日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

タウンゼント・ハリスから、親友・ナサニエル・ドハティーへの手紙

アメリカの総領事・タウンゼント・ハリスは、江戸の蕃書調所で日本側と日米修好通商条約条文の交渉を終えた。この直後からハリスの体調がすぐれず、幕府の用意した蒸気軍艦・観光丸で江戸から下田に帰った。下田では高熱でうわごとをいう程悪化したが、何とか養生をしたハリスは1858年4月18日(安政5年3月5日)、再度上府し蕃書調所に入った。この間に、老中首座・堀田正睦は自ら京都に行き、朝廷と交渉し通商条約調印の勅許を求めたが、孝明天皇と公家集団の大反対に遭い、不成功のまま江戸に帰って来た。ハリスと会談した堀田はこの困難な状況を説明し、アメリカのピアース大統領宛に将軍名の親書を送り、条約調印の延期を要請した。このため1858年6月17日(安政5年5月7日)、ハリスはまた下田に帰った。

下田で時間に余裕のできたハリスは、1858年7月3日(安政5年5月23日)及び同年7月6日(5月26日)付けで、ニューヨークの親友・ナサニエル・ドハティー宛てに2通の長文の手紙を書き、日本での活動と観察を書き送った。この個人宛ての私信は宛先を匿名とし、1859年1月15日付けのワシントン・ユニオン紙の第1面から2面にかけ掲載された。またこれはボストンの週刊文学誌「The Living Age. No. 770. - 26 February, 1859. - Third Series, No. 48.」にも転載されている。

この文中で、将軍・徳川家定を指して「皇帝」あるいは「陛下」と筆者が訳すものは、「Emperor」あるいは「His Majesty」の直訳であり、通例の日本語としては少し違和感があるが、ハリスの尊敬を込めた言葉としてあえて使用した。さて、この手紙いわく、

日本、下田、合衆国総領事館、1858年7月3日     
親愛なる・・・・・様、

ご承知のごとく、私はこの国に、日本国皇帝へ宛てた合衆国大統領からの書翰を携えて来ました。1856年10月、江戸の政府に宛てて私に委ねられた書翰を届けるため江戸に行きたい、と書き送りました。貴方は、日本人が私へ、色々な手段を使って下田で書翰を手渡させたいと説得して来た物語を読むのはつまらなく、それ以降、長々と十ヵ月程もかかった交渉過程を読むのもつまらないと思います。ついに私が最初の決心を変えない事が分かり、彼らが問題としてきた諸事から譲歩し、私が江戸に行き、公式の場で、皇帝に書翰を手渡す事に合意しました。これは明確な成功で、今迄この政府と個人的な連絡手段を妨げていた大きな障壁を突破した事から、好都合な前兆を引き出す事になりました。日本人は、私の旅の準備と江戸に於ける受け入れに二ヵ月以上も費やしました。皇帝が、私はその血縁関係にある大名達に払われると同等の儀礼を受け、また旅行中に私が通過する町や村でも同様に扱われるべきであるとの命令を出したと聞かされました。案内役として下田の副奉行が私に付き添い、彼は私の全ての命令に絶対服従する、と言われました。

私の行列は、(私自身の)警護の侍、大駕篭( norrimon )の従者、料理人、馬丁、草履取り、槍持ち、扇持ち、最後にもう一つ大事な事ですが、通常の従者と多くの下僕という、ほぼ百五十人ばかりにのぼります。私は日本人に、私の行列の形式と身なりは、彼らの習慣に従い、彼らが合衆国大統領の代表者に相応しいと考える様にする許可を与えました。私の警護者達と私の従者や馬丁達は、「翼を広げたワシ(筆者注:米国の紋章)」が身体中から「飛び出して来た」様に、彼らの着物の背中や、胸元や、袖に合衆国の紋章がちりばめられ手際よく染め付けられていたので、警護の侍は両刀を腰に差し、この新しい絹の着物を着用し、得意になり闊歩するが如く、「気持ちが大いに高揚する」が如くに見えました。私はこの旅の一部は馬に乗り、一部は日本名でノリモン( norrimon )という大駕篭に乗りました。日本のノリモンはフランスのバルー枢機卿( Cardinal Balue )の世に知られた鉄製の檻にたとえられますが、その中で可哀そうな収容者は横になる事も立つ事も出来ません。ノリモンの中で日本人はひざをつき足を閉じ、かかとの上に座ります。そして彼らが姿勢を変えたければ、体を前に傾けひざの上にあごを乗せますが、そのため上体と足とで水平方向の三つ折り、即ち山が出来ます ― この姿勢は日本人が長い習慣と関節の優れた柔軟さから難なく取り続けますが、それは白人( white man )にとってはほとんど不可能で、全く耐え難いものです。

私は自分のために長さ7フィートで、その中に敷物と枕を入れ、インド製の輿(こし)の様に快適な物を造りました。しかしラクダやゾウといったあらゆる旅行手段の中で、この大駕篭は全く適しません。

11月23日の素晴らしい月曜日の朝、私の長く待ち望んだ希望のゴール ― 江戸に向け出発しました。竹で作った小さい官杖を持った四人の若者が先駆者として先導し、日本語で「道を開けよ」、「道を開けよ」、「ひざまずけ」、「ひざまずけ」と言う彼らの掛け声は全く音樂のように響きました。次に乗馬の侍が続き、その次に私の官位と名前を大きく漢字書きした大きな漆塗りの表札が来ます。表札の後には同様な漢字を書いた透明な提灯が続きます。(私が一時休止する時はこの表札が私の宿所の前に置かれ、夜には提灯に火が入り、宿の門に吊り下げられます。)次に続くのは、頑強な男が掲げる「星条旗」で、四人の警護付きです。私は乗馬か大駕篭に乗ってそれに続き、十二人の警護が付きます。次はヒュースケン氏(通訳)で、その後はどう編成されたか分かりませんが、しんがりに副奉行が来ます。

