては心底安からず存じ奉候間、重々恐れ入り奉り候得ども、寸志迄に差し上げ奉りたく、是又願い奉り候。尤も御役御免仰せ付けられ候上、身分相応の海防御用仰せ付けられ候らえば誠に以て有難き仕合に存じ奉り候。右様にも相成り候儀に御座候えば、責めては是迄の御厚恩萬分の一も報い奉りたく心底に御座候。閣各様御談の上、不容易の御時節柄に付き、内願の通り早々御聞き済み相成り候様、偏に御執り成し願い奉り候。以上。
    二月二十六日
この様に述べ、今回の出来事は時代の趨勢で止むを得ない事ではあったが、こうなる事態は昨今判明したわけではない。弘化元(1844)年オランダ使節の軍艦が長崎に来たが、以降時々異国船が来て、特に一昨年、嘉永5(1852)年6月にジャガタラ都督が新カピタンを長崎に派遣し、我が国に、開国に向けた再警告を与えた事等を考え合わせれば、この様な事態になる事は前々から解っていたのである。今回は緊急の臨時処置ではあったが、伝来の祖法が崩れ、国辱ものになった。これは全て筆頭老中たる自分の責任である。上様には誠に申し訳なく、諸藩に対する面目も潰れ、このまま勤めていては綱紀の緩みに見えてしまう。どうぞ筆頭老中を罷免し、出来たら身分相応の海防掛けの責任を与えて頂きたい。この様に内々に辞意を表明したのだ。

幕府財政と防備体制を強化すべく行った天保の改革に失敗し、罷免されたが再任され、オランダ国王・ウィレム2世の書翰への対応をめぐり開国に前向きだった老中首座・水野忠邦を、保守勢力側の1人として弘化2(1845)年2月引きずり降ろし、後任の老中首座に付いた阿部正弘がこの様に言う訳だが、自身が老中首座について以来9年経っても「この間に御武備が相整い、海岸の防禦体制が行届き候様に取計らい申すべき処、御備え向きは未だ御全備に相成らず、諸向き共、武備が相整い申さず・・・」という有様では、「全て私の不行き届きの故と、重々恐れ入り奉り候」と言う以外の言い方は無かったわけだ。本文に書いたごとく、確かにペリー艦隊を見てからは、内海台場築造、大砲の鋳造、大船建造の解禁、洋式火技奨励、オランダへの軍艦発注など海防強化策を取ったが、遅すぎたわけである。

阿部伊勢守は更に、安政1(1854)年4月10日付けで、老中から退く辞表を上記内願書も添付して正式に海防掛け老中・牧野備前守へ提出し、自宅に謹慎し、罷免を待った。その辞表いわく、
然るは小生の儀、今日は頭痛眩暈(げんうん、=目くらみ)にて難儀仕り、押しても登城仕り難く御座候間、拠(よんどころ)無く不参仕り候。宜しくお含み置き成し下さるべく候。御用多の処度々相引き(=休み)、何とも恐れ入り存じ候。然るは私内願の趣、先達って先ず御内話に及び書取りも御目に掛け候処、段々御示教下され、厚く忝く存じ奉り、再三愚考仕り候得ども、先達っても申述べ候通りに御座候間、此の儘重き御役儀相務め罷り在り候儀、深く恐入り奉り候に付き、亜米利加船下田退帆候はば早々内願書差出すべく存居り候処、右船彌平穏にて最早異変も此れ有る間敷く、只々日を重ね候のみにて、此の上退帆の模様も聢と相分り申さず、露西亜船も長崎へ又々渡来之れ有り候処、去月二十九日退帆は致し候得共、右様東西へ追々渡来の儀誠に以て不容易の御時節、総躰の気格別に御引立て、並びに諸事追々御改革御座無く候ては相成らぬ御時勢に御座候。然る處別紙に申上げ候如く、不行届きの私儀、此の儘罷在候ては第一諸向き奮発の期覚束無く、海防を始め御取締り向き等手後に相成り申すべき事に付き、各様一ト方御心配中相引き候は甚だ以て不本意至極の限りにて、重々心痛仕り候へ共、前文の次第に付き止むを得ず事、一日も早く退職仕り候方と在じ奉り候間、今日より恐入り登城仕らず、相慎み罷り在り候。何卒内願の通り御聞き済み相成り候儀、偏に宜しく御執成し願い上げ奉り候。御用多の御中種々の儀申上げ、御心配をかけ、呉々恐縮の至りに御座候得共、何分黙止し難く申上げ候間、左様御承知、萬々宜しく御頼み申し候。
   四月十日
阿部伊勢守   
尚以て先達って御目に懸け候内願書の儀は、其の節申上げ候通り二月二十六日相認め置き候書面に付き、其の儘差し出し候儀に御座候間、御含み、宜しく御申上げ下さるべく候。

この様に書いて、上記の内願書を添え提出して貰いたいと願い出たのだ。

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06/06/2018, (Original since 06/06/2018)