日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

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5、開港と攘夷行動

神奈川開港と外交官の江戸駐在

♦ 神奈川か横浜か

前章「初めての遣米使節」から読み続ける読者には少し後戻りする記述になるが、安政5年に調印したアメリカ、イギリス、ロシア、オランダ、フランスの5カ国との修好通商条約は、ハリスが条約交渉中に井上信濃守などに再三云っていたように、アメリカ条約を見本にしたほぼ横並びの内容になった。開港場所について5カ国条約の日本文を細かく読めば、例えば第3条にある神奈川開港の記述は各国で少しずつ違いがある。これはただし、オランダ条約だけは第2条に書いてあるが、アメリカ、オランダ、ロシアは「神奈川港」を開き、イギリスは「神奈川港と町」を、フランスは「神奈川港と村」を開くことになっている。開港日についてはイギリスとロシアが1859(安政6)年7月1日、アメリカとオランダが7月4日、フランスは8月15日である。

アメリカの7月4日は、ハリスが特にアメリカの独立記念日を意識し選んだもので「愛国心」を強調したかったのだろう。独立後まだ80数年しか経っていない新興国家のアメリカが、歴史あるヨーロッパ勢に先んじて最初に日本を開国したという誇りの象徴であったのだ。


東海道名所之内横浜風景、五雲亭貞秀画印、万延元年3月
Image credit: 東京大学史料編纂所所蔵

日本とアメリカの通商条約が安政5(1858)年6月19日に調印され、ハリスは下田に帰ったが、日本側は早速開港地の詳細検討に入り、外国奉行・永井玄蕃頭(げんばのかみ)や岩瀬肥後守、井上信濃守などが8月4日に現地を調査した。大老・井伊直弼との最終調整で、井伊は交通量の多い東海道にある神奈川に夷人が居留する事は問題があると主張したが、条約をハリスと交渉した外国奉行たちはその交渉過程から、今さら横浜とはいえないと主張した。これは、ハリスとの条約交渉中、日本側はいったん横浜は神奈川に含まれるとハリスに回答しておきながら、後に強引に横浜は神奈川には含まれず、神奈川だけ開港するとしてしまっていたのだ。従って今さら、「神奈川は不都合だから横浜にする」とは言えないというわけだ。しかし結局は、条約交渉中にハリスが品川開港を主張したとき、海が遠浅だということで納得した経緯もあり、今回も井伊直弼の主張通り、神奈川は遠浅だからという理由で横浜にする同意を求めることにした。これがハリスと後々までもめることになる。

ハリスは貿易施設を造る開港場所特定のため、12月18日幕府派遣の蟠龍丸に乗り下田から神奈川にやって来た。日本側からも外国奉行・永井玄蕃頭、同・井上信濃守、同・堀織部正(おりべのかみ)、目付・加藤正三郎なども現場に出向き、3日ほどかけ一帯を見分し、細部決定の交渉に入ることに合意した。

翌年2月1日からこの実地検分情報をもとに永井と井上がハリスと神奈川で会談し、井上や岩瀬らが井伊と調整・合意した通り、「神奈川は遠浅だから」と横浜村に貿易用の港湾設備や居留地を造るべくハリスの同意を求めた。ハリスは、横浜は船付きの便利も良く建物を建てるにも良い場所だが、条約には「神奈川開港」となっている。陸路で横浜から神奈川まで2里もあり、途中に山や川があって往来に難渋するから同意できないと頑強に拒否した。日本側は、良い道を付け、切り通しを作り、川には頑丈な橋を架けると約束したが、とにかくハリスは、東海道沿いでないからだめだとはねつけた。こんな押し問答の交渉が延々と6回も続いたが遂に決着がつかず、2月14日の交渉で、開港日になったらまた話し合おうと物別れに終わった。上述の如く、条約交渉中に日本側に押し切られた神奈川・横浜問題で、今度はハリスが日本側の言い出した横浜を頑強に拒否し、その仇を討った格好になったわけだ。

結果的に、この交渉延期は日本側にとってまたとないチャンスだった。ハリスとの合意が出来ていなくとも直ちに横浜に運上所を作り、波止場を作り、商家を作り、立派な道を付け、頑丈な橋も架け、外国人向けのお茶屋まで作り始めた。開港日までのたった3ヶ月足らずで、貿易の町、横浜が突然出現してしまったのだ。幕府のやることで、これほど素早かったことは他にあまり例が無さそうである。


神奈川の丘の上の、アメリカ領事館・本覚寺山門
Image credit: 筆者撮影

日本側が東海道から少し離れた横浜に港湾設備と運上所や商家を建て始め、外国人居留地区も指定し、3ヶ月足らずで「貿易地横浜」が出現し始めると、安政6(1859)年6月1日公使に昇格し上海から神奈川に戻って来たハリスは大いに不満をつのらせた。そして日米修好通商条約のみならず、この日英通商条約にある「神奈川港と町を開く」という記述に照らしても違約であると、イギリスとの条約まで持ち出して反対し幕府に迫った。アメリカと日本との条約中に、イギリスやフランスのように「神奈川港と町を開く」としなかったことを後悔したのかもしれない。ハリスやオールコックといった駐日公使たちは一緒になって、条約に神奈川と記述されているから、横浜に設備や町を造り貿易港にすることは条約違反だとその都度幕府に抗議した。

たまりかねた幕府も一応譲歩し、神奈川の町に公使館や商館を建てる地域を割り付けた。しかし現実問題として神奈川港には大型の船が近寄れず、早々に商館を横浜に建ててしまった各国の商人たちは誰も横浜から動かなかったから、さすがのハリスやオールコックにも打つ手がなかった。商人たちの中には「神奈川と横浜が開港されたと考えれば何も問題ないではないか」、とさえ云う人たちも居たくらいだった。