最初の三日間は、伊豆半島を構成する山や深い谷を通る曲がりくねった道です。通路(道路とは呼べない)は狭く、多くの場所では岩に刻んだ段々で出来ていて、時にそれは4,000フィートもある高さの山を越えます。二日目に私は湯ヶ島に着き、天城山の峡谷から抜け出ると初めて「富士山( Fusi Yama )」、「無敵の山」を見ました。その光景は例え様もなく偉大でした。湯ヶ島のお寺からの景観では、その山は完全に孤立して見え、神々しく10,000フィートの高さに聳え立つ完全な円錐形です!それは雪をかぶり、明るい日差しの中で凍った銀の様にきらきら輝いていました。その荘厳な孤高の中で、良く知られたヒマラヤ山脈のダウラギリ( Dwhalgiri =Dhaulagiri )より更に偉大で堂々としている様に見え、私の心を打ちました。最初の二泊は、私の快適さの助けになる新しい浴室とその他の器具などが設備されていたお寺に泊まりました。三日目の夕方三島に着き、そこは東海道即ち偉大な東街道沿いの町で、そこから江戸まで道路は広く良いものです。日本の大街道沿いには、大名達が旅の途中で宿泊する立派な建物が設備され、本陣( Howjin=Honjin )と呼ばれますが、それ以降の旅で私の宿所となりました。

こんな建物に到着すると早速副奉行がやって来て、私の到着を祝い、健康状態を尋ねます。ある時副奉行に陣屋に入らないかと聞くと、この人には三十段階程の昇格があり、袖には皇帝の紋章を付け、「花形一千人の首領」 ― それは一千人の武士の指揮者でありますが、彼は首を振り、「高貴なお方」だけが本陣に入れるので、とてもそんなことは出来ませんと言いました。

私が東海道を上る初日は箱根越えで、ほぼ標高4,500フィートありす。峠の頂上を超え、約三分の一ほど下ると、休憩所にある完璧な 箱庭 に着きました。全てが小型です。建物は新しくその小奇麗さにかなう物はありません。箱庭は裏手にありますが、木々は可能な限りの小型です。小さい寺院があり、ほら穴状の岩屋があり、よう精以上の重さでは渡れない様な非常に 小さい 橋がありました。真っ白な小石が敷かれた川や魚の住む池があり、透明きわまりない水がはってありますが、金色と銀色の魚は非常に大きく、あるものは全く二フィートもあり、灰色頭の老コイは魚族のヌシの様に見えました。

箱根越えは夜になっても終わりませんでしたが、多数の大きな竹松明に明々と照らし出された私の行列は初めて見る光景で、遅くなるのは気になりませんでした。峠道を下る行列がねじ曲がったり方向が変わったりするにつれ、巨大な赤く燃え立つ竜のしっぽの様に見えました。平地に着くと、私は小田原の街の役人と、ありとあらゆる大きさと色で、更に夫々の家の紋章を描いた提灯を持った一群に出会い、その全体が、活気があり楽しい雰囲気を創り出していました。11月29日の日曜日は川崎で過ごしました。ここはビッチンガー牧師( Chaplain Bittinger )が、彼の名高い江戸へ向けた突進を敢行して到達した町です(ペリー提督の日本遠征記録を参照)。私が初めて日本に到着した日から今日に至るまで、何時も、日曜日にはどんな仕事や旅行をする事をも拒んできました。私は直ぐ日本人に私の動機を理解させ、それで彼れらの私への尊敬が増したと思っています。

街道は全て修理され、全行程の道は私が着く前に奇麗に掃き清めてありました。橋々は整備され、多くの新しい橋が懸けられ、街道の全ての通行は止められ、そのため私はケンペル( Kempfer筆者注Engelbert Kaempfer )が記述したような僧侶や尼やその他の雑踏する旅人の姿は見ず、(食事処や茶店を除き)町や村の全ての店は閉められ、晴れ着を着た住人たちは各自の家の前に敷いた敷き物の上にひざまづき、ことりとも音を立てず、興味本位の物見の気配もなく、皆、敬いの静けさを保って居ました。見上げるには私は高過ぎましたが、私が通る時は顔を伏せるように命じられていました。しかしこの命令には半分くらいの者が従っただけで、女たちは後の咎めなど気にする事もなく盗み見ていた様です。町や村の役人たちはその境界で私を迎え、私に向かってひざまずき「頭を垂れて」挨拶をし、先に立って彼らの小さい責任区域を案内し、同じ様に平伏して別れました。

私を良く知っている貴方には言う必要もない事ですが、こんな形式的儀礼や奴隷根性的な儀式は、私の簡素な習慣にはほとんど折り合わず、私の偽りない共和主義的道義に全く矛盾しています。でもどうすれば良いのでしょうか?私が江戸に行く真の目的の最終的な成功は、実際、私の旅の途中でも江戸への入府に伴っても明らかになる如く、この身分と儀式とにかかっている事を知っています。これが私の感じと意見ですが、一方で私はこんな儀礼を要求したわけではなく、他方で私に向けられた時は、拒むものでもありません。

