日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

12、初期のお雇いアメリカ人

初期のお雇いアメリカ人: ラファエル・パンペリーとウィリアム・P・ブレイク

♦ ハリス公使に依頼した、鉱山・鉱物学者の派遣

幕府が雇ったアメリカ人、即ち最初の鉱山技師のアメリカからの招聘は早かった。それは、遣米使節団・副使として日本とアメリカの修好通商条約批准書をアメリカで交換し、半年ほど前に江戸に帰ってきていた外国奉行兼箱館奉行・村垣範正(のりまさ)が、文久1(1861)年3月14日付けで、アメリカ公使・タウンゼント・ハリス宛に出した公式依頼状から始まっている。いわく、

今般、蝦夷地において鉱山等の開発検査のため、貴国坑師のうち最もその業に熟練の者を両人雇いたいので、彼らの呼び寄せを早々に取り計らわれるべく頼み入る。更に1ヵ年の1人当りの給料も概略承知いたしたく、また貴国にて用いられている(筆者注:馬で牽引する)乗車並びに荷車、各1種1輌あて取り寄せ方をも頼みたく願い入る。

と云うものだった。

このアメリカ人の招請は、長崎海軍伝習所でオランダ人・ペルス・ライケンが教師に雇われ、その後任にヴィレム・カッテンディーケが来たが、安政6(1859)年に長崎海軍伝習所が閉鎖され帰国した以降では、昔国外追放処分にあった罪を許され、文久1(1861)年4月18日に幕府顧問に雇われた元出島のオランダ商館医師・フィリップ・フォン・シーボルトに次ぐ、ごく初期のお雇い外国人の招聘である。

♦ 蝦夷地開発に重要な、鉱山の開発  −老中・阿部伊勢守の方針−

さてこの蝦夷地鉱山の開発は、外国奉行兼箱館奉行・村垣範正がハリス公使宛に出した上記依頼状の5年ほど前、当時の安政3(1856)年7月ころより箱館奉行・竹内保徳(やすのり)などがより一層の蝦夷地産業開発に意を注ぎ、市渡(いちのわたり)や川汲(かっくみ)で各種鉱山の開発や古武井の熔鉱炉建設などを幕府に建議し、当時蝦夷地の実地調査に長く係わり、勘定吟味役から箱館奉行に昇進したばかりの村垣範正も関係し、蝦夷地産業の開発と合わせ、少しずつ鉱山開発・試掘の活動があった。この2年ほどはクリミア戦争のためロシアの南下はなかったが、幕府がアメリカ、イギリス、ロシアなどと締結した和親條約のため、箱館に入港するアメリカ船やイギリス船が増加し、和親条約は締結していなくとも、多くの傷病兵を抱え困窮したフランス軍艦さえも緊急入港した。このように急速に蝦夷地の存在が重要になり、ロシアとの境界もいまだ確定できていないから、幕府も蝦夷地の開発と警備を急がざるを得ない状況になった。当時の幕閣首座・阿部伊勢守はこんな状況を踏まえ、安政3年11月1日付けで竹内保徳、堀利煕(としひろ)、村垣範正の箱館三奉行宛に蝦夷地開発方針の通達を出した。いわく、

蝦夷地開拓は大業、不容易であるが、当今の時勢から捨て置けない。お前たちの答申はもっともだ。従って(筆者注:蝦夷地は)大名に委ねるのではなく全てを奉行に任せるから、大いに蝦夷地に土着する者が増える様に取り計らえ。入植者はまず重要な海岸部へまとめ、人数が増加するごとに三十里先、四十里先へと開拓を進めよ。(筆者注:出先官吏の)支配組頭などは置かず、季節に限らず奉行自ら手分けして村々を回り、アイヌや土着した村民の訴えを聞き取り、実力のある者を取り立てよ。(筆者注:昔のような)蝦夷地請負は止め、公儀が直接手を下し、運送船はもとより鯨漁船なども造り、魚鯨漁に努力し、その収入を開墾の費用に当て、そのほか金・銀・銅・鉄の鉱山を開き、炭鉱の開発などにも十分に意を用いよ。

と云うものだ。

この文中の「お前たちの答申」とは、この約3年前の嘉永6(1854)年12月にロシア使節・プチャーチンが長崎で提起した、ロシアとの樺太や択捉島近辺の境界線を確定する目的で、幕府が安政1(1854)年2月、堀利煕と村垣範正を実地調査のため蝦夷地及び久春古丹(クシュンコタン、=樺太の地名、現ロシア・極東連邦管区・サハリン州コルサコフ)に出張させていた。この現地調査中に請負制で虐げられ困窮する現地のアイヌ人達を見て、ロシア人がこんな人心乖離のスキを突き侵入する危険性を見て取った村垣と堀は、現地から帰府の上10月28日、2人の現地調査結果に基づく蝦夷地警衛とその開発につき、「東西の蝦夷地を直轄とし、北蝦夷地の日露国境は不定のままとして置くべき」、また「現地物産の運用を中心に経費の独立を図り、屯田兵の制度を建つべし」と、伊勢守宛に9月28日付け報告書と共に建議した。これにより幕府は、安政2年3月4日これを実行に移し、松前藩から東西蝦夷地を上地させ箱館奉行預けにし、仙台藩など5藩に夫々警備地区を指定し警備させている。そして更に安政3年2月、老中首座・阿部正弘から改めてより具体的な蝦夷地開拓方針についての諮問が箱館奉行宛に出された。この時、村垣範正は「東海道筋諸川普請用掛」を命ぜられ一時的に箱館奉行職から外れていたが、箱館奉行・竹内保徳と堀利煕が前回と同様に幕府直轄とその具体策を建議したものを指す。阿部伊勢守のこの「蝦夷地開発は幕府直轄で」という方針は、基本的に、堀と村垣の当初からの上申意見を採用したものだ。

