日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ロシアのアラスカ進出、レザノフの日本襲撃命令、アメリカのアラスカ買収  -  後編

5、北アメリカ大陸、北西部の攻防

 ロシアとスペインと、イギリス船やアメリカ船との競争

すでに本サイトの「レディー・ワシントン号、ボストン船の広東貿易」の中のボストン商人のチャレンジ注:戻りは、ブラウザーの戻りボタン使用)で書いたごとく、クック探検隊の記録では、カナダのバンクーバー島ヌートカ湾で6ペンスで購入したビーバーの毛皮1,500枚が、支那の広東で100ドルで売れたのだ。このクック船長のアラスカ探検時の1778年には、ロシアはすでに書いたように、ラッコを追ってアリューシャン列島のウナラスカ島やコディアック島にまで達していたが、クック探検隊もロシア人猟師・プロミュシュレンニキに出会っている。このクック航海日誌の情報に触発されたイギリス人やアメリカ人の冒険家が、ラッコやその他の毛皮を入手して広東に持ち込む商売をするため、バンクーバー島のヌートカ湾やアラスカのクック湾にやって来た。
クックの探検時から7年後の1785年には、早くも英国人のジェームズ・ハナがアラスカでラッコの毛皮を仕入れ、広東に持って行き2万ドルもの商売になったという。また1786年9月には航海用クロノメーターまで備えたジョーン・メアーズ船長のヌートカ号〔200トン〕がクック湾にラッコの毛皮取引にやって来たが、途中のアリューシャン列島の1島で、始めて、既に進出していたロシア人やアリュート人に出会っている。その他何人ものクック探検隊に関係したイギリス人たちが、ラッコの毛皮商売にチャレンジしたという〔"Almost a Hero", by J. Richard Nokes, Washington State University Press, 1998. P.8-12〕

最初のイギリス人探検家の渡航から3年後の1788年の8月半ば、最初のボストン船、レディー・ワシントン号がバンクーバー島に着き、それを追いかけるように僚船のコロンビア号も到着した。イギリス船に続きアメリカ船の参入も始まったのだ。ワシントン大学〔University of Washington〕の情報では、この後の26年間にアメリカ船は105隻もこの近辺を訪れたという〔Center for the Study of the Pacific Northwest, University of Washington. Lesson-3 chart. https://www.washington.edu/〕
前章に書いたように、レザノフがウナラスカ島からロシア皇帝宛に出した1805年7月18日付の正規報告書に「ボストンからは毎年15隻から20隻もの船が交易のため来航しており・・・」と書いていたが、このワシントン大学の情報でも、「1795-1804: 50 American vessels」と紹介しているから、アメリカ船は少なくとも毎年平均5艘は来ていたわけである。これらのアメリカ船は1ヶ所のみで交易したわけではなく、アラスカの何ヶ所も渡りあるいた訳だから、レザノフの情報で船が多いのもこんな理由もあったのだろう。

こんな状況を知ったスペイン海軍も、領有海域としている北米西海岸に無断侵入し毛皮取引をする外国船の取り締まりを始めた。スペイン海軍が警戒をする中の1789年6月、ヌートカ湾でスペイン軍艦に乗るマルティネス艦長が毛皮交易のイギリス商船・ノースウエスト・アメリカ号を拿捕する事件が発生した。これは上述のイギリスのジョーン・メアーズ船長所属の40トンのスクーナー型商船だったが、スペインは「貿易と航行の権利を侵害した」という理由で拿捕したのだ。ここでスクーナー船はスペイン海軍に没収され、乗組員はボストンから来合せていたアメリカのコロンビア号でマカオまで送られることになる。
メアーズ船長からこの拿捕の報告を受けたイギリス本国ではスペインとの交渉を始めたが、双方の主張が折り合わず、戦争の1歩手前まで悪化した。スペインにとって頼りにできるフランスは革命が始まったばかりで同盟国にならず、一方のイギリスがオランダやロシアと同盟すればヨーロッパ地域の戦争でスペインの勝利は見込めない情勢であった。そこでスペインはヌートカ湾近辺で大幅に譲歩し、相互の貿易や入植の自由を認め、1790年10月28日、ヌートカ条約が成立した〔"Almost a Hero", by J. Richard Nokes, P.165〕。こうしてヌートカ湾近辺のスペイン海軍の活動が低下し、バンクーバー島とそれ以北に平和が戻った。