江戸に近い横浜は港への出入が容易で、幕府の準備した機能にも恵まれ、たちまち貿易主要港になる。アメリカやイギリスの商人たちは、早速幕府の造った桟橋や運上所に接した海岸に沿って土地を求め、倉庫や事務所を造り、日本町と一体となり貿易の町に変身した。アメリカは日本が横浜に建てていた領事館用の建物を嫌い、ドール領事の選定で神奈川の横浜港を見下ろす丘の上の本覚寺を借りて領事館を開いたが、意地でも横浜には行かないぞというハリス公使とドール領事の強い意思を表示しているかのようだった。

♦ 公使の江戸駐在と他の開港場

日米修好通商条約の第1条に、外交官すなわち公使などの江戸駐在が明記されている。この第1条は唯一といって良いほど、公平に平等に書かれた条項である。すなわち、日本政府が任命する役人をワシントンに駐在させ、アメリカ国内の旅行も自由である。アメリカ政府も江戸に駐在する外交官を任命し、日本の各開港地に領事を置き、外交官あるいは総領事は職務上日本国内の旅行は自由である、という双方向性のあるものだ。

ハリスの上府と将軍謁見の要求と共に、外国外交官の江戸駐在は、ハリスから通商条約原案が出されると最も反対の大きかった事項の一つである。とにかく江戸や京都といった中枢都市に夷人が入ってくる事は、「人心の折り合い」から最も避けたいことの一つだった。条約交渉中の井上や岩瀬に、日本は人心の折り合い上、全てを急がず「漸」を以って臨むと云わせたものだ。皆が理解を示すまでは、急いで江戸に夷人を駐在させないという意味だ。日本側のこの論理を切り崩し外交官の江戸駐在を認めさせるため、アメリカのワシントンにも日本人を駐在させるから、江戸にもアメリカ人を置かせるという決着だった。

 
東京都港区元麻布1丁目のアメリカ公使館を置いた善福寺本堂と境内のタウンゼント・ハリス記念碑
Image credit: 筆者撮影

この様に、とにかく外国公使を江戸に駐在させる基本合意はできたが、何時から駐在を許すかで交渉は難航した。安政4(1858)年12月12日の蕃書調所での交渉で、一刻も早くと迫るハリスに、井上や岩瀬は少なくとも3年後でなければ人心は折り合わないと粘った。ハリスは、3年後などとは不誠実極まりない言い方だ。単に時間を稼ぐだけで、人心の折り合いなどとは程遠い。やはり日本人は1日も早く外国人を見て、それに慣れることが先決だとまくし立てた。

井上と岩瀬は、では3年後と條約に明記しなくとも「貴殿の手心で延ばせないだろうか」と、典型的な日本流で決着を図ろうと試みた。ハリスは、「では1861年1月以前には赴任しないよう自国政府に書き送ります。信濃守様ご承知の如く、私の言に違約はありません」と請合った。しかし実際は、それからたった1年半後の安政6(1859)年6月1日、ハリス自身が公使に昇格して神奈川に戻って来た。これを知った老中・間部(まなべ)下総守がハリスに、公使派遣時期について条約交渉時と約束が大幅に違うが、その違反理由を知りたいと書簡を送った。ハリスは「その件は、1年以上も前に約束通り私が書面に認めワシントンに送ってあります。我が政府がなぜ公使を早く送ったのか、私には理由は分からない。條約も整い開港時期が来たので、公使が居なくては差し支えるとの判断からでしょう」と返答した。これはしかし、自分は約束道り書簡をアメリカ政府に送っているから少しも約束を違えていませんよ、と言ったわけだ。もともと正規の外交官教育も無いハリスからさえこの通り手玉に取られた当時の幕閣や交渉委員には、手も足も出ない外交の世界だったようだ。

第3条には、下田、箱館、神奈川、長崎に続く開港場を1860年1月1日から新潟、1863年1月1日から兵庫と定め、開市場を1862年1月1日から江戸、1863年1月1日から大阪と定めた。そもそも、下田は不便だからもっと便利な場所で交易したいというハリスの申し立てで、老中・堀田正睦(まさよし)が検討の約束をしていたから、條約には1859年7月4日に神奈川を開港しその6ヵ月後に下田を閉じる合意になっているが、各開港場にはアメリカ人の居留を認めた。井上や岩瀬はハリスとの交渉時、やっとの思いで京都に近い大阪や兵庫の開市や開港時期を「漸を以って」と交渉時点から3年以上も先に引き延ばしたが、それでも人心は簡単に折り合わず、この新潟、兵庫、大阪の開港・開市を攘夷運動の顕在化と共に延期交渉をせざるを得なくなる。それどころか、朝廷を初めとしますます攘夷の気風が蔓延したのだ。

♦ 開港場の境界線

開港場にアメリカ人の居留を認めたからには、彼らが土地を借り、家や事務所、倉庫などを建てることにも合意し、第7条に居留する外国人が勝手に出歩ける区域の設定もなされた。基本的には、ペリー提督と結んだ和親條約にある1日で行ける距離の7里を念頭に、居留者は長期滞在者ということで10里までに落ち着いた。すなわち神奈川からは、江戸方面の北東にかけては10里に満たない5里ほどであるが六郷川筋(現在の多摩川)まで、その他へは10里まで、すなわち北西へはほぼ八王子辺りまで、南西へは小田原の手前の酒匂川(さかわがわ)までになる。箱館は各方面へ10里まで。兵庫については、京都から10里の境以内へのアメリカ人の侵入は禁止され、その他へは兵庫から10里までと決まった。ただし短期滞在になる船乗りなどは大阪への立ち入り禁止に合意した。京都御所から大阪城までの直線距離はほぼ10里だから、長期居留の商人であっても大阪から京都に向かう淀川沿いにはほとんど遡れない規定だ。長崎は公領、すなわち幕府領のみと合意した。