そして更に、この老中に宛てた、村垣自身の安政1年9月付け東西蝦夷地や北蝦夷地の実地見分報告書の中にも、

東西蝦夷地の南側7割の内4割ほどは、山岳や雑木・雑草が生い茂る土地だが、その中から湧き出す物産は少なくない。開闢以来人手の入らない土地だから、金・銀・銅・鉄・鉛・錫等の気を含む色石が山合や谷間に流出している場所が方々にある。砂鉄に至っては、海岸や川端に5、6里あるいは2、3里程づつ、厚さも2、3寸から1尺程も連続して堆積した場所が多くある。

と報告しているから、自身の現地調査からも、鉱山開発の多くの可能性を実感していたのだろう。

文久1(1861)年に外国奉行兼箱館奉行として、樺太などロシアとの北方領土駆け引きもより重要になってきた箱館赴任を再度命ぜられた村垣が、前述の阿部伊勢守の蝦夷地開発方針に明示してはあっても非常に進展の遅い鉱山開発を促進し、少しでも現地収入を増やすべく、自身がアメリカで見聞して来た金鉱やその他金属鉱山の開発を念頭に更に効率よく大規模な鉱山開発を行う重要性を考え、ハリスに専門家の派遣を依頼したものだった。

♦ パンペリーとブレイクの日本到着

この外国奉行・村垣の要請を受けたハリスは、3月16日付けで早速サンフランシスコの知り合いの商人・ブルックス宛の依頼状を書き、その手配を頼んだ。カリフォルニアでは1849年以来金鉱が積極的に開発され、アメリカ政府はカリフォルニアはもちろんアリゾナやニューメキシコなどでも各種鉱山開発に積極的だったから、優れた技術者を雇うにはサンフランシスコを中心にアメリカ西部は最適地だった。この出来事を契機に、日本のサンフランシスコ駐在領事の役割を自ら演じてパンペリー、ブレイクと雇用契約を結び、後日の慶応3(1867)年9月28日付けを以て幕府から正式に日本国領事の肩書きを与えられるチャールス・W・ブルックスに雇われたパンペリーは、後に鉱山技術者・地質学者・考古学者・探検家として著名なハーバード大学教授になり、ブレイクもまた政府の技術者からカリフォルニア大学やアリゾナ大学教授になる人たちである。ブルックスについては、ハリスが書簡を書いたチャールス・ブルックスの「鉱山技師の招聘」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) や、その頁内の他項を参照されたい。

ブレイクとパンペリーは1861年11月23日、サンフランシスコから快速航洋大型帆船・キャリングトン号に乗り、ハワイ経由横浜に向かった。途中の航海では無風と暴風や飲料水不足に苦しみ、難航し大巾に遅れはしたが、1862(文久2)年2月20日無事に横浜港沖に着いた。上陸は23日だったが、全ての航海で横浜に入港する外国人同様、パンペリーは北西に雪化粧で聳え立つ富士山の印象が強烈だったようだ。この後、折に触れ綺麗に聳え立つ富士山に触れているが、鉱山・地質学者の目からの興味もあったのだろう。上陸すると横浜駐在アメリカ領事・ベンソンとオリファント商会社員・ブロワーが迎えてくれたが、箱館行きが決まるまでの滞在先は彼らの家で部屋を借りる事になった。

♦ 横浜近郊の散策と箱館行きの準備

神奈川奉行所に到着を報告した後、横浜で面会した江戸に居る箱館奉行・糟屋筑後守は非常な紳士で、その親切さと優雅さは、パンペリーが昔会ったローマ法王・ピウス9世のような物腰だったと云う。パンペリーはこの時の奉行との会話を次のように書いている。いわく、

奉行は、日本の沿岸に近づいた時の海の色、水や魚の味、そのほか何からであっても、日本に埋蔵される金属類の多寡を判定出来ましたかと聞きながら、話の本題に入ってきた。奉行は、我々の「否」の言葉に少し驚いたようだった。これは、日本の役人や北京の外務部の役人と会った時、答えねばならないまず最初に出てくる、似たような長い質問だ。

この奉行の言葉に代表されるのは、それまで日本古来の、いわゆる「山師」たちが一種の経験からそうであろうと思っていた「山相学」などが当時ポピュラーであった事を示唆するものだ。朝夕山の霊気を見て鉱脈を探そうとするような山相学に対し、ブレイクとパンペリーの2人は、科学的・体系的な地質学上の鉱山開発手法を教授し実施しようとやって来たのであり、そんな科学的手法が日本で待たれていたわけだ。更に奉行は、数時間もかけて日本に持ってきた測量天文経緯儀、水準器、クロノメーター(経線儀)、六分儀、気圧計などを熱心に見て回り、自身でも科学の勉強をする時間がほしいものだと言っていたという。

その後、2人の横浜到着後1ヶ月半たっても箱館行きの具体的計画が決まらなかったが、ブレイクとパンペリーが到着する10日ほど前に老中・安藤信行が坂下門外で水戸藩浪士の襲撃を受けた事件があったばかりで、またも幕政が混乱していた時だ。これが直ぐに箱館行きの計画が固まらなかった原因のようだが、2人からの再三の問い合わせに、神奈川奉行所でも返答が出来ず困惑が続いていたのだ。

ここで時間の余裕が出来た2人は、4月2日、横浜駐在のニューヨーク・トリビューン紙記者・フランシス・ホールや商社員・ロバートソンなどの仲間4人で馬に乗り、大山まで遠足・登山に出かけた。横浜から西方にくっきり見える丹沢山地はなかなか興味を引く山々だが、中でも大山は一番横浜に近く丹沢山地の南東側にあり、形も良く、現在でも関東百名山の一つとして人気が有る。当時、横浜に居た外国人にも興味を抱かせ、「横浜から10里以内」と条約で合意された自由行動区域の中で最も遠出の出来る遠足目標地だったようだ。この大山遠征について、フランシス・ホールは例によってその横浜滞在日記の中に長い記述を残しているが、ブレイクやパンペリーにとってこの遠征は、日本の文化にどっぷり浸かる初体験だった。郊外の普通の日本宿に何日も泊り、日本の食事をし、始めて日本の生活を体験したパンペリーいわく、