さてこのころ、独立宣言の後に独立戦争を経て独立国家になって27年ほど経過するアメリカ合衆国は1803年、南北に長く伸びるルイジアナ地方の広大な土地をフランスのナポレオンから1,500万ドルで購入し、国土面積は一夜にしてほぼ倍増した。その後スペインも、カリフォルニア地域だけでなく内陸部の現在のテキサス州北部にまで勢力を伸ばし、アメリカがフランスから購入したテキサス州北部付近で権益の衝突が起こるようになった。そこで両国の交渉により、アメリカはそれまでスペイン領であったフロリダとテキサス北部を引き換えて国境を画定する「1819年のアダムズ=オニス条約」を結んだ。これは、現テキサス州北西部の西経106度近辺にあった当時の境界線を西経100度線まで500Km以上も東にずらして国境とし、太平洋岸のスペイン領北限を北緯42度線〔現在のカリフォルニア州の北限にあたる〕とするものであった。これにより、アメリカはカリフォルニア州北部の北緯42度線以北に位置するオレゴン地方に対するスペインの全ての権利を獲得したことになる。
このためアラスカから南下するロシア勢、南から北上するメキシコ勢、その間に割って入るエギリスとアメリカ勢が入り乱れていたヌートカ湾のあるバンクーバー島から南方のコロンビア河にかけての地域〔当時オレゴン地方と呼ばれ、現在のオレゴン州とは異なる〕が、このスペインの撤退で、ロシア、イギリス、アメリカ3者の争う地域に変化した。

こんな動きの中でロシア勢は1799年にバンクーバー島から北方にほぼ1,000Kmにあるバラノフ島に進出して砦を築いた。しかし間もなくトリンギット族に占拠され、バラノフが1804年に逆襲・奪還し、近くに新しく砦を築きノヴォ・アルハンゲリスク〔現シトカ〕と名付けた。これは、「3、レザノフ全権使節の長崎での失敗と、日本襲撃命令」(中編)に書いたように、レザノフが日本訪問の後、アラスカ視察にやって来た頃である。
この様にロシア勢を襲撃し撤退させたトリンギット族をはじめ現地住民は、ロシア勢にも負けない武器を持っていたのだが、当時多くの船で商売にやって来たアメリカのボストン商人は、毛皮との交換に弾薬や鉄炮、酒類などを大量に渡していたのだ〔"The Background of the Purchase of Alaska" by Victor J. Farrar, Washington Historical Quarterly, Vol XIII No 2, P.93〕
こんな原住民狂暴化の報告がロシア皇帝アレクサンドル1世に届いていたが、その対策として「1821年の勅令」の中で、アラスカのバンクーバー島のすぐ北に位置する北緯51度線以北で、海岸から100マイル〔160Km〕以内への全ての外国船の侵入を排除する命令を出した。これに異を唱えるアメリカとイギリスはロシアと交渉し、その結果、ロシアは500Kmほど北西のプリンス・オブ・ウェールズ島の南端に当たる北緯54度40分線まで後退する譲歩を示し、これ以南における如何なる権益主張をも放棄することに同意た。更に双方とも、現地人に酒類、武器、弾薬、などを与えないことに合意した〔"Leading American Treaties" by Charles E. Hill. New York, The MacMillan Co. 1922. P.253-254 〕。これが「1824年の露米条約」と「1825年の露英条約」である。

こうしてロシアとスペインという2強勢力の撤退で、アラスカから南下するロシア勢、南から北上するメキシコ勢、その間に割って入るエギリスとアメリカ勢が入り乱れていたヌートカ湾のあるバンクーバー島から南方のコロンビア河にかけての太平洋岸地域、すなわち当時の「オレゴン地方」が、アメリカとイギリスの2ヵ国の争いの場になってきたのだ。