開港してからは、この境界規則に従い多くの外国人が自由に出歩くことになったが、横浜近辺では川崎大師、金沢八景、鎌倉の大仏、江ノ島、藤沢の遊行(ゆぎょう)寺などが外国人の人気スポットになった。また1854年に来たペリー艦隊もジェームス・モロー博士を中心に多くの動植物標本を収集したが、横浜、長崎、箱館が開港されるやヨーロッパやアメリカで日本の珍しい植物収集の人気が上がり、アメリカの商社・ウォルシュ商会のジョージ・ホール博士、イギリス人のジョン・ヴィーチやロバート・フォーチュンなどの人々の収集が良く知られている。これら収集家は、ヨーロッパやアメリカには無い花や実をつける樹木、潅木、シダ類、花の球根などを求め、横浜、長崎、箱館の郊外までも出かけている。

しかし時として、このように外出する外国人が被害者になる事件が起きた。次の「攘夷殺人事件」の項で書くが、神奈川や横浜から比較的近い川崎大師や鎌倉の大仏など外国人に人気の高い名所に行って殺害の難に合う不幸な人達が出た。これが大きな外交問題にまで発展する。

♦ 早速横浜にやって来た商人や宣教師たち

横浜が開港されると一番乗りでやって来た商人は、アメリカ公使・ハリスにより横浜領事に任命されたイーベン・ドールだ。ドールはハリス公使に見込まれ横浜領事として上海からハリスと一緒に横浜に来たが、同時にオーガスティン・ハード商会の横浜の代表者だった。ハリス自身も日本総領事として下田に来る前は、商人として支那に居る時ニンポー領事をしていたが、当事のアメリカ政府は能力と信用ある商人を各地の領事に任用したのだ。高級取りの官吏を本国から派遣しなくとも、現地で活躍するアメリカ商人を領事に任用すれば、彼らは商取引も現地事情も熟知しているから政府にも都合がよく実利があったのだろう。いかにもアメリカ的合理主義だ。

ドールは、横浜に着き神奈川の高台にアメリカ領事館を開設し国旗を掲揚するや、早速一緒に連れてきて書記官にも採用したユージン・バン・リードや通訳のジョセフ・ヒコを使って、ナタネ油、ロウ、昆布、スルメ、アワビ、ナマコ等を買い集めさせ、オーガスティン・ハード商会派遣の商船・ワンダラー号(176トン)に積み込んでいる。この船がおそらく開港直後の横浜に入港した商船の第1号だろうが、横浜のアメリカ領事・ドールが抜け目のない商人だったのか香港のハード商会の本社が熱心だったのか、とにかく素早いアメリカ商人の動きだった。その後もこのワンダラー号は、頻繁に横浜、長崎、支那を往復しているのが目撃されている。

このオーガスティン・ハード商会に負けていないのがウォルシュ商会だった。ジョーン・ウォルシュが支那から長崎に来て開港と同時に商売を始めたが、ハリスにより初代のアメリカ長崎領事に任命されている。 ウォルシュ商会の横浜代表者はジョージ・ホール博士だったが、横浜の可能性をいち早くつかみ、真っ先に幕府の用意した外人居留地の2番分譲地の権利を得てレンガ造りの立派な商館を立て始めた。

冒険心に満ちたホール博士はハーバード大学医学部を出て医者になり、1846年に上海に向い、上海では名の知れた医者だった。しかし8年後に貿易商に転じ、支那や日本の珍しい植物収集にも熱心で、医者より貿易で資産を増やした人だ。筆者はホール博士が横浜に来た日にちをまだ知らないが、横浜が開港した年の1859(安政6)年12月初めには既にウォルシュ商会の立派なレンガ造りの商館を建築中だったから、横浜開港と時を同じくして上海から来たのだろう。ジョーン・ウォルシュの兄のトーマスも横浜に来て、横浜の業績が上がり始めた。ホール博士は、ウォルシュ商会の敷地内に日本国内から収集した珍しい植物を植え、船での出荷に備えた植物園を造っていたから、上述のロバート・フォーチュンなども一時的に植物の保管を依頼している。1862(文久2)年にホール博士がアメリカに帰国するが、その後任にホール博士の親しい友人で、1859年11月2日にアメリカからニューヨーク・トリビューン紙の特派員として横浜に来て住んでいたフランシス・ホールがウォルシュ商会に参加し、パートナーとして出資をし、「ウォルシュ・ホール商会」と新しい社名になった。ジョージ・ホール博士とフランシス・ホールは何の姻戚関係もないが、同じ「ホール」姓が相次いで同じ商社に関わり、商社名もウォルシュ商会からウォルシュ・ホール商会になったから、時として幾つかの歴史書記述の中に混同して出てくるが、2人は全くの別人である。

次に香港に本社を置くイギリスのジャーディーン・マセソン商会が1番分譲地の権利を手に入れ、デント商会が4番と5番を手に入れた。この様に外国商人の中でも資金力のあるアメリカとイギリスの進出が顕著だった。


当時ヘップバーン博士夫妻の住んでいた
横浜市神奈川区神奈川本町の現在の成仏寺

Image credit: 筆者撮影

商人の進出もこの様に活発だったが、各国の教会も新しく開港された日本での布教に熱心だった。早々とやって来たのは、横浜開港後3ヶ月半あまり後の1859年10月18日、日本語のローマ字表記の標準化に尽力し「ヘボン式」ローマ字として知られ、「ヘボン博士」として日本人に親しまれたアメリカ長老派教会宣教師・ヘップバーン博士だ。当時の日本人は眼病を病む人々が多かったらしく、博士に診てもらえばたちどころに治ったという。博士夫妻は当初、神奈川の成仏寺に住んだ。

続いて来たのは、上述のフランシス・ホールが住んでいた同じ町、ニューヨーク州エルマイラの町にエルマイラ大学を造り、米国オランダ改革派教会から派遣され、ホールと同じ船で横浜に着いたサミュエル・ブラウン牧師、そして同じ教会派遣のデュエイン・シモンズ医師だ。横浜に着いたのは、ヘップバーンに遅れること僅か2週間だった。