日本滞在中多くの習慣に馴染み、箸が使えるようになり、刺身も食べる事ができたが、日本の2インチ幅の(箱型の)木枕にバランスよく頭を乗せて寝ることだけは、頭と首に木枕をくくり付けても上手く行かず、全く絶望的だった。

と云うほど当時の習慣の木枕に戸惑ったようだ。蝦夷地と云う更なる僻地を探査する事になる2人には、程よい異文化の初体験だったろう。しかしパンペリーは、蝦夷と云う僻地を覚悟していたのか、日本語の文字の読み書きの練習はとうに諦めてしまったが、会話を何とかものにしようと努力していたし、歴史的観点から当時の幕府の政治的立場を理解しようともしていたように見える。

♦ 箱館に向かう


函館山の頂から函館市街の俯瞰:
一行は、この函館山の麓の奉行所を左の函館湾
沿いに出発し、右の津軽海峡沿いに帰って来た。

Image credit: 筆者撮影

アメリカのハリス公使と交代する新しいプルーイン公使が4月25日、サンフランシスコからリングリーダー号で横浜に到着した。この船は更に、同行して来たライス箱館駐在領事を乗せ箱館に向かう予定を知ったパンペリーとブレイクは、神奈川奉行に掛け合い、幕府は直ちに外国奉行を横浜に差し向け、リングリーダー号での2人の蝦夷行き計画を決定した。

このアメリカのライス領事は、ハリス総領事の下田赴任より約9ヶ月遅れで突然箱館に着任し、ハリスもこれを後で知ったほど早かったが、1857(安政4)年4月以来だから箱館駐在は長い。この時はアメリカに一時帰国し、また戻ってきた時だった。パンペリーやブレイクもこの横浜から箱館への数日の船旅で、恐らくライスから蝦夷地の情報を貰っただろうと思う。

1862年5月9日(文久2年4月11日)、パンペリーとブレイクはこのリングリーダー号で無事箱館に着いた。また、あらかじめ別船でサンフランシスコのチャールス・ブルックスが横浜に送った分析に必要な物品、すなわち、硫酸、塩酸、硝石、酢酸、酒石酸、曹達、亜硫酸鉄、硝酸銀、酢酸鉛などの試薬類、顔料、大小ロート、濾紙、各種びん類などの分析器具類も、また多くの鉱山や鉱物、地質学関係の書籍類も一緒に届いた。筆者は2人が持参した書籍類の詳細を知らないが、例えば持参したといわれる「レールの地学 (Principles of Geology, Charles Lyell)」などは当時の最先端の地質学専門書で、チャールス・ダーウインにも大きな影響を与えたといわれているものだ。これは、あるいは同じ Lyell の「The Student's Elements of Geology」の方だったかも知れないが、その他、ブリタニカ百科事典、アップルトン機械工学辞典等々、理工鉱学関係書籍もサンフランシスコのチャールス・ブルックスの購入リストの一部に見える。こんな例を見ても、持参した専門書は当時欧米での先端書籍類だったはずだ。開国したばかりの日本の最北の蝦夷地に、当時、世界でも最先端を行く地質学や科学技術専門書が届き、それを講義できる科学者が招聘されたという事実は、全く素晴らしい出来事だった。

箱館奉行所では早速2人に仮の宿泊所を提供し、しばらくしてブレイクから提案された「箱館鉱山学校(School of Mines and Applied Science)」の見取り図によって、実験や研究、講義の出来る、ガラス窓を造り付けた西洋式のしっかりした建物の建築に取り掛かった。

箱館奉行所からは新知識習得のため5人の役人が指名され、西洋科学を学び専門知識のある武田斐三郎(あやさぶろう)、大島惣左衛門の2人、鉱山担当・奉行所勘定役の立(たち)勝三郎と岩尾勝右衛門の2人、そして通詞兼生徒として宮川三郎。これらの5人は、パンペリーとブレイクにとっては同時に補助要員、警護役、そして鉱山学を学ぶ生徒でもあったが、5人の外更に、恒例の目付けも1人付いた(筆者注:この5人のフルネームは、五人の学生を参照した)。


函館の五稜郭にある武田斐三郎顕彰碑
Image credit: 筆者撮影

これら5人の中で、長崎でロシア使節・プチャーチンとの会談に蘭語通詞として参加した後幕命で箱館に赴任していた武田斐三郎は、安政3(1856)年8月、箱館奉行支配・諸術調所教授役に任じられた。もともと大阪で緒方洪庵の適塾で学んだ蘭学者の武田は、箱館奉行・村垣の許可の下、安政4年4月に来日したばかりのアメリカの箱館領事・ライスの事務所や時々箱館に入港するイギリス船などを随時訪れ、英語の習得と諸術知識の向上に努めていた。また赴任して以降各種鉱石の分析なども箱館で行い、箱館近くの古武井(こぶい)村の砂鉄を原料とする高炉(現・函館市高岱町−たかだいちょう)を造っている。更に安政4(1857)年には、箱館の「五稜郭」で知られる洋式砲台を設計し、塁濠、役宅、備砲、掘割など合計18万3千両の予算で、元治1(1864)年に完成させている。また文久1(1861)年4月にはアムール河口・ニコラエフスク辺りにまでも幕府船・亀田丸で出かけロシアの状況探索をするなど、多くの分野で箱館奉行が蝦夷地を治める現地頭脳となっていた人物だ。こんな有能な教授・武田斐三郎の教える箱館の諸術調所には、本州の方々から、優秀な人材が勉学のために集まったという。