 「ロシア・アメリカ会社」の新しい入植地、ロス砦の建設 ― 成功と閉鎖 ―

アラスカ経営の現地総支配人バラノフは、すでに書いたクルーゼンシュテルンの世界周航探検隊が本国を出港する1803年ころから、折に触れ、北アメリカ大陸西岸のアラスカからサンフランシスコ近辺まで南下する地域で適切な猟場や農業・牧畜入植地の可能性を調査していた〔History of Russian America. "Outpost of an Empire - Russian Expansion To America", by Stephen Watrous, Fort Ross c 1998, ISBN # 1-56540-355-X. "Establishment of the California Settlement".〕
そんな中の1811年、バラノフの命で探検に出た副官クスコフは、サンフランシスコ湾入り口からほぼ100Km北西の、現在フォート・ロス湾と呼ばれる地を新入植地の候補にした。ここは「湾」と呼ばれるほどの大きさではなかったが、水辺の台地には小さい砂浜もあり、土地柄もよく、木材資源にも近く、飲み水に使える川もあり、農場や牧場を開くには適当な場所であった。またスペイン領の要地サンフランシスコやその南のモントレーからも適切な距離を保ち、防衛上も適当な場所であったのでクスコフは、早速土地のインディアンと道具類の交換で土地を購入した
翌1812年、バラノフの命により副官クスコフは、大工を中心にした25人のロシア人、40艘のカヌー、バイダーカと数艘の大型カヌー、バイダーラを持った80人のアリュート人猟師などを引き連れ入植地建設に戻ってきた。早速ロシア・シベリア標準で、北西と南東の角の2隅に大砲を設置する2階建ての塔を配置し、先の尖った背の高い杭を植え付けた長さがほぼ100mの壁で4方を囲った中に、丸太で作った各種建物が建設された。木材は主にセコイヤが用いられ、完成式は1812年8月30日に祝われ、「ロス砦〔Fort Ross〕」となずけられた。ロス砦の完成後は、25人から100人余りのロシア人、50人から125人余りのアラスカ原住民がいて、季節により雇われた現地のカシャヤ族インディアンも働いていたという。ここは、いわゆるロシアが勢力圏と主張するアラスカ地区以外の場所に造った砦である。

砦の完成後はクスコフが初代責任者となり、砦の農園ではキャベツ、甜菜などをつくりシトカやアラスカ各地に出荷した。砦には管理主任の下に、各種職人、大工、鍛冶屋、桶屋、その他の職種を担うロシア人が集められていた。1821年以降はこれらのロシア人は、管理者の命令に従うこと、現地人や外国人と個人的な交易をしないこと、酔っぱらい行為などの悪行はしないこと、等々の規則を遵守する誓約のもとに7年契約で雇用され、サラリーが支給され、衣服や特別食品以外は会社支給になった。これは、1821年に出されたアレクサンドル1世の勅令内容に準ずるものであろう。
またアリュート族の猟師たちは収獲したラッコの毛皮の数に対して支払われ、猟に着るパーカーや靴、バイダーカを修理するトドの毛皮は会社から支給された。アリュート族の主な猟場はロス砦から90Kmほど南のファラロン諸島であったが、ここはサンフランシスコ湾入り口から西にほぼ45Kmにあたる。

アラスカ総支配人のバラノフは拡大するロス砦の存在に対するスペインとの領土問題の発生を恐れ、ハゲマイスター船長を砦に派遣して周辺を測量した地図を整備し、1817年に「ロシア・アメリカ会社へ土地を譲渡する」旨の証書が作成され、現地原住民の酋長チュグアン、アマットタン、ゲムレレ等の合意を取り付けた。その証書には、「酋長たちはロシア人によるこの地の占有に大いに満足している」ことや、「かつて彼らを襲撃していた他の先住民の脅威から逃れ、今は安全に暮らしている」ことが記されていたという〔"Outpost of an Empire", by Stephen Watrous〕。総支配人のバラノフはこのように、将来を見通して対処できる有能さを備えていた人物だった。

ロス砦はその後順調に事業を伸ばして来たが、1830年代半ば頃にはアリュート族の行ってきたファラロン諸島を中心にするカリフォルニア沿岸のラッコの狩猟数が激減してしまった。毛皮獣資源の枯渇である。たちどころに大幅赤字に落ち入ったロス砦の入植地では穀物生産量をふやすため、後年、ロス砦から15Km程南東のロシア川流域にも新しい農地を開き小麦生産を始めた。その他に、桃、ブドウ、リンゴ、ナシ、サクランボなども植えられ、メロン、カボチャ、キャベツ、甜菜、ジャガイモ、豆類などの農作物を多くを育てた。更に牛肉、乳製品を大量に生産しながら、狩猟から農業・畜産へと重点を移し生産量は順調に増大したが、期待通り会社の利益に貢献するほどの成果を上げるにはいたらなかった。1835年から1839年頃のロス砦入植地の収支は、年間平均45,000ルーブル程の赤字であったという〔History of Alaska. 1730-1885. P.483〕
1839年までにロス砦の活動は多岐にわたっていて、造船の試みもあり、蒸気で舟板を曲げるオーブンまでそなわっていた〔"Russian Colonization: The Implications of Mercantile Colonial Practices in the North Pacific." by Kent G. Lightfoot., Historical Archaeology 37, No. 4 (2003), "Corporate Hierarchy", P.19〕といい、短期的には目覚ましい成果もあった。しかし時が経つにつれて使用した木材が全て腐る問題〔History of Alaska. 1730-1885. P. 484〕も露呈し、工業製造品の製造取引も赤字を補填するほどの利益をもたらさなかった。

