日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

将軍後見職・一橋慶喜、一人宙に浮いた格好で孤立

一橋慶喜自身が文久3年5月24日付で関白に提出した、将軍後見役辞任の理由説明はこうだ。

「力も無い私が当(将軍後見)職に留まることは大変申し訳なく、辞任のお許しを願っていますが、攘夷が進まない理由とその後の経緯を申上げます。

4月22日京都をたち26日熱田に着いたところ、上京途中の目付・堀宮内に会い、(イギリスへ生麦事件の)償金を渡すことに決定したとの報に接した。びっくりし、償金は決して支払うなと江戸の老中へ命じた。それでも心配で、尚また家来を浜松より図書頭(ずしょのかみ、老中格・小笠原長行)に大急便で遣わし、償金は渡すべからず、拒絶の談判にすぐ取り掛かれと命じた。しかし何の返事も無く心配で、8日神奈川宿に来たところで奉行の浅野伊賀守と山口信濃守を呼び出し、イギリスの状況を尋ねた。彼等の報告は、先日償金を渡すとの書面をイギリス人へ渡したが、私(慶喜)が出した差し止め命令により3日朝、図書頭より償金を渡すなとの命令が出て、2人がその旨イギリス側に伝えた。イギリス側はたいそう立腹し、当方にも考えがあるから最早閣老にも会わないと通達し、戦争を始める模様になった。フランス人に頼んでみたが、今晩にも戦争になろうからと何の助けも得られなかったという。

そこで、拒絶の件も強硬に談判すべきだとの件を話したが、2人は怒りを満面に表し、なぜ貴方(慶喜)が攘夷など約束し帰ってきたのかと詰め寄ってきた。朝廷のお考えを説明し、第一に征夷大将軍という証も立たず、将軍家という身の上のためにもよく考えよと話した。彼等は、将軍家はどうなろうと皇国のための問題には替えられないと言い張ってやまない。この上貴方が攘夷を主張するなら刺客の害にあい、命にもかかわるとまで言ってきた。これはどうした事かと不審に思ったが、更に図書頭が上京するとのことで、まだこの辺りに居られるはずだとのことだった。後で分ったが、図書頭は独断で償金をイギリスに渡したとのことだった。

この日奉行と会い彼等が引き取ったのは七つ時過ぎ(午後5時半ころ)だったが、江戸には9日着の予定のところ、江戸の様子が心配で川崎宿には泊まらず、近習だけ連れてその夜四つ時(午後10時半ころ)帰り着いた。翌日登城し老中や役人を集め朝廷のお考えを説明し、拒絶の件も話し、将軍が拒絶を約束した件も私へ下した全権委任状まで見せ説明した。しかし役人一同は、皇国のためにならないからお受けできないと言い張った。再度それでは天勅君命に背くことになると諭したが、攘夷は将軍家のためにも皇国のためにも良くないからお受けできないが、ぜひとも攘夷をなさるなら、もうそれは知ったことではないとまで云い、取り合う者は誰も居なかった。

その後噂を聞いたが、諸役人の中には私の心まで疑っている者があり、色々取りざたしているという。また私が何かを企んで攘夷を主張していると嫌疑をかけられているという。また度々横浜で人払いの上会っていたので、なにか悪だくみがあるという噂もある。こんな雑説を気にかけるわけではないが、諸役人の心底も分らないため、まず図書頭を横浜より呼び戻し、長崎や箱館はさておき横浜鎖港談判を始めるべく命じた。

私は重大至難の攘夷をお受けしてきたが、情勢は開国論でなければ通じず、早々上京して建白するよう老中や諸役人から言われている。ではその考えを書面にして提出せよと命じたが、12日以来今日まで誰一人出すものもいない。これは、皆が私を疑っていることに違いないと思う。天皇のお考えを貫徹しようと今まで最大の努力をし、当職に留まってきたが、攘夷どころか人心の掌握さえ出来なくなった。

前便で申上げたごとく、何卒辞職をお許しくださるよう、ひとえにお願い申上げます。」

慶喜はこれ以降も再三再四辞職を願うが、この時朝廷の許可は出ていない。

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07/04/2015, (Original since 03/09/2008)