日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

新スペインの使節セバスチャン・ビスカイノ

日米交流に関しては、セバスチャン・ビスカイノについて次のような情報を付け加える必要がある。

♦ ビスカイノとカリフォルニア沿岸探検

ビスカイノが使節に任じられ日本に来る、およそ9年も前の話である。ビスカイノは3艘の船団を組んで、1602年5月5日、アカプルコで2年も準備したカリフォルニア沿岸の探検・調査に出発した。その目的は、アカプルコから太平洋岸を北上し、主要な入り江や岬、陸地の目標を測量し、航海方法を記述し、木材や水、バラスト石のある場所を特定し、風向を計測し、太陽高度を測定し緯度を計測し、主要な場所に地名を付け、カリフォルニア沿岸の航海地図を作成することであった。おそらく、当時重要だったルソン島(現フィリピン)マニラから新スペイン(現メキシコ)への航路情報としても、領土拡張としても必要だったのだろう。

アカプルコから北上するにしたがって、エンセナダを命名し、サン・ディエゴを命名し、サンタ・バーバラを命名し、モントレーを命名した。これらの地は現在でも良く知られた、現メキシコやアメリカ合衆国カリフォルニア州の湾や港町になっている。更に北進し、サンフランシスコの北300kmほどにある、メンドシノ岬辺りまで到達している。ビスカイノはモントレーやサン・ディエゴを入植地として強く推奨したが、当時最も重要だった太平洋を渡りルソン島マニラからアカプルコに向かうガレオン船航路沿いにあっても、アカプルコから3300kmとあまりにも北にあり、入植に多大な費用がかかりすぎるためか、その後長くスペインから忘れられた存在だった。もっとも1609年頃には、モントレーがガレオン船寄港地として入植地建設の第1候補だったが、対費用効果の観点から、下に書く「金銀島」探検が優先されたようだ。その後1769年、やっとサン・ディエゴに新スペインの砦と伝道所ができ、1771年、モントレーにも砦と伝道所ができ、その後マニラからのガレオン船も帰港したようだが、ビスカイノの探検から167年も後のことである。

♦ ビスカイノの日本沿岸測量と、「金銀島」探検

前ページのごとく、1609(慶長14)年、ルソン島の前総督、ドン・ロドリゴがルソン島から新スペインに帰国する途中船が難破して日本で救助され、徳川家康から帰国資金と三浦按針(ウィリアム・アダムス)の建造した120トンの外洋船・サン・ブエナ・ベンチュラ号(按針丸)の提供を受け、翌年無事新スペインに帰国できた。セバスチャン・ビスカイノは新スペイン総督サリナス候の命で、日本の救助活動への答礼と、ロドリゴが提供を受けた帰国資金を返却するため、1611年3月22日アカプルコを出発し、6月11日浦賀に入港した。この船には、1610年に家康がドン・ロドリゴに随伴させ、新スペインに派遣した22人の日本人使者たちも乗り組み帰国できた。

アカプルコ行きガレオン船が航海したと思われる航路
(参照:The Manila Galleon by W. L. Schurz)
Image credit: 筆者製作

Basic global image credit: Courtesy of Google Earth

ビスカイノはこの答礼使節という目的のほかに、スペイン王から新スペイン総督に命じられた、ルソン島から新スペインへ向かう航海ルートで重要地点にあたる日本沿岸の測量と、噂になっている日本の東にあるという 「金銀島」の発見をも命じられていた。

当時スペインが成功させていたルソン島から太平洋を渡り新スペインのアカプルコまでの定期航路は、日本近海で少なくとも北緯30度以北へ、出来たら40度辺りまでにも出来るだけ北上し、貿易風を受けて東進し、メンドシノ岬あたりで北米大陸を認めるや、一気に東南に進路を取り北米大陸沿いにアカプルコへ向かうものだった。これはまた、とりもなおさずルソン島からアカプルコへの航海で、太平洋を渡る大圏航路に近いものだが、ドン・ロドリゴの日本沿岸での遭難に見るように、日本近海の測量は重要になっていた。それと同時に金銀島探検は、モントレーでの入植地建設より優先度の高い大きな目的だった。家康や秀忠は、約束どおり援助資金を返却し、日本人一行を送り返したスペイン王や新スペイン総督の要求を入れ、ビスカイノに沿岸測量を許可している。ビスカイノは浦賀から奥州まで沿岸を測量し、引き返し長崎までも測量した。