この洋式砲台の築造は、安政1年12月(1855年1月)と云う早い時期から当時の箱館奉行・竹内保徳と堀利煕(としひろ)がその必要性を幕閣に建議し、また翌2年4月、堀利煕がコルベット型かフレガット型軍艦2艘の箱館への緊急配備を要請し、併せて蒸気軍艦1艘も要請していた。この要請により幕閣はその年、安政2年8月2日、既に「カロライン・E・フート号でやって来たアメリカ商人たち」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) でも書いたように、下田でディアナ号を失ったロシア使節・プチャーチン提督が伊豆の戸田浦で緊急に造船し、安政2(1855)年3月に完成したヘダ号をモデルに、日本側が引続き建造したいわゆる「君沢型」と呼ばれる2檣スクーナー3艘の内の2艘を箱館に交付する事を決めていた。同時に幕閣は、堀利煕が示唆していた箱館での造船の可能性を取り調べる事も指示した。この幕府船・亀田丸の箱館奉行所への配備は、この幕閣の指示により箱館奉行所が続豊治に命じ、安政4、5(1857、58)年に独自に建造した「箱館型」と呼ばれた2檣スクーナー2艘の内の1艘である。ちなみに、箱館奉行所へ交付する「君沢型」スクーナーの2艘は、安政3(1856)年7月8日、品川沖で引渡しが行われている。

武田はこんな優秀な人物だったから、当時箱館内澗町二丁目に住んだ雑貨・清酒類を販売する商人で町名主を勤めた小嶋又次郎に見込まれたのだろう、その娘・美那子と結婚したという。この小嶋又次郎は、ペリー艦隊が箱館に来た時その行動を細かく観察し、「亜墨利加一条写」という170頁以上にも上る記録を残している。小嶋又次郎もまた、隠れた町の学者とも呼べる人物だったようだ。

大島惣左衛門すなわち大島高任(たかとう)は日本で始めて、砂鉄ではなく鉄鉱石を原料に連続出銑する西洋式の釜石高炉を安政4(1858)年12月に成功させ、明治になって岩倉使節団に随行したり、後に開拓事業などでもその名前が良く知られている。従ってこの2人は、当時の日本でも最先端を行く冶金、洋式軍備、鉱山開発、天文・航海術などの専門家だったわけだ。

また通詞・宮川三郎(後に塩田三郎)は、箱館に居た仏国神父・メルメ・カションからフランス語と英語を習い非常に優秀だったから、仏国全権公使・ドゥ・ベルクールが文久1(1861)年10月老中に書簡を送り、フランス公使館で通弁学生として雇いたいと懇請したほどの若者だが、現地の箱館奉行も手放さない貴重な人物だった。翌文久3年(1863)年には横浜鎖港談判使節・池田筑後守に通弁御用出役・調役格として随行し、明治になって外務省に出仕した人物である。

こう日本側の人選が決まると、パンペリーとブレイクは早速現地に出向いての実地調査を計画し、1862(文久2)年5月23日、使用人も含めた合計11人のキャラバン隊が編成され、箱館を出発した。日本政府との契約はまず蝦夷地を探査し、応用可能な洋式採鉱技術と冶金技術の伝授だったから、現地の状況調査は不可欠であったのだ。

♦ 一回目の現地調査

函館山を背にして港を見下ろす奉行所を出発した一行は、函館湾の北岸沿いを西に進むと、湾の中央辺りから大野川沿いに北上し、唯一の水田耕作が始まっているオーノ・大野村に向かった。現在もこの辺りの地図を良く見ると、大野川西岸の村内地区に「水田発祥之地」という碑(現・北斗市村内)があるが、大野村についてパンペリーは、

数年前までこの地(筆者注:蝦夷地)は松前藩に所属していたが、幕命により松前、仙台、津軽、南部、安房の五藩に分かたれ、幕府直轄地としても広い地域を所領するようになった。昔は漁師などが海沿いに住むだけでかなりの収入もあり、それ以外の活動は禁じられていたようだ。分割後は本土からの入植が計画され、多くの資源活用のためあらゆる職業の育成が考えられ始めた。この実現のため、百姓やその他多くの人々に土地を適切な価格で頒布し、役人の公用旅の引継ぎ用にも徴用できるよう、農耕馬も貸し与えた。こうして大野村では、何軒もの農家が、品質は劣るが耐寒性の米を収穫し、生糸生産のため充分な養蚕も行われている。

という記述をしている。

ここで筆者はこの「安房」を問題にするのだが、事実幕府は、下見を終えたペリー提督が箱館を去るとすぐ安政1(1854)年6月26日、松前藩に命じ開港地となる箱館とその近辺を上地させ、幕府直轄地とし奉行所を設けた。更に翌安政2年2月22日、松前藩に命じ松前城付近を除く全蝦夷地をいったん上地させ、仙台藩・弘前(津軽)藩・盛岡(南部)藩・久保田(秋田)藩・松前藩の5藩にこの広大な地域の分割警備を命じ、安政6年9月には蝦夷地警備の4藩、すなわち仙台・弘前(津軽)・盛岡(南部)・久保田(秋田)に庄内藩、会津藩を加えた6藩に蝦夷各地を分け与えて夫々の警備・開拓・経営を命じている。前述の如く幕閣・阿部伊勢守の基本方針は、「蝦夷地の経費は、その場所から上がる収納金で支弁しながら開拓すべきもの」であったから、現地の生産活動の活性化に意を用いたわけである。

この様に、「安房」は蝦夷地の経営には参加していないが、パンペリーは、こんな幕府の蝦夷地経営の経過説明の中で出てきた「秋田」を「安房」と聞き違え上記のように記述したのだろうか。あるいは恐らく、パンペリーの質問に答えた日本人の記憶違いで、「秋田」を「安房」と言い間違えてパンペリーに説明したのだろうか。いずれにしても、細かく聞き取り調査をした形跡が良く分かる記述だ。

箱館から渡島半島を巡る、パンペリーとブレイクの踏査経路
第1回ルート(赤線)、第2回ルート(オレンジ線)

Image credit: @ 筆者作成

この大野村から大野川に沿ってよく木の茂った谷に分け入ると、すぐ近くのイチノワタリ・市渡(いちのわたり、現・北斗市市渡)で、岩がむき出した急流の流れに面し、鉛を採掘している鉱山に着いた。パンペリーの観察によると鉱石は、亜鉛混じりの黄鉄鉱と黄銅鉱を含んだ方鉛鉱で、主としてマグネサイト系の脈石で、脈は炭酸カルシウム珪質粘土と緑岩で構成されていた。蝦夷地の鉱山はポンプ設備を使わず、排水のため坑道入口より低くは掘っていなかったが、坑道は天井が低く狭くても木材でよく補強されていた。後にパンペリーがユーラップ鉛鉱山で発破を仕掛ける方式を導入するまでは、片方がノミでもう一方が槌で、柄に突きがね付きのハンマーを使い、非常に効率の悪い掘り方だった。掘った鉱石は手で選り分け、粉砕していた。しかしパンペリーが驚いたのは、日本のしかもこんな山の中で、粉砕方法は、効率の悪さを別にすればイギリスのコーンウォルやドイツと同じ原理を使用していることだった。その後、水洗、溶解、精錬を経て鉛を得ていたが、その規模は小さいものだったという。