その後、ヘップバーン博士は神奈川で英学「ヘボン塾」を開き、ブラウン師も横浜で神学「ブラウン塾」を開いた。これらの学校は明治になって統合され、明治学院の基礎になっている。シモンズ医師は間もなく教会から独立し、個人医師として横浜で開業したが、後に神奈川県の医療発展に貢献し、東京大学の前身・大学東校や慶応義塾医学所でも講義を行い、日本の医学発展に大きく貢献した。この様に、開港直後の日本に来たこれら教会関係者は、夫々の道で日本の教育、文化、医療の発展に多大の貢献をし、今もその名がよく知られている。

攘夷の拡大と生麦事件

♦ 攘夷殺人事件


東海道、神奈川台町の関門、東から西方を望む
Image credit: Felice Beato (born 1833 or 1834, died 1907)

幕府は新開地横浜の要所に関門を設けていたが、安全は充分でなかった。横浜で貿易が開始され2ヶ月も経たない安政6(1859)年7月27日の夕暮れ時、悲惨な事件が起こった。ロシア東部シベリア総督のムラヴィヨフが、軍艦7艘を率いて日本側と品川で長期にわたり日ロ間の課題であった樺太の境界を設定する交渉をしていた。その艦隊のポポフ海軍大将配下のロシア士官1人と水夫2人が、横浜の波止場近くで突然抜刀した日本人に襲われ、士官と水夫1人が息絶えた。下手人は不明のままである。ムラヴィヨフは、ロシア士官殺害犯人の捕縛ができない幕府に「神奈川奉行一向に召捕り候手筈これ無きやに候て、また政府より命ぜられ候ても捗取り申さず候えば、コーウント自分にて手だて致すべくやに候」と、神奈川奉行が捕縛に動かず、幕命でも捕縛が出来なければ、ムラヴィヨフは自分で犯人を探すと強く抗議した。こんな背景で、当時の神奈川奉行兼外国奉行・水野筑後守はその責任において更迭された。

その後も引き続きこのような攘夷殺人事件がしばしば起こり、横浜だけでなく江戸の桜田門外で大老・井伊直弼が殺害されたり、その9ヶ月後には、ハリスの通訳官・ヒュースケンが赤羽接遇所から善福寺に帰る途中に殺害されたりと、ショッキングな事件が続いた。

 

攘夷殺人及び事件(1859年−1864年、主に外国関係。桜田門と坂下門以外の日本人同士の殺害は除く)
 

安政6年7月27日
  (1859年8月25日)
ロシア士官1人、水夫2人、暮れ六つ時、横浜波止場で襲撃され2人死亡
安政6年10月11日
  (1859年11月5日)
小村幸八、フランス領事館の下僕の清国人を惨殺する。小村は慶応元年8月14日に処刑された
安政7年1月7日
  (1860年1月29日)
イギリス公使館通詞の伝吉、公使館門前で暗殺される
安政7年2月5日
  (1860年2月26日)
オランダ船長デ・ヴォスとデッケル、横浜で暗殺される
安政7年3月3日
  (1860年3月24日)
通商条約の締結、安政の大獄などの弾圧政策を憎んだ水戸浪士ら18名は、江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺する 
万延元年12月5日
  (1861年1月15日)
アメリカ公使館通訳ヒュースケン、赤羽接遇所から善福寺に帰る途中の中ノ橋付近で薩摩藩士清河八郎一派の志士に襲撃され翌日死亡
文久1年5月28日
  (1861年7月5日)
水戸浪士有賀半弥、武州浪人吉田宇衛門ら同志14名が高輪の東禅寺にあったイギリス公使館を襲撃。オリファントとモリソンが重傷を負う
文久2年1月15日
  (1862年2月13日)
井伊直弼の開国路線の継承や公武合体路線を推進する老中安藤信正が、坂下門外で尊攘派の水戸浪士6人に襲撃され重傷を負う 
文久2年5月29日
  (1862年6月26日)
イギリス公使館の東禅寺を警備中の松本藩士伊藤軍兵衛が単身槍をもってイギリス伍長1人を殺害、歩哨1人を傷つけ、藩邸に戻って切腹
文久2年8月21日
  (1862年9月14日)
武蔵国橘樹郡生麦村で島津久光の行列を乱したと、川崎大師に行く途中のイギリス人4人が藩士に斬りつけられ、1人死亡、2人重傷、1人(婦人)無傷で逃げる
文久2年12月12日
  (1863年1月31日)
品川御殿山に建設中のイギリス公使館が高杉晋作らにより焼き討ちされる
文久3年6月24日
  (1863年8月8日)
長崎で外国船水先案内をしていた重兵衛が何者かに殺害される
文久3年9月2日
  (1863年10月14日)
フランス陸軍士官アンリ・カミュ、3人で乗馬通行中、井土ヶ谷村字下之前で浪士3人に殺害される
元治元年10月22日
  (1864年11月21日)
イギリス軍人ボールドウィン少佐とバード中尉、鎌倉鶴ケ岡八幡大門前で殺害される

♦ 朝廷の攘夷要求と将軍家茂の上洛

前述の「3、通商条約と内政混乱‐朝廷の影響力」でも書いたが、夷人嫌いの孝明天皇は日本開国の現状を心配し、幕府に影響力を行使し始めた。すなわち伝統的な徳川家康以来の「禁中並び公家諸法度」に反して政治介入を始めたのだ。安政5年の5カ国との通商条約が締結され、神奈川、箱館、長崎が開港され貿易が始まると物不足が顕在化し諸物価が上がり始め、武士をも含め庶民の生活を直撃した。多くの外国人が日本国内に入り込み、更に京都の膝元の兵庫の開港や大阪の開市が迫っている。こんな中で孝明天皇は、危機意識と共に攘夷の考えを更に確たるものにしていった。