これはロス砦入植地事業の行きずまり状態である。農業や牧畜業では、アラスカにおけるロシア・アメリカ会社内への供給は大幅に改善されても、社外に販売して利益を上げられるラッコやアザラシの毛皮狩猟を補う代替事業にはならなかったわけである。 更にスペイン側は始めからロシアの造ったロス砦の所有権を一切認めず、砦ができた当時、南方のメキシコから北上しファン・デ・フカ海峡〔北米大陸の西海岸で、米国とカナダを隔てる海峡〕に至る海岸線全域における地域での領有権を主張していた。
重要な毛皮獣資源が枯渇し、農業や牧畜業ではそれを補う利益を出せず、造船や工業製品製造でも成功例が乏しく、スペインからロス砦の土地所有権が認められない。こんな八方ふさがりの状態の中でロシア・アメリカ会社の幹部取締役会は、毎年赤字を出し続け将来の改善が見込めないロス砦植民地を放棄する決定を下した。
ロス砦の閉鎖に当たってロシア・アメリカ会社は、全ての建築物、諸道具、材木、その他1,700頭の家畜類、940頭の馬、900頭の羊、などを当時カリフォルニアに入植したスイス出身で1840年にメキシコ国籍を取得していたジョーン・サッターに3万ドルで売却した〔History of Alaska. 1730-1885. P.489〕。サッターは購入物を内陸のサクラメントにあるサッター砦に運び事業を拡大したが、ロス砦は正式に1841年に閉鎖された。
このロス砦植民地閉鎖の1年ほど後に、テキサスの所属をめぐりアメリカとメキシコの摩擦が増大し、1846年の米墨戦争がはじまり、メキシコはテキサス地方を始めカリフォルニア州、アリゾナ州、ネヴァダ州、ユタ州、ニューメキシコ州などを手放し急速に力を失うことになるが、ここでは触れない。
土地所有権でメキシコと張り合い、毛皮獣の絶滅で経済的に立ち行かなくなったロス砦植民地の閉鎖は、ロシア・アメリカ会社の、ひいてはロシアのアラスカ経営の大きな方向転換を示唆する動きであったようだ。

皮肉にもロシア人が去ってから数年のうちに、放棄されたロス砦の跡地と内陸の渓谷を隔てていた丘陵地帯の向こう側で、金を含む砂利地帯が発見されたという〔"History of Alaska. 1730-1885". P.485-489〕。これぞ歴史の偶然というべきか。更に後の1848年、サッター砦の東に50Km程離れたアメリカ川岸のコロマにサッターズミルを建設中に金が発見され、カリフォルニアの金鉱ラッシュが始まる端緒になった。ロシアのロス砦はその閉鎖後に金と縁が出てきたが、少し遅かったようである。

 ロシアのクリミア戦争参戦とアラスカへの影響

さて1849年にカリフォルニアのゴールド・ラッシュが始まり数十万人もの人々が西部に押し寄せる中のアメリカでは、1852年11月24日、ペリー提督が蒸気軍艦・ミシシッピー号に乗り、日本開国に向け単独でノーフォーク軍港を出発した。そしペリー提督が香港に到着するころ、ロシアとオスマン帝国の4ヵ月におよぶ交渉が決裂し、両国は国交を断絶し、10月に戦争がはじまった。クリミア戦争である。世論が急速にロシア強硬論へと傾いたイギリスは、オスマン帝国と同盟を結んだ後の1854年3月28日、ロシアに宣戦布告をした。

そんな動きを敏感に察したアラスカでは、ロシア・アメリカ会社の代表者がカナダからその北方で操業するイギリスの毛皮会社のハドソン湾会社の代表者と接触を図った。そして両社は、自社が管轄する地域を中立地帯とみなすよう、それぞれの政府に働きかけることで合意した〔"Leading American Treaties", 1922. P.255 〕。そして「イギリス政府とロシア政府はこの要請を受け入れたが、その条件として、両社とも自国の政府による軍事行動にいかなる形でも協力しないことが求められ、この合意はすべての双方の当事者によって遵守された」という。関連海域を遊弋するイギリスの軍艦がアラスカのシトカ港に偵察に来たが、合意違反の証拠は見つからず、港への攻撃はなく他の被害も生じなかった。これでアラスカはひとまず安心できたがしかし、ロシア・アメリカ会社の管轄下にあったカムチャッカ半島のペトロパブロフスクとウルップ島のロシア人入植地では1854年9月、イギリス軍艦とフランス軍艦による砲撃が行われた。ロシア側は厳しく抗議したが、イギリス側は、それらの港が北米北西海岸には位置していないことを理由に攻撃を正当化したという。従ってアラスカにおけるロシア・アメリカ会社はクリミア戦争による直接の戦争被害はなかったが、イギリスやフランス軍艦は外洋でロシア商船攻撃も行ったから、オホーツクやカムチャッカ半島からの物流が止まり、アラスカでは食料不足にあえいだ。