その後また北上し、現在の大沼公園の近くのスクノぺで一夜を明かし、モクレン、ブナ、シラカバ、モミジ、カシなどの茂る森を抜け、コマンガダケ・駒ケ岳の頂上に立った。眺めはすばらしく、北には噴火湾(=内浦湾)が広がり、その向こうにあたかも海中から突き出ているようにも見えるオーウッス・大有珠山が見え、硫黄に覆われた崖が輝いて見えていた。駒ケ岳から下り、更に北上しつつ、深い森や湿地の丸太道を通りながら噴火湾の岸辺にまで到達した。

駒ケ岳の北側の海岸を回ると山肌には明らかに火山灰に打たれ枯れた大木が多く見え、7、8年経ったと思われる下生えがかなりの木に成長していたが、露出地層が見える崖を見るかぎり、永い間にこんな噴火が繰り返された歴史がはっきり分かったと云う。更に山すその海岸を東南に回ってシカベ・鹿部村(現・茅部郡鹿部町)に着いたが、浜辺に70℃から75℃もある幾つもの温泉が湧き出し、その上に小屋掛けをし病人が訪れていた。更に行くと、黒い砂鉄が波にもまれ固まった砂浜が続いていた。そのまま海岸を進み、ミルクのように白い斑岩の上を流れる澄んだカクミ・川汲(かっくみ)川を遡り、川汲には温泉もあったが、暫く行くと川汲鉱山(現・函館市川汲町)に出た。ここには少し望みのありそうな金鉱と、少し離れて銅鉱脈上に現れた金鉱だが、両方ともすでに廃坑にされていた。2番目のものは坑道の入口付近で見る限り黄銅鉱で、人件費の安い蝦夷だったら採掘に望みがなくもなさそうだった。その後また川筋を引き返し、ウォサツベ・尾札部(おさつべ)村(現・函館市尾札部町)から16丁の櫓と櫂で漕ぎ水の上を飛ぶような速さの船に乗った。

この船旅は強い印象を与えたようだ。パンペリーは、常に陸地近くを通り周りの景色が良く、澄んだ水の中は海底の岩が良く見え、長い昆布が生え、海草やイソギンチャクや貝がびっしりと付き、その色も鮮やかだった。崖からは幾つもの滝が落ち、遠くには火山が見え、崖には各種の地層も顔を出していたと書いている。一旦、小さい漁村のトトホケ・椴法華(とどほっけ)村で一夜を明かし、翌日また馬の旅を続けた。椴法華村は現在の函館市銚子町椴法華だが、この辺りでは最東端の恵山(えさん)岬にある。このエサン・恵山は活火山で、日産2.5トン余りの幕府の硫黄採取場があり、一行はそこを訪れた。パンペリーの観察では、この半島一帯が昔の大きな火山の噴火口だったろうと云う。この硫黄採取場から南に海岸まで降り、ニエタナイ村で一泊した。

翌日ここから海岸沿いに箱館に向かったが、コブイ・古武井(こぶい)村(現・函館市古武井町)辺りの浜にはいたるところ大量の砂鉄が見られ、長い間に周りの崖から崩れ波に洗われ堆積したもののようだと云う。この古武井の砂鉄を見た時に、パンペリーと武田や大島の間で溶鉱炉の話が出たのだろうか、あるいは箱館への道の途中だから、武田の建設した古武井の高炉そのものを見たかも知れない。パンペリーは、

武田はオランダの本を参考に、高さがおよそ10mほどで、水車駆動のシリンダー型フイゴを備えた高炉を造った。参考にした本には細部情報がなく、残念ながらフイゴは弱すぎ、煉瓦は十分な耐火性がなかった。数百貫の銑鉄を溶解したが、成功とは呼べなかった。しかしこの出来事は、今後の事業の実証例になるだろう。もう一人の侍の大島は、多くの試行錯誤の末、南部藩で似たような企画を成功させている。

と武田や大島の高炉建設とその結果を記述している。また箱館への道すがら、更に幾つかの有望な黄銅鉱鉱脈を発見し、第一回目の探査旅行は終わった。

当時たまたま箱館や蝦夷地でハシカが大流行していて、探査旅行に参加した侍たちの家族にも患者が出ていたので、2ヶ月以上も箱館で足止めされる事になった。パンペリーとブレイクはこの間に冶金や鉱物・鉱山について学問的な講義を行ったが、系統だった基礎的な学問が不足している事や、この分野の日本語の術語が定まっていない中での講義はなかなかの難事だったと云う。数学を駆使しての航海術に習熟している武田斐三郎などにも、冶金・鉱山学などの科学的な面に応用する数学は新分野であり、苦労もあったようだが、彼らの努力は大変なものだったとパンペリーは記述している。

♦ 二回目の現地調査と爆破作業の実施

それまで流行っていたハシカもようやく下火になったので、1862(文久2)年8月5日、今回は主として西海岸を目的に探査旅行に出発した。1日目は前回のルートを取って北上し、噴火湾沿岸のワシノキ・鷲ノ木(現・茅部郡森町字鷲ノ木)まで行き泊った。この噴火湾は、ここから対岸のエドモ岬(現・伊達市南有珠町エントモ岬)まで約40マイル程もある円形の湾だと記述している。この海岸を北上し大きな漁師村のヤムクシナイ・山越内(現・二海郡八雲町山越)に来ると、近くの海岸と崖の間に数千坪にも及ぶ湿地が広がり、その中のいたるところに生暖かい温泉が吹き出して、タール状に固まった石油分を露出させていた。そしてパンペリーは、近くの僧侶たちはこれを燃やして灯火とするだけでなく、油分を使い墨を造っていたと記述している。僧侶たちは親切にもてなしてくれたが、パンペリーがボーリングで深い穴を開け石油を自噴させる話をすると、信じられないといった面持ちで話しを聞いていたと云う。事実、エドウィン・ドレークがアメリカのペンシルベニア州タイタスヴィルで最初の石油掘削のボーリングに成功したのが1858(安政5)年8月で、パンペリーが日本へ来る3年前の話だ。パンペリーとブレイクはそんな最新情報をももたらしたのだが、日本の蝦夷地では夢物語だったのだろう。