そんな中で大老・井伊直弼による反対派へ向けた大弾圧があり、幕府内だけでなく、朝廷内にも青蓮院宮への「隠居・永蟄居」を始め、左大臣や右大臣の「辞官・落飾」、前関白の「隠居・落飾」など多くの処罰者が出た。しかし桜田門外で突然井伊直弼が殺害された後、朝廷と幕府の関係改善に向け斡旋しようとする大藩も出てきた。文久1年3月には長州藩主・毛利慶親が直目付・長井雅楽(うた)の建策を採用し、この「航海遠略」を藩是と定め、これをもって朝廷に遊説したが、朝廷もこれを受け入れ、「天皇もこの考えにご賛同された」と毛利慶親に朝廷・幕府間の関係改善に当たらせた。長井は京都と江戸を往復し1年近くも公武関係の修復斡旋に努力したが、この間に自藩内の反対意見が強力になり、これに呼応するかのごとく朝廷からも長州藩の「航海遠略策」を説明した長井の書簡が朝廷を誹謗しているとの非難も出て、この努力は頓挫してしまった。その後長州は急激に藩論を変え尊皇攘夷に突っ走るが、長州の公武斡旋開始からほぼ1年後には、薩摩藩の島津久光も下記の如く朝廷に建策し、勅使護衛に当たることになる。

文久2(1862)年4月13日、上府途中の島津久光は手勢千人を引き連れ大阪に着き、その一部を伴い伏見にある薩摩藩邸に入り、更に御所近くの薩摩屋敷に移った。薩摩藩主の実父であっても無官の久光が軍隊を率いて入京できるまでには、親戚筋の公家・近衛や、孝明天皇の侍従兼近習で和宮親子内親王と将軍・家茂の婚儀を成功させた岩倉具視の京都所司代・酒井への影響力によるもののようだ。久光はこの3日後、早速権大納言・近衛忠房に会い国事建言の趣意書を提出した。九項目からなる久光の建策の主要部分が採用され、朝廷から動きの遅い幕府へ勅使が発せられる事になる。

このころの兵庫、大阪など京都近辺には西国の浪士が集まり不穏な動きが顕在化していたから、朝廷は公武関係の斡旋に熱心で建策も行う久光に、京都で浪士鎮撫の任にあたらせた。なんとこの時、浪士と結んだ自藩の薩摩過激派が大阪から伏見の寺田屋に入ったことを知った久光は、朝廷の命で浪士鎮撫の任に当るさなか自らの藩の暴挙に困惑し、8人の藩士を送り過激派の説得に向かわせた。説得で過激活動を中止させようとしたが衝突になり、過激派8人が即死し、説得側にも死者が1人出た。

その後京都に警備のため1月以上滞在した久光は、朝廷の命で勅使・大原重徳(しげとみ)を護衛し上府した。勅使・大原は将軍・家茂に会い「夷狄を掃攘し万民を安んぜられ候えば、叡慮も自ら安んぜらるべく」と朝旨を伝えた。これは攘夷の督促と、安政の大獄で罪を受けていた一橋慶喜や松平慶永の登用の督励だった。こんな一橋慶喜や松平慶永の登用案は、もともと島津久光による朝廷への献策に基づいたものだ。この上府の帰り道に、下の如く久光一行が「生麦事件」を起こすことになる。

攘夷実行を言質に和宮を嫁がせ、勅使・大原が東下しても攘夷に向けた明確な行動を起さない腰の重い幕府の動きを見て、薩摩、長州、土佐の3藩は朝廷から幕府へ更なる攘夷決行の勅使派遣を建言し、朝廷はついに文久2年9月21日、朝儀をもって攘夷を決定し、勅使に三条実美(さねとみ)を選び江戸下向を命じた。前勅使・大原重徳の派遣から半年も経っていない時だ。勅旨は、「攘夷をはっきり決定しなければ人心一致も困難だ。幕府は直ちに攘夷を決定し、『攘夷と拒絶』の期限を奏聞せよ。そして京都を警護する親兵を設置せよ」というものだった。将軍後見役になったばかりの一橋慶喜は条約破棄をしてはならないと開港の必要性を論じ、朝廷の意思を尊重すべく攘夷の意見を述べる政事総裁・松平慶永を翻意までさせていた。しかし朝廷の居丈高な勅命を受け、そんなに方針が隔離してはもう責任がもてないと、10月22日将軍後見職の辞表を出す事態にまでなったがしかし、慶永などの説得でこの辞表は撤回された。君臣の大義をもって朝廷を敬いながら、何とか幕府孤立を避ける打開策を講じようとしたのだろうか。

この前後から京都では、上述の伏見の寺田屋の薩摩藩士の衝突があり、土佐藩の岡田以蔵らによるの暗殺が始まり、横浜の生麦事件があり、品川の御殿山のイギリス公使館が高杉晋作らに焼き討ちされ、国内の暗殺事件が頻発し始めた。

こんな経緯の中で、朝廷から二人もの勅使を受けこれ以上の優柔不断が許されなくなった将軍家茂は、終に攘夷決行と親兵編成の奉答書を朝廷に上程した。また朝廷に攘夷計画の詳細を報告すべく上洛を決め、文久3(1863)年2月13日、自ら3千人を引き連れて江戸城を出発し、3月4日京都二条城に入った。これに先立って京都に入っていた将軍後見役・一橋慶喜や政事総裁・松平慶永は、将軍が天皇の謁見を得た後江戸に帰り攘夷の方策を立てると関白・鷹司輔煕(すけひろ)に伝えたが、では攘夷期日を先に決めるべきだと迫られた。 将軍が攘夷期日を約束するために上洛してくるはずなのに、帰ってからとは全く心外で、これでは幕府から何を云われても全て信頼にはつながらない。

この頃朝廷では孝明天皇の肝いりで学習院が開かれ、下情上達の道を開くためとして誰でも学習院で時事の建言を許したから、我こそはと思う志士たちが殺到し、将軍や幕府にも陰の圧力になり始めた。一方慶喜や慶永は前関白・近衛忠煕(ただひろ)、関白・鷹司輔煕、中川宮等の朝廷の中枢と会い、このように全て朝廷が政治をやるつもりなら、国家の方針が幕府と朝廷から出るという「政令二途に出づる」弊害を論じ、大政委任か政権奉還か二者択一をすべきだと迫った。また生麦事件に絡む対英交渉が逼迫し戦争も視野に入ったから、在京諸侯の帰藩を許してもらいたいとも申し入れたがしかし、幕府の中枢をもなかなか信じない朝廷からは何の進展も得られない。とても「公武一和」どころではなかった。