11月30日の月曜日、私は江戸に入りました。私に付き添う警護の侍たちは、ワシの紋章を幾つも付けた裃(かみしも)と呼ぶ儀式用着物を身に付けました。

実際に江戸の街の境界に着く何マイルもの道路は家々でつながっていて、若し私にその場所を知らせてくれなければ、品川と江戸の境界を何時超えたかは分かりません。私が江戸に入った門から私の宿所まで凡そ七マイルでした。江戸の通りは門と太い木材で出来た矢来により120ヤードの区域に分かれています。この造りで、警備の役人は如何なる部分の街や走り抜けようとする道をも分断する事が出来、群衆や暴徒の集りを防ぐ事になります。我々が開いている門に近づき、行列の最後部が通過するや否や門は閉鎖されました。道路の交差点の門はすべて閉鎖しています。私はこんな門の向こうに大変な群衆の姿を見ましたが、我々の行列が通過する側の人々は、その通りの家々に住む人のみです。これらに関らず、集まった人数は莫大なものでした。通りの中央は空けられ、群衆は通りの両側に張られたロープで脇に寄せられていました。集まった群衆はあらゆる階級や身分の男や女や子供たちで、― 女たちが多数を占めていました。私の見積もりでは、江戸の街の入り口から私の宿所まで、道の両側に並んだ人数は300,000は充分に居たでしょう。この物凄い群衆が集まっていたにも関わらず、私は露払いの、下に、下に( Sútu, Sútu )と続ける掛け声以外、一言の言葉も聞きませんでした!

そんなに多くの女たちが居れば静粛さを保つのは不可能だと貴方は考えるかも知れませんが、実際に静かだったのです。

私に準備された家は第四曲輪内で、江戸の上級役人が住む区域にあり、日本風に数えれば五百人を賄うに十分の大きさです。

私が到着すると親しい友人の信濃守に温かく迎えられ、私の便宜と快適さのために造られた椅子や机、寝台やその他、色々な設備を見せてくれましたが、それらは日本人は誰も使わないものです。

翌日は幕府の高官である丹波守(筆者注:大目付土岐頼旨、老中堀田正睦の命による上使)が訪問してくれました。彼は私に、皇帝の「特別使節」として私の到着と健康を祝いに訪問したと伝えました。私がこんな特別使節の祝いの言葉を受け、適切な謝意を返した後、彼は大きな箱を指さして、皇帝から私への贈り物だと言いました。その中には五つの大盆( five large trays )に盛った菓子が入っていて(筆者注:日本側の記録では「五つ盆」ではなく、檜重一組に四重物が入り、中に干菓子二重、蒸菓子二重の「四つ盆」)、百ポンド以上もの重さでした。

その後で私は、老中首座兼外務大臣の世襲大名・堀田氏を訪問しました。会見は気持ちの良いもので、私の将軍謁見の準備が整いました。私は堀田氏に、皇帝への私の言葉の原稿を提出し、退出前に氏は、皇帝が述べるであろう返答内容の原稿をくれました。この準備により、双方の言葉は事前に翻訳され、謁見中の通訳の手数を省く事が出来ます。私が到着してから一週間後の月曜日、宮殿に向かいました。私の行列は新しい絹の着物を着て輝き、警護の侍たちは袴を腿の半ばまでたくし上げました。あなたに知ってもらいたい事は、日本で袴をはく事は上級層の証で、もし下級層ではく事は最上級層に仕える事です。そのためここで  をはく事は、アメリカのしかるべき部署に所属する事を望む事です。そしてここでもアメリカでも、形式は権力や権威の型や象徴です。日本の布で作った新しい旗が私の前を行きます。この旗はこの大都市で初めて行進した外国旗で、貴重な遺産として保管したいものです。私の宿所から宮殿までは二マイル以上あります。第三の堀即ち水路を越える橋に着くと、私の行列の全員が下馬したり駕篭から降りて歩きます。私はそのまま私の大駕篭に乗り続け、三つの堀を越え、宮殿の門まで幾つもある防御門をくぐりました。私は入り口で二人の頭を下げている侍従に迎えられ、私のために置かれた椅子のある部屋(筆者注:殿上間)に招かれました。そして私に、茶や菓子やその他の飲み物が出されました。多くの大名達が私に紹介されました。しばらくすると、皇帝の謁見準備が出来たと伝えられました。私は、宮廷用の服装(筆者注:直垂、狩衣、大紋布衣、素袍等)を付けた約300人から400人の、座像の様に静粛で不動の日本の貴人たちが正座している大広間に通され、この大広間から謁見室に入りました。この瞬間、侍従が大声で「アメリカ使節」と呼び、私が歩み入るのに合わせ、信濃守が平伏したまま這い進みました。書記官のヒュースケン氏は大統領の親書をささげ、入り口で待機しました。私は三回のお辞儀をしながら部屋の中を進み、平伏し二列に並んだ人の前で立ち止まりました。私の右が備中守が先頭に座る五人の老中で、左は皇帝の三人の兄弟です(筆者注:三人の兄弟とは松平讃岐守、松平越中守、松平民部大輔と思われる。日本側記録ではこの他に、井伊掃部守、酒井雅楽頭、その他合計八人が並んでいた)。

皇帝陛下は、部屋の床から約三フィートも高められた  の上に置かれた椅子に座っていました。彼は黄色の絹製の衣服を着、全く形容しがたい黒漆塗りの冠をかぶっていました。一呼吸の後私は彼に向かい挨拶を述べ、彼も一呼吸を入れ、透明で快適な声で私に返事を返しました。皇帝の返事が終わるとヒュースケン氏が大統領の親書を私の所に持って来て、私は(赤と白の縞模様の)絹の覆いを取り、箱を開け、書翰を備中守に見せ、(彼は立ち上がりました)そして箱を閉め、備中守に手渡し、備え付けられた漆塗りの台に乗せました、ヒュースケン氏は元の場所に戻り、備中守は平伏し、皇帝は私に会釈し、同時に満足そうに微笑みました。これで私の謁見は終わり、私は退去しながら三回お辞儀し、部屋を後にしました。