パンペリーとブレイク一行はこんなアイヌ部落を通ったのだろうか。
Image credit: 「The Ainos in Yezo, Japan」 by Romyn Hitchcock

少し北の宿泊地・ユーラップ(現・二海郡八雲町、遊楽部・ユーラップ・川に名を残す)の手前でアイヌ部落を通ったが、会った村の男たちは長いヒゲをさすり、口に当てた手を優雅に下げながら、アイヌ流の挨拶をした。パンペリーは彼らの特徴を和人と比較し、簡単な歴史と生活を書き、現在は穏和で性質の良い人々だと書いている。「現在は」と断って書いているのは、当時から約200年程前にあった日高の酋長・シャクシャインの蜂起の戦いの決戦場でもあったというすぐ北のクンヌイ・国縫(くんぬい)やこの辺りで、アイヌの人々が不当な商売を強いる和人に抵抗した歴史を聞いたのだろう。

さて一泊の後、ユーラップ海岸をクンヌイ・国縫(現・山越郡長万部町字国縫)まで北上し、ここから国縫川に沿って内陸に進んだ。海岸を離れると、暑い日だったので2cm以上もある茶色のアブや黄色のアブ、ハエや蚊などの攻撃にさらされながらもトシベツの谷(現・後志利別・シリベシトシベツ・川の谷)に下り、やっと国縫金山の役人宅にたどり着いた。大変な1日だった。この国縫金山は砂金採取の金山で、翌日その収集法を視察したが、流れる川水に長さが60cm、幅が30cm程のマットを沈め、砂金を含む土手の周りの粘土や砂を鍬で取りマットの上に流すと、重い砂金はマットの上に沈み土は流れ去る。このマット上の堆積物を別の板皿の上に移し砂金を選り分ける方式だった。これは日本の昔から佐渡金山などで行われた方法で、「ねこ流し」と呼ばれたようだ。周りの状況から長年砂金取りが行われていたようだったが、収穫は微々たるものだったと云う。

またもと来た道を引き返し、国縫から海岸を北上し、宿泊場所のウォシマンベ・長万部(おしゃまんべ)村に着いた。翌日長万部から内陸に入り、日本海側のオーダスツ・歌棄(現・寿都郡寿都町歌棄・うたすつ)を目指し、途中から朱太(しゅぶと)川を船で下り、川口近くでまた馬に乗り換え、やっと歌棄村に着いた。ここから岩山続きの道を日本海側海岸に沿って北上し、イソヤ・磯谷村(現・寿都郡寿都町字磯谷町)を目指した。磯谷から尻別(しりべつ)岬の高見に登ると、眼下の内陸に向かって緩やかに起伏し、シリベツ・尻別川に沿った広大な葦原が広がっていた。尻別川を渡ったが北側はライデン・雷電山に続く山々が立ちはだかり、雷電山の山裾を回ると溶岩のむき出した荒れた台地だった。これを北に下ると急流の流れる谷で、日暮れにユノナイ温泉(現・岩内郡岩内町字敷島内・しきしまない)に着いた。この谷には幾つもの硫黄鉱泉が湧き出し、岩内町の宿の系列宿が幾つもあり、湯の温度は40℃から50℃だった。ここの湯も、一回目の探査で訪れた川汲(かっくみ)温泉と同様、雪のように白い石英を含んだ斑岩と密接に関係していると云う。

イワオヌプリを取り巻く景観の鳥瞰図
Image credit: @ 筆者作成
Original view credit: applied Google Earth

翌日はまた険しい雷電山の続きを下り、海から内陸の山々に続く広い平野にあるイワナイ・岩内町(現・岩内郡岩内町)に着いた。岩内は蝦夷地でも主要な町の一つで、役人が駐在していたが、役所で挨拶が済むと早々、火山のイワオウノボリまで行く旅に必要な馬と案内人を付けて貰う話をした。イワオウノボリは現在の虻田(あぶた)郡倶知安町(くっちゃんちょう)字岩雄登(いわおと)、すなわちイワオヌプリ、別名、硫黄山のことだ。現在では北海道ニセコ・リゾート山地の中心に近く、良い道も付き大いに開発が進んでいる土地だが、当時開けていた北西の岩内町から入るにしても大変な僻地で、山の中だったわけだ。翌日早朝に案内人たちは乗馬と荷馬合わせて26匹の馬を連ねてやって来たが、平らな草原を通り越して山道にかかると、何処にもないほどの悪路の連続だった。基本的に深い湿地帯で、葦がびっしり生え、鋭い剣を逆立てしたような道の連続だった。すると山合に突然樹木が途切れ、周りをびっしりと笹に覆われた綺麗な沼が現れた。この緑の絨毯は、その向こうを取り囲む黒や灰色に聳え立つゴツゴツした岩山や崖が、キラキラ光る硫黄や鮮やかな赤や黄色の縞模様に覆われた山肌と鋭い対比をなしていた。この沼は、おそらく現在の大沼だろうと思われる。沼の脇を通り低い峠を越すと、山裾の硫黄採集場に着いた。山の頂上まで行って周りを見晴らそうとしたが、突如として霧が巻いてきて不調に終わってしまった。