上洛前には、攘夷などすべきではないから朝廷を説き伏せると云っていた一橋慶喜は、京都ではその立場を微妙に変えていたから意見に相違も出たようだ。何の打開策も考えられなくなった政事総裁・松平慶永は、幕府に辞職を再三願ったが、その返事を保留されている間に勝手に帰国してしまった。無責任もここに極まった感である。慶永の身になって考えれば、橋本左内など自藩生え抜きの有能な家臣を安政の大獄で失った今となっては、自分一個の考えも諮問した藩論もその限度にきていたのだろうか。「政令二途に出づる」弊害を論じ将軍の大政奉還を幕府に献策しても、一橋慶喜を初め幕閣は何の反応も示さない。朝廷からは、幕府が攘夷期日を決めたからには交易拒絶の談判は最重要課題だから、政事総裁自身が関東に帰って談判せよとの命令まで出始めた。打つ手の無い慶永とその家臣団は、無断帰国を決めたのだろう。

♦ 生麦事件へのイギリスの要求


武蔵国橘樹郡生麦村、「生麦事件」の現場
Image credit: Felice Beato (born 1833 or 1834, died 1907)

文久2(1862)年8月21日には生麦村で、勅使・大原を護衛し帰国途中の島津久光の行列を乱したと、乗馬通行中のイギリス人4人が警護の薩摩藩士に斬りつけられ、一行のうちリチャードソンが死亡し、2人が重傷を負い、婦人1人だけが無傷で横浜まで逃げきった。この「生麦事件」に対するイギリス政府の方針は、できるだけ戦争はしないが、犯人の捕縛断罪、公式な謝罪、そして賠償を求めるものだった。

生麦村での惨事を知った直後の横浜外人居住区では、自分でリチャードソン一行の捜索に生麦まで出かけたイギリスのヴァイス横浜領事や商人たちは勿論、フランスからも、直ちに軍隊を上陸させ連合追討軍を派遣すべしと厳しい議論が沸き立った。しかしイギリスのニール代理公使は、ほぼ確実に戦争に発展するであろう島津久光追討軍を制止し、むしろ幕府との交渉を模索した。

上述のアメリカ人フランシス・ホールは、この時イギリスのニール代理公使に向けられた横浜外人居住地区内からの非難を、次のように当日の日記に書いている。いわく、

イギリスの代理公使は、彼の示した明らかな無関心さに多くの人々から強い非難を浴びせられた。リチャードソンを探すため、一隊の派遣を求められると彼は拒絶した。外人居留地のためよりも自分の安全を心配していたと、彼を非難する噂が流れた。彼がリチャードソンの遺体を見た後も、ボロディール婦人の口から直接襲撃の様子を聞いた後も、彼の部下の代理人に、「自分はそんな騒動が発生したという公式報告は聞いていなかった」と云った。事件の起ったちょうどその日の午後、幸運な事にキューパー提督指揮下のイギリス砲艦と蒸気軍艦が入港した。この横浜港に集まったそんな強力な軍艦、すなわち、8艘のイギリス軍艦にフランスとオランダだが、この軍事力で、横浜からおよそ3マイル程の保土ヶ谷宿に泊ったとされるその大行列の主を捕縛しようと大勢が話し合った。この考えにフランス公使は大賛成だったが、提督は更なる情報と司法権が必要だと乗り気ではなく、代理公使は反対を表明した。騒動を恐れた横浜の奉行は、早速保土ヶ谷に使いを出し、行列の主は夜中までに、供回り全員も宿をたたんで安全な場所へ出発した。この主は薩州候に仕える高官だということだ。

久光の行列を宰領する小松帯刀は同行の大久保一蔵とも相談の上、イギリス側からの追討軍に備え、神奈川に2人の藩士を残し情報収集に当たらせた。この日の大久保利通日記にも、「神奈川にて高崎猪太郎、土師吉兵衛へ夷人挙動探索相託し候。今晩問合せ度々相達し、夜明け高崎猪太郎参り、則出殿云々」と出てくるが、宿泊地の保土ヶ谷からも頻繁に神奈川に残した2人に問合せの使いを出し、厳重に警戒していた様子がわかる。

一方イギリス政府も、ニールの報告によりこのニールの対応を直ちに認めているが、外務大臣・ラッセル卿がニール代理公使に宛てた1862年12月9日付けの下記書簡に明らかだ。いわく、

先月27日到着の9月15日、16日、19日、21日付けの貴書簡で私は、主要大名の一人に従う従者により英国民の一行に加えられた残忍でいわれない攻撃により、一人が殺害され、二人が大怪我を負い、一行中の一婦人が奇跡的に難を逃れたという報告を受けた。
この暴挙による受難に対する女王陛下政府の心からの同情を、攻撃された人達に伝えるよう私は貴君に指示する。そしてまた貴君にそんな機会があれば、リチャードソン氏の身内にも同様に伝えてもらいたい。
私には、日本政府に要求されるべきこの賠償と、条約により保障された日本に滞在するイギリス国民全員の個人的安全を確保すべき方針とにつき、貴君に対し十分な指示を出す義務がある。
貴君に向けられた圧力に抗し貴君が示した判断と忍耐とを、女王陛下政府が承認する事を、私は貴君に知らせずにはおけない。更に、若し貴君がそう決っしたとしたら、女王陛下政府は日本と敵対する事についてでも同様である。
貴君は誠に慎重で、この暴挙を行った大名の従者に即座に復讐すべく艦隊の軍隊を上陸させる行為に賛同しなかった。
これほどの暴挙が彼らの上に報復をもたらすという有罪宣告を日本の政府と大名とに明白に下すため、現況の中で、今後女王陛下政府が採るべき如何なる方針についても、貴君は本国の指示なしに日本政府に賠償させる事に全力を傾注し、貴君の採った方針にキューパー提督が賛同している事さえ判明すれば、それで満足である。
大君政府への賠償要求に関し、貴君はまさに貴君に適切に指示された方針を採用している。女王陛下政府が期待する貴君の要求への結果が次の報告書簡でもたらされたら、それが女王陛下政府が日本に対し採用する方針の最終的な決定になる。