このペトロパブロフスクへのイギリス軍艦とフランス軍艦による最初の砲撃・侵攻にたいする防衛は一時的に成功し、両国軍艦は退散したが、ペトロパブロフスクでは再度の攻撃に備えアムール河口へ全員の一時避難が行われた。当時下田の伊豆に来ていたロシアのプチャーチン使節が「安政の東海大地震」の津波に遭い、大被害を受けたロシア軍艦・ディアナ号を戸田浦に回航中に沈没し、急遽戸田村でヘダ号注:戻りは、ブラウザーの戻りボタン使用)を新造してペトロパブロフスクに帰って来た。しかしこの一時退去が終わったあとの港には数名の兵士がいただけである。全員避難を知ったプチャーチンは、直ちにアムール河口のニコラエフスクに向かい避難した。

ロシアはこんな経験を通し、ほぼ50年前までは上記のクルーゼンシュテルンの例にもあるように、ロシア海軍士官がイギリス海軍に留学する程の友好国で協調政策をとった関係国のイギリスは、今や最も警戒すべき敵対国あるいは仮想敵国になったのである。こうした変化が次に記述するロシアのアラスカ売却に大きく影響するが、このロシアとイギリスの関係は長く続くことになる。


6、アメリカのアラスカ買収

 アメリカ業者のベーリング海漁業資源開発要請と、アラスカ買収の初期提案

既に書いたように、ロシア皇帝アレクサンドル1世による「1821年の勅令」の中でアラスカのバンクーバー島のすぐ北に位置する北緯51度線以北で、海岸から100マイル〔160Km〕以内への全ての外国船の侵入を排除する命令が出された。これに強く抗議するアメリカはロシアと交渉し、その結果ロシアは、更に500Kmほど北西方向に位置するプリンス・オブ・ウェールズ島の南端に当たる、北緯54度40分以南における如何なる権益主張をも放棄することに同意した〔1824年の露米条約。これはしかし、北緯54度40分以北では引き続き外国船排除になっていたのだ。

こんな中で1846年の米墨戦争のあとアメリカの所有になったカリフォルニア州への入植者が増え、1849年からの金鉱ラッシュのため更に数十万人がなだれ込み、人口増加に従って経済活動が盛んになり、多くのビジネスが活況を帯びた。1853年以降に準州になったワシントン準州で増加する漁業関係者は、既に判明していたアラスカ沖の豊かなサケ、タラ、大型カレイ漁場での操業権を強く求めていた。また当時海底電線の敷設も計画され、ウェスタン・ユニオン電信会社のアラスカ、ベーリング海経由ヨーロッパへの通信ケーブル敷設事業計画が進んでいた。更には金鉱ラッシュの人たちに向けた食料品や飲み物の冷蔵用に、アラスカ産の氷を買い付ける企業もあったという〔"Leading American Treaties". P.257 〕
こうしてアメリカ国内の北西海岸でアラスカへの注目が高まる中、カリフォルニア州選出のウィリアム・M・グウィン上院議員は、資源の豊富な北方海域で漁業を立ち上げる計画を練っていたジョセフ・L・マクドナルドといった西海岸の実業家たちと、熱心に協議を重ねていた。

グウィン上院議員は1859年の暮れ、アメリカのアップルトン国務次官補と共にワシントンD.C.でロシア公使のエドゥアルド・デ・ストックルと非公式な会談を行い、ロシア領アラスカに対して500万ドルという最初の買収案を提示した〔"Joseph L. McDonald and the Purchase of Alaska.", Washington Historical Quarterly, Vol. XII, No, 2. April, 1921. P.84 〕。この提案は当然、当時のキャス国務長官も承知していたことであろうし、あるいはまた、ブキャナン大統領もロシアの反応を知りたかったのかもしれない。ロシア公使ストックルは本国にこの状況報告をしているが、ロシア国内の反応は次の「ロシアの状況」で記述する。

このカリフォルニア州のグウィン上院議員については、日本とつながるエピソードがある。ジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵注:戻りは、ブラウザーの戻りボタン使用)の自伝の記述によれば、いくつかの出来事のあと、このグウィン上院議員と出会い、アメリカ国務省での仕事に就けるよう手配してみようという約束で、秘書としてニューヨーク経由ワシントンD.Cに同行した〔"The Narrative of a Japanese", by Joseph Heco. edited by James Murdoch, M.A., Vol.1, P.135-150〕。それ以前にも面倒を見てもらったサンダース氏と共にピアース大統領に会っていたが、グウィン上院議員と共にホワイト・ハウスに行き、ブキャナン大統領にも面会した。残念ながら国務省付属の仕事には就けなかったが、アメリカに帰化し、1859年にタウンゼント・ハリス公使にアメリカ横浜領事館通訳として雇われ、横浜に帰国できた。