日本の貴人が通常着る衣服は絹ですが、宮廷の衣服は粗く黄色い草織(筆者注:麻布)で、小冠は黒漆塗りで曲がった就寝帽の様な物です。私は、日本の最も高貴な層を形成する皇帝自身やその宮廷人たちが身に着けた、どんな種類の宝石や宝飾品、装身具などを一つたりとも見ませんでした。

謁見室から私は他の部屋に通され、そこで私は五人の老中を紹介され、彼らに謁見の終了を祝われ、彼らの言う私の「心の偉大さ」への驚きと驚嘆を示されました。私がその説明を求めると、彼らは、私がまっすぐに立ち、畏敬すべき「大君( Tycoon )」を直視し、はっきりと話し、返答を聞き、― これら全てにおののきもなく、「体の震え」もなかったと言いました。この全てを書き、日本の大名達は宮廷の賛辞の使い方を知っている事を貴方に知らせたかったのです。次に皇帝陛下からの十五組の絹の時服の贈り物を見せられ、私のたった一つしかない胃袋のために、十二インチの高さの六十客のお膳に盛られた食事が用意された部屋に通されました。腹をすかせた人への、充分百人分の料理が並べてありました!

日本では、食事用のお膳は(袴と同様に)階級を表す事をご承知ください。その階級は、三インチから十二インチまで、お膳の高さで示されます。更にまたお膳が塗り物なら、そのお膳は再使用出来るため、高さで表現された名誉は小さくなります。しかし、それが無垢のヒノキ材で造られていれば、「貴殿の使用したお膳は他人は誰も使用しませんので、貴殿の階級は全く崇高なものです」と言葉で明白に言える如く、名誉は完全です! 私の特別な注目点は、最高の高さのお膳と、それが無垢の木材で造られたという「特別布告」による有望な事実です。この食事こそが、下田と江戸での厳粛な対話の主題だった事をご承知ください。彼らは私が宮殿で食べる事を切望していました。私は、若し適切な地位の誰かが私と同席で食べるのなら喜んでそうしましょう。しかし、主催者かその代表者が同席しないのなら、自尊心が許しませんと言いました。私が非常に手際よい食事の準備を称賛すると、再度、腰を下ろしてくださいと要請されました。私は、「陛下の歓待に感謝しますと伝えてください」と言いました。最終的に全ての料理が私の宿舎に運ばれ、下田から私に従ってきた人たちに分配しました。

料理の展示が終わった後、私が最初に導かれた部屋に再び案内され、名高い「力の付くお茶」を飲み、二人の侍従に出入り口まで案内され、彼らは「王様に謁見し、それでも生きていた」男のためには当然であるべき、全力を尽くしたお辞儀をしました。ところで一つ言い忘れていましたが、謁見の古い仕来りは「ひざまずき」、「平伏し、そこで傍観者たちには貴方のおでこのゴツンという音が聞こえますが」、若しこれが江戸の宮廷で行われていたとしたら、私の場合には行われませんでした。下田でかすかに、私がひざまずけるか聞かれましたが、それは無礼な質問で二度と口にしないで貰いたいと言いました。それでおしまいでした。

私の謁見中にいかに多くの思考が心の中を駆け回ったか、貴方に言うことも出来ません。しかしその偉大な事は、二世紀以上にも渡りこの単一民族により厳格に維持されてきた鎖国の障害が、ここで今、終に破壊され、これを達成したのはわが国家、光栄ある我が国であり、全ては 良心 の力によるものです。偉大で光栄ある道理の大勝利であります! 私の親しい友人のウェットモア将軍( Gen. Wetmore )への手紙には、私の初めての江戸行きで、三か月にわたり私を占有した事々 ― 多くの物事の詳細や私の病気についても論じるべきです。貴方の手紙にある如く、そんな主題には触れず、これらを形成した内容にも触れませんが、二通の書簡の精読で私が伝えたかった事の概要がお分りと思います。

私の下田への帰還は、オランダから日本に送られた蒸気船によるもので、引き続きの江戸への往復は全て海路でした。下田への正確な到着日を覚えていません。約二十日間にわたる間の記憶が全くありません。3月28日に私は子供の様に何も出来ず、私の病気の重篤さが分かった事を覚えている事を言えば十分です。

4月になって、医者の強い忠告にも関わらず、私は体力が弱く実際子供の様に抱えられて蒸気船に乗り、再び江戸に行きました。幸運にも、この軽率ではあるが 必要欠くべからざる 私の行動でも、病気の悪化はありませんでした。 皇帝は親切を尽くし、私の健康の完全な回復に特筆すべき配慮をしました。彼は毎日、私に宮殿で準備された非常に素晴らしい物を送ってくれました。こんな親切な心遣いの二週間後、その間に私は急速に回復していましたが、陛下は私のもとへ丹波守を遣わしある治療法を勧めてきて、丹波守はそれを説明してくれました。貴方が若しそれがどんなものかを知りたければ、「通常、列王記第三と呼ばれている」列王記第一の第一章の二番目の韻文を見て下さい(筆者注:旧約聖書列王記の韻文いわく、「王様のためにひとりの若い処女を捜して来て、王様にはべらせ、王様の世話をさせ、あなたのふところに寝させ、王様を暖めるようにいたしましょう」)。私の健康は全く急速に改善し、私自身の正義のために、帝国療法は使わなかった事を追加させて下さい。四月と五月の気候は魅力的で、毎日その影響を感じ取りました。