このようにラッセル外務大臣は、ニール代理公使の判断と行動に全幅の信頼を寄せ、ニールの判断が英国政府の決定になるとしている。この出来事に興奮し、イギリス、フランスの久光追討軍が出発していれば、ニールの危惧した戦争にも発展していたかも知れない。

翌年初めに具体的な賠償要求金額の指示を本国から受けたニール代理公使は、文久3(1863)年2月19日、これは将軍家茂が2月13日に京都に向け江戸を出発した6日後であったが、長文の書翰を幕府に送り、生麦事件に関するイギリス政府の賠償要求を伝えた。

まず幕府に対し、次の条件を20日以内に実行しなければイギリス艦隊の武力を以って適切な処置を講ずると通告した。

  1. この謝罪のため、十分な、公式赦免を乞う書簡を出すこと
  2. この罪科のため、十万ポンド・スターリングを払うこと

薩摩藩に対しては、次の条件を直ちに実行しなければ海軍力を以って適切な処置を講ずると通告した。

  1. 殺そうと襲い掛かった諸人中の主なる者を速やかに捕え吟味し、女王陛下の海軍士官の眼前でその首を刎ねること
  2. 二万五千ポンド・スターリングの償金を払うこと

とその速やかな実行を迫った。

この島津久光の引起した外国人殺傷事件は、いってみれば幕府にとって二重の重荷であった。そもそも藩主でもない久光の上府と生麦事件は、上述の如く、朝廷による幕府督励の勅使・大原重徳(しげとみ)の護衛という公的行動の帰途に起ったものであり、幕府として単に薩摩や久光を非難できなかった。そして一方イギリスは、条約を締結し国政に責任を持つという公的な立場から、幕府責任をも追及したから、薩摩藩の起こした問題が、自身の管理責任をも問われる問題になってしまったのだ。

賠償金支払いと幕府首脳の混乱

♦ 戦争の危機と賠償金支払い

イギリス代理公使・ニールから、前述した生麦事件に対するイギリス政府の賠償要求書は将軍・家茂の江戸城出発の6日後に出されたから、とても20日以内に幕府の返事を得られるものではない。それどころか、京都に着いた家茂は朝廷から明確な攘夷決定と実行を強く要求され、最初の京都滞在予定は10日間くらいであったが、再三の帰国申請にもかかわらず江戸に帰ることも許されず、京都に留め置かれるかっこうになる。

一方江戸で留守を預る老中はイギリスの要求に返事も出来ず、何回もその回答の延期を交渉した。ニールは家茂不在を知っているし、強い賠償要求は出すが戦争はできる限り避けるという本国の外交方針もある。そこで4回もの幕府の延期交渉に同意したが、ずるずると京都に滞在する家茂の動向に、ニールはもうこれ以上の延期はしないと幕府に通告した。老中も将軍さえ帰ってくれば賠償金を払うとニールに示唆していたが、家茂はなかなか帰らず、イギリス艦隊は横浜に終結し終わっていたから、江戸を預かる幕閣もこのままではイギリスと戦争になると真剣に心配しはじめた。 一橋慶喜や松平慶永など幕府の中枢が京都にいる間、江戸で幕政を補佐していた尾張藩主・徳川茂徳(もちなが)や大将軍目代・水戸藩主・徳川慶篤(よしあつ)は、文久3年4月28日朝廷に、「生麦事件の償金の支払いは攘夷鎖港とは別件だから」、と戦争回避のための償金支払いを上申したが、朝廷の強い反対にあわててその提案を引っ込めざるを得なかった。

孝明天皇は、前日この幕府の「償金支払い上申」が出された事を聞くや、将軍・家茂が「攘夷開始期日」と約束した5月10日に、

そもそも攘夷拒絶の期限も今日になったのだから、いよいよ諸臣一同にその心得があるのが当然だ。合わせて、償金の一件は予想外の事になったが、今さら仕方がない事だ。以後こんな事にならず、朝廷で定めた命令通りになるようよく話すのが本筋だ。こんな所で諸臣の気合が緩むようでは、かねてから言ってきたように皇祖神に対し申し訳もなく、かつ両社での参拝祈念や毎朝の祈りの詞にも相違し、これ以上の困苦はない。たとえ皇国の一部が黒土になっても開港交易は決して好ましくない。(償金を支払うなどと)こんな不心得の事を唱える者があればきっと罰を下すから、この天皇の命令を貫徹せよ。

と震翰に書くほどまでに強硬姿勢になっていた。

ついに幕閣は5月4日、沿岸警備の諸侯に命じ警備を厳しくさせ、江戸沿岸に居住する婦女老幼の避難を命じた。 7日になると横浜駐在の英国領事はニールの指示により、イギリスは生麦事件の賠償金交渉は決裂したと断定し、艦隊司令長官・キューパーに命じ自由行動を開始させると神奈川奉行・浅野伊賀守に通告してきた。翌日には、イギリス軍艦2艘が品川沖に来て付近を測量し始めた。いよいよ軍事行動に出るぞというイギリス海軍のデモンストレーションだ。たまりかねた老中格・小笠原長行(ながみち)は翌9日独断で横浜に出張し、横浜運上所にある全てのメキシコ銀貨をかき集め、英国公使館襲撃の際に遭難したイギリス人に対する扶助料および生麦事件賠償金の合計44万ドル(11万ポンド相当)を英国代理公使ニールに即金で全額支払った。

これは天皇の意にも反する償金支払いだったが、からくもイギリスとの戦争は回避したのだ。これでやっとイギリスは戦争をせずに幕府に要求した条件には型を付けたが、まだ薩摩の方が残っている。これが次章に書く「薩英戦争」につながるのだ。