 ロシアの状況

ロシア皇帝の勅許により独占権が保証された「ロシア・アメリカ会社」のアラスカ運営は、独占権によりロシア国内の競争相手を排除したが、会社が領土を所有したものではなく、また外国人との競争は排除されていなかった。既に書いてきたように、こんな条件下でイギリス商船やアメリカ商船と現地人との取引が活発になり、ロシア・アメリカ会社との競争が激化し、レザノフもウナラスカ島から皇帝宛に出した正規報告書で嘆いたように、会社の大幅な収益低下を招いていた。
「ロシア・アメリカ会社」は勅許会社になった初期から現地の総支配人はアレクサンドル・バラノフであり、バラノフの引退後の1818年から現地総支配人はロシア帝国海軍の軍人から選ばれた〔"Russian Colonization" by Kent G. Lightfoot. P.18〕。この様に現地総支配人はロシア帝国海軍の軍人が任命され、軍艦を動かす主要な海軍士官もロシア海軍からロシア・アメリカ会社に移籍したが、昇格などはロシア海軍籍であった。ロシアのアラスカはこうした組織のロシア海軍によって守られていたが、海軍士官人件費の半分はロシア・アメリカ会社の負担であった。

1853年〜1856年のクリミア戦争を境に、ロシアとイギリスの関係がそれまでの友好国から敵対国、仮想敵国の関係に悪化し、ヨーロッパにおいてロシア対イギリス・フランスの対立になったことはすでに書いた。
ロシアはクリミア戦争後、1853年の太平天国の乱や1856年から1860年のアロー号事件に関わる戦争で混乱・疲弊していた清国と列強との仲介をすることを約束し、1858年5月28日に清国からアムール川北側の領土を割譲する「愛琿条約」を結んだ。この地域は昔、1689年、ロシアがシベリアを東進しその途中で進出していた全てのアムール川流域に対する権利要求を取り下げ、平和的に清国の領土として認め、「ネルチンスク条約」を結んであきらめた地域であったが、ついにその地を手に入れたのだ。更に1860年に英仏連合軍と清国とのアロー戦争の講和仲介をし、その代償に太平洋側のウスリー川の東側の沿海洲をロシア領土に編入する「露清北京条約」を結んだ。この地方はロシアが長らく望んでいた、不凍港を通じ太平洋方面に出る窓口であり、何にもましてロシア本土と陸続きである点である。
ロシアはこのイギリス・フランスと対立する立場を最大限に活用し、広大な領土を占有することになった。これはそれまでのヨーロッパにおいて進めてきた南下政策を、中央アジアや東アジアへの進出に向けたものだ。

更にロシアは1853年〜1856年のクリミア戦争で膨大な戦費を借入金で賄ったが、1856年3月30日にパリ条約が成立し、終戦になった。その後ロシアは借入金の返金に苦しみ、大幅な技術力の遅れを認識した中で、若しイギリスが近い将来アラスカを攻撃するような事態が発生したら、それを守る困難さを実感していたという。アラスカでは隣接するイギリス領があるから、これは切実な問題点であったに違いない。

さてロシア国内では、アラスカ売却の真の推進者は皇帝アレクサンドル2世の弟、コンスタンチン大公であった。1857年3月23日、大公はゴルチャコフ外務大臣宛てに書簡を送り、ロシア領アメリカの土地をアメリカ合衆国へ譲渡するよう強く提言したが、その理由として挙げたのは、(1) ロシアにとってアラスカ植民地の価値が乏しい、(2) ロシアは深刻な財政難に直面している、 (3) アメリカ合衆国が太平洋地域における自国の領土を完結させるために、アラスカの土地を必要としていることの3点であったという。ロシアのストックル公使はまた1857年11月に、ロシア側の「1824年の露米条約」の厳しい適用について、アメリカ西海岸では強い不満が出ていることを報告していた。この報告を知ったコンスタンチン大公はゴルチャコフ外務大臣に更に強い意見を述べ、アラスカへの調査委員の派遣を提言したたという。ゴルチャコフは返答の中で、「委員会設置の提案には同意したものの、即時の売却については難色を示した。第一に、それは会社に対して不公平であること、そして第二に、仮に売却を行うとしても、その主導権はロシア側ではなく、米国側が握るべきである」というのがゴルチャコフの主張であった。彼は大公に対し、「ワシントン側からの売却提案を引き出すようストックルに指示すること、また、会社の勅許契約が満了する2年前の1861年までには、資料収集のためにアラスカへ委員会を派遣すること、そして、それらの手続きを経て初めて政府として具体的な行動に移れるようになること」を確約していた〔"The Purchase of Alaska." by Frank A. Golder, The American Historical Review, Vol. 25, No. 3 (Apr., 1920). P.413-414 〕。アラスカの買収はアメリカ側から持ち出すべき話であり、そうしなくては交渉の主導権を握れないということであろう。