三陸沿岸を測量中の1611年12月2日(慶長16年10月28日)、ビスカイノ一行の測量隊は越喜来(おきらい)の村に着いた。現在の岩手県大船渡市三陸町越喜来である。この入り江、越喜来湾に近づくと、村人達がみな山に逃げて行くのを見た。ビスカイノ一行を恐れて逃げるのかと不審に思っていたとき、突然4m.にも及ぶ津波が押し寄せた。三陸地震によるものだった。ビスカイノによれば三回も高波が来たという。この津波は三陸沿岸や北海道東岸に来襲し、伊達藩内で溺死者1,783人、南部・津軽の海岸でも人馬の溺死は3千余り、北海道の南東岸ではアイヌの溺死者が多かったという。

日本の太平洋岸の沿岸測量を終え、やがてアカプルコへの帰りの航海の途中での宝島発見に出航したビスカイノはしかし、「金銀島」を発見できず、嵐で船は壊れ、仕方なくやっと浦賀に帰り着いた。ビスカイノは船を造るために家康の援助を願おうとしたが、フランシスコ派宣教師の妨害に遭い、ついに願いが家康まで届かなかった。滞在費は底をつき、帰る船もないビスカイノに救いの手を差し伸べたのが、新スペインと通商を望んでいる伊達政宗だった。政宗は「伊達丸」即ち、ガレオン船・サン・ファン・バウティスタ号を建造し、支倉常長を新スペイン経由スペインに送り、スペイン国王フェリペ三世から通商の許可を得る目的だった。ビスカイノもまた一緒に、このサン・ファン・バウティスタ号でメキシコ、即ち新スペインに送られたのだ。しかし野心家で日本語のできるスペイン宣教師、ルイス・ソテロの影がちらつき、伊達政宗の命でソテロが長官兼船長に就任し、ビスカイノは一人の船客という待遇だった。

この日本のすぐ近くにあり金銀が大量に産出すると噂される宝島の発見は、スペインのみならずオランダも、1639年から数次に渡りバタビヤから探検隊を出している。特に幕府が嘉永6(1853)年にまとめた外交史料 『通航一覧』にも、こんなオランダ船の1艘(筆者注:ブレスケンス号と言われる)が寛永20(1643)年に陸奥国南部浦に来て、10人が水を取りに上陸し盛岡藩に捕まったがオランダ人と分かり、出島の商館長、カピタン・エンサヽキ(筆者注:エルセラック・Jan van Elseracq / Eserack)に引き渡された記録が載っている。それほどこの金銀島の発見は、当時熱く血を沸き立たせる探検だったようだ。

♦ ビスカイノが命名した、カリフォルニアと日本の「サン・ディエゴ」

宮城県石巻市雄勝町水浜、
日本の「サン・ディエゴ」
Image credit: 筆者製作

Image credit: Courtesy of YAHOO!
http://map.yahoo.co.jp/

前述のごとく、ビスカイノが日本に新スペインの使節として来る以前に、カリフォルニア沿岸をアカプルコから北に探検し、港や補給基地に最適な湾を発見し、「サン・ディエゴ」と命名した。この地は現在、アメリカ合衆国カリフォルニア州サン・ディエゴ市である。ここはしかし、ビスカイノの探検以前に、カブリヨ船長によって「サン・ミグエル」とすでに命名されていたので、後世の歴史家の中にはビスカイノの命名に異議を唱える人もいる。しかし、ビスカイノによって命名されたサン・ディエゴがその後ずっと使われている。

ビスカイノはまた日本で、徳川家康の許可を得て太平洋沿岸を測量し、奥州沿岸の水浜(宮城県石巻市雄勝町水浜)の地は良港になるという報告を伊達政宗に提出し、「サン・ディエゴ」と命名した。この他にもこの近辺で良港になりそうな地を、サン・アントン、サント・トーマス、サント・ドミンゴ、レグスなどと命名し、夫々政宗に報告している。このようにしてビスカイノは、太平洋を挟んだ日本とアメリカの両岸に「サン・ディエゴ」の地名をつけた人物である。もちろん、現在の日本には、もうこの地名はない。

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07/04/2015, (Original since 02/24/2011)