日本人が寺院や庭園など色々興味深い場所を教えてくれたので、私の健康と気晴らしのために訪れました。江戸の立ち見 即ち劇場は三軒あります。それらは全て街の北東部にあり、数ヤードづつ離れているにすぎません。行って観みようと思いましたが、親しい信濃守は真面目な顔で行かないでくれと頼んで来ました。彼は、日本の支配階級はみっともないから誰も行かない所だと言い、若し帝国の役人がそこで見られたら、おそらく首になるなるだろうと言いました。続けて言うには、「貴方は今や日本中で最高の地位にいる。何故そんな名誉ある地位から転落したいのですか?」。彼の言う事はもっともだと思ったし、我が国の代表者として影響力を低める事はしたくなかったので、私は行きませんでした。日本人の娯楽はあまり無く、基本的に人気の有るものは相撲や曲芸師で 最高の人気はコマ廻し です。

ここには、ジャワのロンゲン( Rougen=Rongen=Ronggèng筆者注:巡業女性ダンサー)、インドのノーチ( Nauch=Nautch )踊り女、エジプトのアルメ( Alme=Almeh筆者注:踊り子)、ポリネシアのシヴァ( Siva筆者注:火踊り)、パリのオペラの踊り子( Figurante )等に相当する物は何もありません。日本の、ガチっとあたる百人の力士の取り組みが私の楽しみになりました。ペリー提督の日本遠征報告書の431ページを開くと、この相撲の非常に良いリソグラフを見つけるでしょう。提督が説明する内容は全くその通りで、提督の説明(433ページ)で、力士がぶつかり合い、「彼らの額から血が出るまで獣のような争いを続ける」と書かれている事以外は、私が見た通りのものです。

五十を超える取り組みを見ましたが、私はそんな場面は見ませんでした。日本人は、若し神奈川で「ぶつかり合い、血を流した」としたら、それは例外で、規則違反だと言いました。(筆者注:ハリスはオランダの理事官・クルチウスと共に、1858年5月17日(安政5年4月5日)、両国の回向院で相撲を観た。)

曲芸師は非常に賢明です。中の一人は、普通の薄い紙から二匹のチョウを造りました。彼はまず扇の風で一匹を空中に浮かせ、頭の辺りで羽ばたかせ、彼の指先にとまらせ、腕にとまらせ、顔にとまらせ、今度はまた組で飛ばせ、その動きが自然で、全く見るのが楽しいものでした。チョウは空中で、回りながら、ある時は水平にまた上下に追いかけあい、陶器のうつわに入れた水の上で羽ばたき、ついにうつわの縁にとまりました。コマ廻し はニューヨークで喝さいを浴びるでしょう。

貴方の子供たちの楽しみのために、特に小さいお嬢さんの楽しみのために、外界にさらされる私の姿を見てたいそう憤慨しますが、その演技を書いてみます。

コマを廻した演技者がそれを板の上に移すと、コマは高速回転し安定します。彼はそれを持ち上げ横にして置くと、コマは止まったままです。彼はそこでコマの 方へ 声を掛け、コマに 向かって 声を掛け、彼の扇をいろいろと振り回し、コマを板の上に立てると、見て下さい!コマはまた陽気に勢いよく回っているではありませんか。他のコマは軸を持ち上げると、持っている間じゅう十七年ゼミと全く同じ音を立てます。一つのコマを女性と呼んでしばらく回し、彼はそれを持ち上げ、振ると、横になっている別の七つのコマの全部がその周りを陽気に回ります。他の種類のコマは突如として提灯になり、少し回っている間に中で光が点灯します。およそ五ヤードほどの縫い糸を二人で持ってピンと張り、演技者がこの糸の上に コマを乗せると、端から端まで倒れることなく移動し、常に回転しています。同じ芸当を刀の刃の上でやり、コマはつか(柄)の側から刃先まで走り、またつかまで戻ります。私はもうひとつだけ芸当を書きましょう。演技が行われた庭の地面に約三十フィート程の棒を立て、先端にある横木に小さい家を吊るし、(ツバメの巣箱の様なものですが)、その家の扉からヒモを地面まで垂らし、演技者が彼の左手の手のひらの上に回っているコマを乗せ、右手でヒモを握り、そこでコマを空中に放り上げ、彼はうまくそのヒモで輪を作りコマの下側に持ってゆくと、そのコマは直ぐヒモを登り始め、扉までたどり着き、コマがその扉を開け、家の中に入り、静かに止まりました!!この全ての演技の中ではトリックもごまかしもなく、純然たる技の実演でした。

     敬具、
タウンゼント・ハリス     

追伸 ― 下田と江戸の距離は陸路で130マイルあり、海路ではただの約80マイルです。私は作物や家などについては記述しませんでした。旅の途中は全て下田そのもので、貴方宛てに書き送った通りです。

手紙、その2

日本、下田、合衆国総領事館、1858年7月6日     
親愛なる友へ、

私は江戸の街へ二回行き、約六か月間滞在しました。7月3日付けの友人ドハティー氏宛の手紙の中で、私の旅と皇帝の謁見式出席について書きました。二通の手紙に、私が触れねばならない過去七ヵ月の全ての出来事が含まれます。最初に江戸から帰った後で、後で分りましたが悪性の神経熱( nervous fever 、筆者注:発熱による意識混濁、知覚麻痺など)に襲われ、何日も生命の危険がありました。神に感謝する事ですが私は回復し、今では普通の健康状態です。

私の病気中、皇帝と幕閣は大変心配し、私の回復に向け特別な心使いをしてくれました。陛下は毎日私に、果物やクズウコン( arrow-root )その他の贈り物に添えた親切な見舞いの言葉を送ってくれ、更に江戸から彼の二人の最高の医者を私に付けてくれました。医者たちは毎日私の状況を宮廷に報告し、私が回復できていないと言う報告を受け取るや否や、皇帝は医者たちに 私を治せ と命じ、同時に医者たちは、彼らの首は私の回復にかかっていると言われました。私はこの医者たちに、彼らの疲れを知らない私への手当に対し、充分なる感謝をすることが出来ません。夜昼に関らず一人は常に私のベッド際に付き添い、女性の様な温和さと優しさで私の手当てをしてくれました。