この様にロシア政府内でも活発なアラスカ処分について意見交換があったわけだが、ゴルチャコフ外務大臣の見解は、「提示された500万ドルという金額はあまりにも不十分であり、植民地の真の価値を大きく下回る」ものであった。そこでゴルチャコフはストックルに対し、交渉を一旦保留し、アップルトン国務次官補とグウィン両氏に対しては、提示価格の引き上げが必要である旨を伝えるよう指示した。その間にレイテルン財務大臣が調査団をアラスカへ派遣し、現地の実情を調査・報告させることとし、将来のアラスカ政策はこの報告書に基づいて策定することとしたのである。

ロシア国内でこうした「待ちの姿勢」に転じている間に「ロシア・アメリカ会社」のアラスカ事業の実績はますます悪化し、1854年におよそ500ルーブルの価値があると評価されていた株式も、1866年には75ルーブルという価格であっても買い手がつかない有様であったという〔"The Purchase of Alaska." by Frank A. Golder, The American Historical Review, Vol. 25, No. 3 (Apr., 1920). P.416-417 〕
ここまで業績が下落した「ロシア・アメリカ会社」を見たレイテルン財務大臣は、ロシアに帰国していたストックル公使に会い、アメリカがまだアラスカを購入する意思があるかを打診した。コンスタンチン大公もまた、同様にストックルにアメリカの意向を尋ねた。ストックルは何れの問いに対しても、可能性はあると答えていたが、コンスタンチン大公とレイテルン財務大臣は直接皇帝アレクサンドル2世のもとに参上し、状況を上奏した。そこで皇帝は、ゴルチャコフ外務大臣兼宰相にアラスカ売却の検討を命じたという。
ゴルチャコフは12月上旬、コンスタンチン大公、レイテルン財務大臣、ストックル公使に対しアラスカ処分の最善の解決策を書面で提出するよう求めた。コンスタンチン大公の意見は「植民地はアメリカ合衆国に譲渡し、ロシアはその国力をアムール川流域の開発に注ぐべきである」。レイテルン財務大臣は「アラスカを売却するという点において、大公の意見に賛同」。ストックル公使は「ロシア領アメリカは米露両国間の火種となり得る存在であり、これを早急に手放せば手放すほど事態は好転する」というものであった。
12月16日に宮殿で開かれた会議には、前述の人物全員が出席した。レイテルンは「ロシア・アメリカ会社」の逼迫した財政状況について詳細に説明を行った。続いて全員が参加して議論が交わされ、最終的にアラスカ植民地をアメリカ合衆国へ売却することで合意に至った。この決定が下されると、皇帝はストックル公使の方を向き、ワシントンに戻ってこの取引を締結するように命じた。コンスタンチン大公は国境線が記された地図をストックル公使に渡し、財務大臣は彼に、500万ドルを下回る額は受け取らないよう告げた。ストックルに与えられた指示は実質的にこれだけだったという〔"The Purchase of Alaska." by Frank A. Golder, P.417-419 〕

 アメリカのアラスカ買収提案、交渉の駆け引きと決着

アメリカ国内では米墨戦争のあと、1848年に新しい領土となったカリフォルニアを奴隷制のない自由州とするか奴隷州とするか大きな論争となり、南部諸州の連邦脱退論までも出てきた。当時、テイラー大統領の急逝により副大統領から昇格したフィルモア大統領は、1850年9月、カリフォルニアを自由州にする代わりに、逃亡奴隷法を強化し逃亡奴隷を逮捕する、すなわち「1850年の妥協」と呼ばれる妥協案で国を2分しかねない連邦脱退論を鎮めた。こんな一時的な挙国一致のもと、ペリー艦隊を日本に派遣できるほどの政治安定期を作った。しかしその後再びサウス・カロライナ州、フロリダ州やミシシッピー州など南部諸州の不満が強まり、ついに南部11州が連邦を脱退しアメリカ連合国、即ち南軍を持つ国家を造った。1861年4月12日、南軍が合衆国側のサムター砦を砲撃し南北戦争が始まった。この戦争の結果はよく知られているように、南北両軍の兵士50万人もの戦死者を出した戦争も1865年4月9日、工業力に勝る北軍即ち合衆国側の勝利に終わったのだ。