翌朝頂に立つと、このイワオウノボリは亜硫酸ガスなどを多量に噴出している典型的な大規模噴気孔火山で、この頂上からの観察から、周りに少なくとも15の山頂が見えた。近くは羊蹄山から、南東地平線にはすでに訪れた恵山や駒ケ岳が認識できたが、これらは大昔の巨大火山の名残であろうとパンペリーは云う。今地図を見れば、確かに噴火湾が大昔の巨大噴火口で、それを取り巻く恵山、駒ケ岳、遊楽部岳、狩場山、大平山、ニセコアンヌプリ、羊蹄山、恵庭岳、樽前山、有珠山などその外輪山を形成しているように見えなくもない。そして更なる観察では内陸に入る事の困難さも見て取れた。この公儀の硫黄採掘場は14基の釜が操業し、月産30トン余りの産出量であった。

岩内に引き返すとさらに海岸を北上し、船で遡れるほど大きく、川口辺りまで一面小石が積もったシリブカ川を渡り、馬に乗ったり船に乗ったりしながら小さい漁村・オーウスベツ(筆者注:現茅沼村あたりか)に着いた。翌日はカイヤノベツ川を遡り、1マイル程内陸に入ると、沙岩とけつ岩が堆積した中に最高4フィートの厚さがある3つの接合面を持つ高品質の瀝青炭を発見した(筆者注:後の旧茅沼炭鉱あたりか)。オーウスベツ村の海は非常に綺麗で、船に乗る村人が岩からアワビを捕っていた。これをスープにして食べたが、牡蠣に匹敵するほど美味で、日本人の大好物だった。日本人は全ての海産物を好み、ナマコ、イカ、ウニ、各種海草類など多くの素晴らしい食材があると云う。

更に北上して探査を続けたかったが、冬篭りの前にもっと鉱山を調べたかったので、この一般探査旅行を終える事に決定した。8人の櫂の漕ぎ手と4人の櫓の漕ぎ手で操る船は帆も揚げ、短時間で岩内町に帰り着いた。8月25日に岩内を出船し、雷電岬を回り磯谷に着船した。その後も馬に乗り、また船に乗り、小さい漁村で泊り、オウスベツ村に着いた。この村には大きな更生刑務所が建設中であり、刑務所内で軽作業をしながら更生を図る施設で、アメリカの州刑務所に習ったものだと云う。川沿いや川底を馬で遡り苦労しながら10kmほど上ると、幾つかの小屋掛けがある温泉に出た。湯の温度は54℃から58℃で、石灰と鉄分を含み、多くの湯治客が居た。パンペリーの記述からはこれ以上の地名特定が出来ず良く分からないが、筆者の想像では、現在の臼別温泉(うすべつおんせん、せたな町大成区)ではないかと思われる。翌日また海辺に戻り、クマイシ・熊石村(現・二海郡八雲町熊石)に着いた。

トマリガワから内陸に向かい、東側に向かう山越えに入ったが、途中で大きなヒグマに出会ったりし、夕暮れにやっとユーラップ鉱山(現・北海道二海郡八雲町八雲温泉近辺、鉛川沿い、八雲鉱山とも呼ぶ)に着いた。ここは鉛鉱山で広い土地を掘った跡があり、46℃の温泉も出て鉱石洗浄に使っていたが、市渡の鉛鉱山同様に鉛の出鉱量は多くなかった。ここでパンペリーとブレイクは、日本鉱山史上初めて火薬を使い、発破による採掘法を実演して見せた。パンペリーは次のように記述している。いわく、

ここで、かって日本で試みられた事のない、最初の火薬による採掘作業を実施した。日本人は(火薬を詰める穴の)穿孔方法はすぐ理解したが、最初は、火薬を仕掛け、火薬を詰めた穴を塞ぎ、導火線に火をつけるというどんな作業もやれなかった。そこに居て各工程を見る事もせず、皆が坑道を飛び出してしまった。爆破が終わると、土砂が崩れ、向こう見ずの外人共は瓦礫の山に埋まってしまっただろうと期待しながらすぐ戻って来た。何時間もの労働力を使い、従来のやり方で1日に掘れる量よりはるかに多い掘削を行った爆破の結果が分かると、彼らの喜びは表現できないほどだった。この後は現場で穴塞ぎや着火方法を学び、すぐに助けも借りず、全ての工程を自分たちで出来るようになった。

パンペリーは、このような発破作業ができるようになれば、後は排水のための効率よいポンプ系統を導入すれば、高効率の鉱山開発が出来るだろうと書いている。パンペリー自身は、すぐにでもこういうやり方をこのユーラップ鉱山に設置したかったようだが、冬に向かった事と、その後日本の政治が更なる尊皇攘夷で不安定化する中、外国人の安全も考えた幕府は契約更新をしない事になって行き、排水ポンプの設置は不可能になってしまう。

この後一行は、ユーラップ鉱山から鉛川を下り遊楽部川に出て、噴火湾に出たところで今回来た道を引き返し、1862(文久2)年9月14日箱館に帰着し、40日あまりに渡る2回目の探査旅行を終えた。2人は箱館に帰ると早速奉行所に出向き、探査旅行の口頭報告をした。

2回目の探査旅行から箱館に帰った後も、本格的な冬になる前にアメリカ式の金の選別方法を導入しようとブレイクは国縫金山を再度見に行き、パンペリーは発破で採掘をして見せたユーラップの鉛鉱山に行った。更なる情報集めと発破作業試験の継続だったわけだが、忍び寄る冬の寒さには勝てず、引き揚げざるを得なかった。1862年11月21日(文久2年9月30日)付でパンペリーは箱館奉行・糟屋筑後守に、この更なる発破実験で岩の硬さにもよるが、従来の手掘りの2倍から4倍の生産性を挙げられる事が分かったと報告している(「パンペリー遊楽部調査報告」、北海道大学附属図書館北方資料室)。

後日パンペリーは2回に渡る探査旅行の地質観察を元に、「地質踏査図 −日本・南蝦夷地方の大要(Geological Route - Sketch, Southern Yesso, Japan)」を作成している。この種の地図としては恐らく日本始まって以来のものだろうが、2人が日本を離れる前に作成し奉行所に提出したのか、それより後になったのか、あるいは日本政府の手にあるのかないのか、筆者は知らない。しかしこの踏査図は、パンペリー著述の「Across America and Asia, by Raphael Pumpelly, Leypoldt & Holt, 1871」に載っている。