私の謁見(筆者注:徳川家定との謁見)の後ほどなく、外務大臣であり老中である備中守に会い、ここで記述できませんが重要な内容を話しました。会見は何時間にもわたり、非常に興味深いものでした。明らかに著しい印象を与え、私は最終的な成功という希望に向け、それを追って行くだけでした。この後私は日本人に国際法や政治経済を教え、そして通商の展開の仕方を説明しました。私には、彼らが西洋の政治形態を全く知らない事が分かりました。私の講義は長時間にわたり、退屈で困難でした。彼らに教えた知識は新しく、それを表現する語彙が無く、従ってその考えを伝えるに最良と思われる知られた事柄を引いて、多くの原理の意味を解説しなければなりませんでした。「需要と供給は互いに統制しあう」という原理は、彼らが理解に達するのに数日もかかりましたが、それは、国中の生産に関わる階級が、全て自由に選べる行為の原則そのものであるからであります。さて、この自由行為そのものほど、日本の考えと習慣に真っ向から相対するものはありません。あざ笑う程のチョットした全ての出来事にも、政府が全て指図します。私はひっきりなしに、無保護と言うよりは政府の一部の介入が、国家の生産に対する促進と発展の確実な方式である事を示しました。私はアダム・スミス( Adam Smith )と、そして私が覚えている限り全ての原理を例に引き、私の視点の堅固さの例として西側世界の幾つもの国々の状況を指摘し、この様な国々の相対的な繁栄は国民が享受する自由行動と正確に比例している事を示しました。

私が何ヵ月にも渡り、精神的な不安に見舞われた状況を貴方に説明する事は不可能です。私にはどんな助言者も手助けも居ませんでした。私には頼るべき良く揃った図書館もなければ、助けなしの私自身の記憶以外には、外に何も有りませんでした。何日にも渡る心配と不眠が続きました。やっと私の議論がほとんど実を結び始めた事が見え始め、これが私の新しい努力を生み、そして、終に (私の全ての議論が報告されていた)皇帝を動かし、全ての老中を動かし、多くの官僚を動かしました。これに続いて、私の古き友人、信濃守(筆者注:井上清直)と肥後守(筆者注:岩瀬忠震)とが私との交渉相手に任命されました。

我々の最初の会談で全権委任状が交わされ、彼れらの書面には言葉上では全権が充分に委任されていましたが、私の第二回目の会談が終わる前に、彼らは実際には仲介者で、現実として私は老中の全員と交渉をしている事が分かりました。

条約内容が漏洩する事になるので、私は貴方に交渉の細部を明かせません。通商を規定する各条項の交渉になった時、私は関税法( Revenue Laws )の歴史を教えねばならず、また、ごく細部に渡る税関規則にも触れ、その運用方法にも渡らねばなりませんでした。どんな論点の議論も、最終結論への到達には質問無しには済まされず、慎重に結論に達した後でも次の交渉時にまた新しく持ち上がり、それは前回には全く触れていないと言わんばかりの議論になり、こんな風に少なくとも三回、あるものは十回にも渡り、再議論にならない条項は一つもありませんでしたから私の更なる努力が必要でした。こんな交渉で私が前に行っていた貿易経験が役に立ち、そしてまた、最初に私がこの国に来た時からの日本人との交渉で体験した事も取り入れ、私の日本人に対するどんな言葉も特に注意して特別に正確にし、私の取ったどんな立場にも注意しましたが、一旦それが行われたら、それからの後退は全くしませんでした。(多方面に渡って悩み、またあきれる程の)交渉が進展するにつれ、私の努力で、究極的に私の最も楽観的な期待を遥かに上回る様な成功が成就する様に見え、私は嬉しくなりました。しばらくして条約文は合意され、清書すべく命じられました。

貴方には良くお分かりのごとく、条約が大統領に提出されその許可を得る迄は細部に触れる訳には行きません。ですが、その中の一つだけ貴方に知らせたいという楽しみを我慢できません。日本に滞在する全てのアメリカ人は自由に自分たちの宗教活動をする事が出来、教会を建てる権利があるという事になりました。十字架像を踏みつける行為は中止になりました。ご承知のごとく、二百二十五年前に二十五万人もの日本人入信者が血を流して日本のキリスト教は消滅し、当時の日本皇帝の冒涜的な布告が出され、その中で「若しキリスト教徒の神自身が日本に来れば、予は死を与える!」と言った事を思い出してください。この合意した結果は驚くほど満足の行くものだとお分かりでしょう。私は、これが我が国により達成されたという事実を名誉に且つ満足に思います。それは、しばしば我が同胞に対して「お前の神は金製で、お前の聖書は台帳の様な物だ」と言ったバークのあざ笑い( the sneer of Burke 、筆者注:スコットランド、エジンバラ、ウェストポート連続殺人事件の犯人・バークを指すか)への模範回答であります。こんな条約を合意出来た事の喜びは、それを勝ち取るために、私が少しも威圧や脅迫といった手段を取らなかった事の反映により、更に高められました。条約交渉前後の数ヵ月に渡る期間、私の周囲の一千マイル以内にはアメリカ軍艦は一隻も居ませんでした。私は日本人に対し初めから私の使命は友好的なもので、どんな威嚇手段をも取ることは許されていず、私の希望は、彼らに披歴する真実を聞いて欲しい事だ、と伝えていました。