♦ 鎖港通告と幕府首脳の支離滅裂さ

幕府と朝廷の関係もまだ決着が付いていない。朝廷の強い攘夷要求により、将軍家茂は開港した三港の鎖港で攘夷を始めよと小笠原長行に命じていたから、そのつもりで京都から帰ってきた小笠原は、前述のごとく独断で44万ドルの賠償金をイギリスに支払わざるを得ないほどイギリスとの関係が緊張していた。しかし小笠原は、イギリスとの戦争を回避するためこの賠償金を支払うや開港場の三港閉鎖交渉を通告する書簡を条約国公使たちに送ったから、こんな不可解な行動に、イギリスをはじめフランス、アメリカ、オランダ公使たちは、日本国内政治における攘夷勢力からの強烈な圧力と幕府の追い詰められた立場をはっきり見て取った。

もちろん小笠原の「三港鎖港・全員退去」交渉通告に対し、イギリス、フランス、アメリカ、プロイセン(ドイツ)、オランダ5カ国はすかさず、鎖港し在留外国人を退去させれば直ぐに戦争になるぞと一斉に反論した。また仏国公使・ベルクールは、三港を鎖港しフランス居留民を退去させれば、その資産だけで日本はフランスに、「合計127万3千ドル以上もの賠償金を支払う勘定になる」との内訳も入れた見積りまで出し、脅してきた。その裏には更に、条約国側の勝利に決まっている戦争費用の賠償やフランス以外の条約国への賠償金もあるぞ、とのメッセージもあったはずだ。

江戸で外交の先端に居る老中格・小笠原長行らとイギリスやフランス、あるいはアメリカ、オランダの公使たちの関係と、まだ京都や大阪にいて動けない将軍家茂と朝廷の関係は、明らかに大きな矛盾を露呈しながら進んでいた。横浜にイギリス軍艦が集結し今にも戦争が始まる事態であるが、江戸の幕閣と京都にいる将軍・家茂や朝廷の意見は食い違ったままだ。イギリスとの戦争だけは回避せねばならないと、5月9日小笠原長行は独断で賠償金を支払った。全く同じタイミングで京都からは、将軍・徳川家茂の「攘夷期限につき、来る5月10日に間違いなく拒絶と決定致しました。また列藩へも布告致します」と云う4月20日付けの奉答に基づき、将軍後見職・一橋慶喜が朝廷の意を奉じ、少なくとも表面的には討死覚悟で断然鎖港を完遂しようと、京都から横浜のすぐ近くにまで帰って来ていた。賠償金支払いをせねば今日明日にもイギリスと戦争が始まることを横浜で知った慶喜は、予定された途中の川崎に泊まりもせず急いで江戸に帰り着き、翌5月9日、京都で決定した「5月10日の攘夷」について幕閣と協議した。江戸の幕閣や役人たちは戦争など不可能だと攘夷賛同者は一人も出ず、慶喜一人宙に浮いた格好で孤立してしまった。

前述の小笠原長行が三港鎖港談判の通告書を外国公使に送る前に、オランダをも含めた「全条約国と三港鎖港」の評議を命ぜられ、外国関係の窮状を良く理解し危機感を募らせる江戸の寺社奉行・町奉行・勘定奉行達が閣老に上書し、「仰せ出だされた三港鎖港は、詰まりご難題。皇土国境の安危。無名の戦争に及んでは千萬のご失策。事ここに到っては、大将軍職を辞すべし」と建言までした。が結局、小笠原はイギリスへの償金を支払うと、慶喜の命令どおり三港鎖港通告を出したのだ。そこへ江戸に帰って来た慶喜が「攘夷・鎖港」と叫んでも、当然慶喜を支持する者など誰もいなかった。このため慶喜は、またまた関白・鷹司輔熙(すけひろ)に将軍後見職の辞職を願うほどに幕府内の首脳たちは混乱していた。

一方、まだ大阪・京都に留め置かれ江戸に帰れない将軍・家茂は、大阪や兵庫近辺の海防を視察してお茶を濁していたがしかし、小笠原の独断償金支払いが京都に報告されると、早速京都守護職・松平容保、老中・水野、板倉などが参朝して幕府の不手際を陳謝し、上述の如く将軍後見職・慶喜は辞職願を出し、江戸の将軍目代・徳川慶篤(よしあつ)も辞職願を出した。ただ朝廷を恐れ、筋道を立てて朝廷説得をしようとする幕府首脳は皆無だった。

一橋慶喜はもともと、今となって攘夷などすべきではないとの考えを持っていた。一度は攘夷論に傾いていた松平慶永さえも、この慶喜の論理に感服しその考えを改めた経緯さえあった。こんな慶喜が、朝廷の強い攘夷要求に一度は辞表を出したが受け入れられず、以降徳川家の存続という意味においてのみ朝廷と協調しようとして来たから、イギリスの軍艦を前に戦意や方策などあるはずも無かった。江戸の幕閣のみならず島津久光さえもが、京都で慶喜を前になぜ攘夷の約束などしたのかとなじってさえいる。後戻りできないまでに事態が悪化した幕政において、いったん引き受けても、対処できなくなれば「やめた」と身を引くやり方が最早通用するはずも無かった。

朝廷もこれまで将軍・家茂を手元に置いて離さず、これを幕府へ圧力をかける梃子にしてきたが、小笠原長行など江戸の「奸吏」は孝明天皇の意思をも無視してイギリスに償金を渡し、攘夷期限の5月10日をはるかに過ぎても攘夷を始める気配もない。これ以上他に打つ手もなくなった朝廷は、将軍・家茂が江戸に帰れば攘夷を始めるだろうと、大阪城に居る家茂や幕閣の「帰府したい」という願いを聞き入れた。家茂はやっと3ヶ月ぶりに大坂城を出発し、老中・水野忠精や板倉勝静などを従え、文久3年6月13日順動丸に乗って海路帰府の途についた。

 

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07/18/2010