南北戦争も終わり落ち着きを取り戻したアメリカに向かったストックル公使は1867年2月上旬ニューヨークに到着し、アメリカ政府側から最初の一手を打たせるための地ならしを行った。彼はスワード国務長官の政界における友人の一人に接触し、その人物を通じスワード国務長官にアラスカの価値を強く印象づけるよう工作した。3月上旬にワシントンに到着したストックル公使は、慣例に従い国務長官を表敬訪問した。いくつかの些細な懸案事項につき意見を交換した後、スワードは本題に入り、ロシアがアラスカをアメリカに売却する意思があるかどうかを打診してきた。ロシア側の思惑通りアメリカ側が最初の一歩を踏み出したのである。
その後、会話はより円滑に進み、二人はこの領土の譲渡が双方にとって有益であるという点で合意に至った。そして、この件についてさらに深く踏み込む前にスワード国務長官は、暗殺されたリンカーン大統領の副大統領から昇格したアンドリュー・ジョンソン大統領に面会して意向を確認することになった。その数日後に二人が再会した際、国務長官はやや歯切れの悪い様子で、大統領はこの件にさほど乗り気ではないものの、最終的な判断は閣僚たちの判断に委ねる意向であるといった。スワードは閣僚たちに諮問し、彼らはスワードに交渉を行う権限を付与したという。
次回の会談において両名は具体的な方策についての協議に入ったが、スワードは、本件は機密を要する行政上の措置であり、この件を処理するのは自分すなわち行政の役目であると伝えた。またストックルが、米国の上院がこの買収条約を批准するかどうかについていくぶん懐疑的な姿勢を見せたが、スワードは、その点に関しては何ら支障はないと断言したという〔"The Purchase of Alaska." by Frank A. Golder, P.419-420 〕

次の論点は価格であった。スワードの最初の提示額は500万ドルであったが、ストックルが冷ややかな表情を浮かべるのを見て、彼はさらに50万ドルを上乗せし、これが自身の提示し得る最大限の額であると付け加えた。ストックルは首を横に振り、700万ドルを要求したという。
3月6日付のロシア本国への報告書の中で、ストックル公使はゴルチャコフ外務大臣兼宰相に対しそれまでの交渉の進捗状況を伝えた。その中で彼は、「600万ドル、場合によっては650万ドルまでは引き出せる見込みであり、今後2週間以内に最終的な報告ができるだろうとの見通しを述べている」という。
その後の1週間の間に、二人はおそらく2、3度再会した。スワードがあまりにも熱心に購入を望んだため、ストックルはその足元を見て一向に価格を下げようとはしなかった。国務長官は、これ以上は限界だ、大統領や閣僚会議からの指示をすでに逸脱していると毎回主張しながらも、次々と50万ドルずつ上乗せしていった。しかし、公使はあくまでも700万ドルという金額にこだわり続け、最終的には数名の有力者の仲介のおかげで、その金額を確保することに成功したのである。
ストックル公使は本国からの電報により、代金の支払いをロンドンで行うこと、および米国が露米会社の特定の債務を引き継ぐことを要求するよう指示されていたが、しかしスワード国務長官はこの条件を受け入れようとはしなかった。最終的に、両者の間で妥協が成立し、スワードは為替差損を補填するために20万ドルを上乗せし、一方のストックルは債務引き継ぎに関する条項を撤回し、ロシアのアラスカ領土を「いかなる留保、特権、特許、譲渡等によっても拘束されない、完全に自由かつ無負担な状態」で割譲することに同意したという〔"The Purchase of Alaska." by Frank A. Golder, P.420 〕
ストックルはアメリカの好意で本国のサンクトペテルブルクに電報を打ち、4日後、「皇帝は700万ドルでの売却と条約への署名を承認した」という返信が届いた。3月29日から30日にかけての夜、条約は最終版にまとめられ、国務長官とロシア公使によって署名された。これはスワード国務長官が議会が休会になる前に決着を付けたかったからだという。それまで秘密裏に進んだ交渉の結果、当初の上院議会には突然の条約締結案に不賛成を標榜する議員もかなりいたという。しかしアメリカ側がロシア側を交渉の場へと引き込んでおきながら、最終的に条約を批准しないなどということがあれば、それは米国にとって恥辱であり、ロシアに対する侮辱に他ならないという意見が多数を占めるようになり、4月9日に行われた最終採決において、37名が条約批准に賛成票を投じ、反対票を投じたのはわずか2名にとどまったという〔"The Purchase of Alaska." by Frank A. Golder, P.421 〕

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07/06/2026, (Original since 07/06/2026)