私の第二回目の江戸行きまでは、江戸の街中や周囲を散策する事はありませんでした。私は多くの寺院や庭園などを訪れました。寺院はその構造や内装に目を引く程のものは無く、これに関しては、支那の寺院より金をかけず装飾品も有りません。しかし後者よりはるかに清潔に保たれています。寺院は通常景観の良い開けた土地にあり、立派な樹木で囲まれています。土地は小奇麗に保たれ、花をつける灌木や木々が植えられ、中には梅や桜が目立ちます。それらは沢山の花を付けますが、残念な事に、多くの目立ちたがり屋の様に、果実を付けません!全く素晴らしいシャクナゲがあり、ピンクや緋色、深紅色や青色、黄色や紫や白です。小型にしたり変わった形にした木々が多くあります。更に、枝葉をお皿のような形にも刈り込みます。私は、幹や枝を巨大なブロンズの皿付き飾り台の様に造り、葉っぱをエメラルドの皿に見立てた形にした多くの杉の木を見ました。

日本の家は木製で、二階建て以上はありません。屋根はわら葺か瓦葺きです。表と裏は木製の窓枠で、内部に心地よい光が入る紙でおおわれ、夜は木製の板戸で覆います。内部は木製の枠に紙を貼った引き戸により各部屋に仕切ります。この仕切り戸は直ぐ取り払え、家全体が一部屋になります。床は約二インチの厚さの畳で覆われ、畳は柔らかく良いもので、非常に奇麗に保たれます。椅子やテーブルや長椅子や寝台もなく、どんな飾りも見えません。畳は昼間の椅子やテーブルの役を果たし、夜はベッドになります。家のこの説明は、皇帝の住む宮廷から農夫の小屋にまで、全てに当てはまります。冬は炭を入れた火鉢で暖まります。国中には、一本の煙突もなく一枚の窓ガラスもありません。

雷紋を施した天井を支える飾り柱や、威厳をほこる城の金箔瓦など日本に関する古い著述に見える様な物は一切なく、日本人の説明では、「旅行者のおとぎ話」に出て来る様な日本の驚異に当たる様な物はかってありませんでした。

日本人の性質は本来和やかで、精錬された丁寧さの中に誠心誠意があり、彼らの誠意に納得します。日本人は全てに於て倹約家で、善良で賢者の良きジェレミー・ベンサム( Jeremy Bentham 、筆者注:英国人で功利主義の創始者)の標準通りの功利主義者です。食べ物は豊富にあり、安価です。日本の物乞いは殆どが僧侶で、皆アザラシの様に太っています。五十年配の日本人は一人として魚以外の獣肉を食べた事がありません。砂糖だけが贅沢品ですが、私はここ下田で、貴方がニューヨークで買う値段より安く買います。日本人は世界中で最も衣食住に恵まれ、最も過剰労働を強いられない国民です。神様が未来の世代はに何の後悔の種も残さない時代を約束したその時に、私は日本に到着したのです!日本の支配階級の通常の衣服は絹製ですが、私の皇帝との謁見式では、貴人たちは粗く黄色い草の繊維で作った衣装を身に付けました。彼らの言によれば、これは先祖の貧窮と倹約を象徴するものであります。日本で私は、ダイヤモンドや真珠や金銀の飾りを身に着けた人は誰も見ませんでした。

貴方は「女性」に興味があると思うので、日本の美女たちについて説明します。女性の事情は、(母親が嫁に行った娘を訪ねる以外)外出をしません。「五百人の親しい友人の集まり」はありません。彼女らの友人の行儀や道徳に関するお上の厳しいお咎めを受ける茶店の集会もしません。女性たちは年に一、二回、有名なお寺をお参りしますが、日常のお参りは家の中にある神棚か、敷地内に設けられた奇麗な ( Mia )ですませます。労働者階級の女は一部の戸外労働をしますが、支那や他のアジアの国の様に過労働はありません。一人の男が何人かの「第二婦人」を抱えるという一夫多妻はあります。女性が第一婦人に決まると「状況の変化」のため、歯を永久に黒くするだけでなく歯茎も一部傷め、時に唇をも永久に腫れ上がらせるほど恐ろしい合薬で染め上げます。次に眉をそり落とし、まつ毛を無くし、髪の形を変えます。彼女は今度は帯の結び目を前に持ってくる前帯だけにし、世間では、この人は第一夫人で、全ての「第二婦人」たちの司令官であり、家で生まれた全ての子供たちの文句ない後見人である、と一目で分かります。この最後の特典は、尊敬すべきアブラハム一族の妻たち(ラケル( Rachel )とレア( Leah ))が行使した権利と似ています。第二婦人たちははこんなばかげた行為(筆者注:お歯黒や眉剃り等)は行いません。従って唐人(To-jin)即ち外国人の眼には格別に見目好く見えます。着飾った婦人は ― ちゃめっ気のために創り上げましたが ― 記述に値します。その女性の顔は米粉で厚く塗り上げられ、その上に紅 ― 本当に紅色です ― で唇がちょっと薄紫色に見える上に奇麗に描くと、日本の恋人を詩的にさえ見せます。その着物は何層にも重なり、ぎこちなく、その帯の大きさはとほうもなく大きく、それで普通の女性の着物を作れる位です。その頭は、全ての音叉(おんさ)のお爺さんの様な形の金属の髪飾りで逆毛立ち、実に奇麗な足元は小奇麗な草履( straw sandal )で保護されています。彼女が歩く時は、まるで足が膝で縛られてでもいるかのように小刻みに歩きます。

かって私は、スマトラ島の若いマレー・ツマンゴング( Malay Tumangong )が恋をした若い少女の事を彼から聞いた話をしましたか?しませんでしたね。今お話しします。「ツアン( Tuan )」と彼は言いました、「ツアンという名の少女は胸が大きく丸顔で、頬に竜涎香(りゅうぜんこう)の様なホクロがあり、唇は切りたてのマンゴスチンの様で、その歯はチャムハカ( chamhaka )の花より白く、その吐息は妬みでチョウジノキが枯れる程だった。その髪は取り乱した恋人への別れの夜より黒く、その姿は柳の枝の様で、彼女が歩くと腰が左右にしなやかに揺れました!」。

江戸はロンドンより広く、人口はおよそ二百万人です。日本人が言うには、日本では人口調査などしたことが無く、集計表は格別な階級の人数により集計し、それらは支配層や農夫や商人で、女や子供はこの集計からは除外され、子女は人口集計の母数にも含まれません。日本人は私にこの都市の地図をくれましたが、縮尺に依ってはいず、小さく、幾つかの場所の方角が間違っていました。通りは一般的には充分の広さがあり、下水も良く流れていますが、舗装はされていません。馬車は見えず、何台かの手で引く荷車が重い荷物の運搬に使われていて、色々な方向に運河が交差しています。 江戸の主要な見所は「城郭」と呼ばれるものです。これは四つの入り組んだ円形か、むしろ多角形からなり、全て堀か溝で囲まれています。内側の三つの曲輪には石垣があり、即ち石で壁面を築いた土手で、その高さは、築かれた地面の形状により十二から三十フィートと様々です。壁を貫く入り口は五十から六十フィートの四角形の中庭に続き、出口は入り口から見て右側に位置します。防御の観点からすれば、弓矢で武装した襲撃軍に対する以外、城郭はその名前に比して価値がありません。堀は渡る事が出来、約八十から百フィートの幅で、良くできた木の橋が渡してあります。内側の曲輪は皇帝と息子や家族だけが住み、二番目は老中や高位の大名達で、三番四番の曲輪は大名や肩書の有る大名、政府の高級官僚たちです。私は、この国ではいかに簡単に大学者( sçavan )としての名声を手に入れられるかを書いて、この不当に長くなった手紙を終わりにします。ある日、丹波守と犬について話をしましたが、私は、犬の体の何処かに白い毛があれば尻尾の先端の毛は常に白い事を見て知っています、と言いました。丹波守はこの言葉に驚き、家に帰ってから近所に居る犬を調べさせたところ、私が言った通りでした。これに興味を持った彼は下僕に命じ、周りの道筋やお寺の廻りを探し回らせ、区域の住民を動員して調べさせたところ、みなその調査に合格しました。これに大感激した丹波守は、毎日400から500人の高級役人が詰めているお城で私の言葉と彼の調査を紹介しました。至る所で興味を呼び、江戸では今迄かって見た事もない様な犬狩りが続きまでした。地元で ジン( jin )と呼ばれる値段の高い犬から、こそこそ逃げ隠れする多くの野良犬まで、あらゆる種類の犬が調べ上げられました。それでも私の話した通り、犬の尻尾は合格でした。最後には、全般的な犬類調査を命ずる手紙が京都、大阪や他の大きな町にまで送られました。調査報告が上がってくると私の名誉と名声が最高潮に達し、私は、貴男方西洋人がビュフォン伯爵やキュヴィエ男爵やその仲間達( Buffon, Cuvier, & Co. 、筆者注:18、19世紀のフランスで大学者と尊敬された博物学者)を見る様に、日本人から見られる様になりました。

     常なる敬具を以て。
タウンゼント・ハリス     

ワシントン・ユニオン紙のコメント記事

このワシントン・ユニオン紙はまた第2面に、以下のごとき編集者のコメント記事を掲載している。いわく、

日本 ―― タウンゼント・ハリスからの手紙
本紙は別の場所に、日本皇帝に対する我が代表領事・タウンゼント・ハリス氏からの興味深い二通の手紙を掲載する。これらの手紙は個人書簡ではあるが、非常に価値があり、その内容が示す如く、今に至るまで全ての文明国にとり、日本についての封止された書籍とも言うべき非常に多くの情報をもたらすものである。ハリス氏の前皇帝との成功裏の交渉は、終には完全にこの帝国を、偉大なるキリスト教圏商業国家の範疇にもたらす始まりである事を証明するものであると信じる。日本政府の示した平静さは賞賛すべきであり、若し前皇帝が支配階級の公正な代表者と見なせるなら、今後最も有望な結果が得られるだろうと言う十分な希望がある。全くそれは、単に商業の拡張という問題のみではない。この様に長期に渡って知られず、技芸と製品において相当な洗練度に到達し、非常に友好的な性質を証明した人々は、冒険心ある我が同胞と利益ある貿易を提供する能力によって判断すべきではない。彼らに関する全ての情報は興味深く、価値あるものである。ハリス氏の手紙を提供してくれた友人に対し、義理を感ずるものである。

この様に記し、「単に商業の拡張という問題のみではない」と、広い視野を持って対処すべきである、との見解を述べている。

当時のアメリカでは東洋の果ての日本に関する情報は少なく、ペリー提督の日本遠征当時から、ニューヨークやワシントンの主要新聞に艦隊乗組員からの見聞・体験記などが時々掲載されていた。このハリスからの幕府の内情や庶民生活の一部に関する個人書簡は、かって無かったほど新鮮で具体的な実体験で、読者の期待に応えるものだったろうと思われる。ハリスはまたこれより約4ヵ月前に、ペリー提督に宛て筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) ても江戸に行った状況を報告する書簡をも送っている。併せて読む事をお勧めします。

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01/20/2019, (Original since 01/10/2019)