♦ 契約の更新中止と帰国

この頃の江戸や横浜の状況は、一行が2回目の探査旅行から箱館に帰着したちょうどその日の9月14日、すなわち文久2年8月21日に生麦事件が起きていた時だ。攘夷を言い募る朝廷は先鋭化し、勅使をもって幕府に京都警備を強化させ、9月24日幕府は会津藩主・松平容保(かたもり)を新設の京都守護職につけた。更に朝廷は、「まだ攘夷をしないのか」と12月3日、朝廷からの攘夷督促の勅使・三条実美が京都を出発し、これにより翌文久3(1863)年2月13日に将軍・家茂が攘夷の報告に京都に向け江戸を出発するという時だった。

こんな中の蝦夷地のアメリカ人による鉱山開発は、攘夷グループの非難の対象でもあったようだ。ブレイクが1863年1月8日、即ち文久2年11月19日付けで箱館奉行・糟谷筑後守に出した書簡内容から見ると、箱館奉行は文久2年10月14日付けで、「可及的速やかに日本を離れられる期日を以て」と、パンペリーとブレイクへ解雇通知を出している。パンペリーも、

攘夷主義者が大君を非難する言葉の中に、アメリカ人を雇い国家の資源を惜しげもなく夷人のスパイどもに投げ与えていると、我々に関係する言葉もある。追い詰められる立場を自覚し始めた江戸政府は、数多の緩和政策をやめざるを得ず、最初に我々との契約を中止した。これが1863年2月に起ったのだ。私のこの政府との関係は全て気持ち良いものだったが、日々に強くなる反自由主義者の脅迫の増長を見る事は誠に残念だった。

と、これから本格的に改善しようとしていた鉱山開発が、途中で中止せざるを得なくなった残念さを語っている。

基礎調査が終わり、冬の間に教育を施し、春から本格的に開発に取り掛かろうとしていた中で突然の契約中止だから、個人的には非常に残念な幕切れだったわけだ。箱館の学校での講義も、講義資料の翻訳遅れや契約中止などで捗った形跡がないが、それ以上の事は筆者もまだ知らない。ブレイクはあまりの残念さからか、箱館を去る前に糟谷筑後守に宛て、「日本人留学生を同伴して帰国したい」と提案し、また帰路の上海から再度村垣淡路守に宛てて、「留学生をアメリカに派遣したらどうか。自分が面倒を見る」と提案している。こんな風に、なんとか日本のためにと思う親切心もしかし、当時の政情から実現不可能な提案だったのだ。

別れに際して2人は、探査旅行に参加した5人の日本人とは心から別れを惜しみ、彼らもそれぞれに記念品を贈ったようだ。また箱館奉行・村垣範正や糟屋義明などの計らいで、幕府からパンペリーとブレイクへ蝋色蒔絵文机・硯箱のセットや手箱など日本の工芸品を記念に贈っている。更に文久2年12月23日(1863年2月11日)付けの、新しい箱館奉行・小出秀実(ひでざね)からアメリカ国務長官・ウィリアム・スーワード宛てに出した感謝書簡も日本の記録にある。

この様な経緯で、せっかく始まった蝦夷地鉱山開発も尊皇攘夷のうねりの中で中途半端な結果になってしまった。その後この鉱山開発や地質学調査の活動は、明治新政府になり組織された開拓使に受け継がれてゆくが、明治5(1872)年に開拓使顧問・ケプロンの要請でアメリカから来日した地質学者・ライマン(Benjamin Smith Lyman)の活動まで待たねばならなかった。
(パンペリー記述の日本への渡航から蝦夷地探査旅行は、主として「Across America and Asia, by Raphael Pumpelly, Leypoldt & Holt, 1871」によった。パンペリーがこの本をまとめて出版する前に、スミソニアン協会のジョセフ・ヘンリー事務長が主宰する「Smithsonian Contributions to Knowledge」シリーズ、No.202、1867年1月版に、当時のメモ形式の記録としても発表している。)

♦ 開拓使顧問・ケプロンの評価

パンペリーとブレイクの離日から約8年の後、日本の北方開拓の目的で明治政府の作った開拓使の次官・黒田清隆の懇請で、アメリカ合衆国大統領・グラントの下で農務局長となっていたホーレス・ケプロン(Horace Capron)が、明治4(1871)年8月、明治政府の開拓使顧問として来日した。ケプロンは明治8(1875)年5月に帰国するまで、北海道の総合的開発に多大な貢献をした事は良く知られている。

このケプロンが、明治8(1875)年3月15日付で開拓使長官・黒田清隆宛に提出した、開拓使顧問在任4年間をまとめた報告書、「Reports and Official Letters to the Kaitakushi ;(開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文)」がある。ケプロンはこの報告書の最初に、ウィリアム・ブレイクから得た1862年当時のパンペリーとブレイクの鉱山・地質探査及び教育活動の概略報告を載せている。そして報告書の巻頭にあるケプロンから黒田に宛てた書簡の中で、パンペリーとブレイクの活動を収録する必要性を次のように述べた。いわく、

ブレイク博士からの報告に関し、たぶん一言説明が要りましょう。その報告書には1862年に蝦夷の一部を探査した結果が盛り込まれていますが、その探査の本来の利益だけでなく、のちに開拓使主催の下に実測された多くの詳細事項に渡る再確認にから見ても、この報告書に収録する価値があります。

日本の後の歴史学習の中で、あまり知られて来なかった蝦夷地におけるパンペリーとブレイクの鉱山・地質探査及び教育活動ではあったが、開拓使顧問・ケプロンは、自分たちの先駆者としてこの様に敬意を表し、その指摘している内容を再確認し、その価値を認めたのであろう。

上の記述の如く、初めて蝦夷地の地質学上の踏査を行い、最初に発破採鉱方式を導入し、ユーラップ鉱山の効率を改善し、後の茅沼と思われる辺りで高品位瀝青炭の露頭鉱床を確認し、幾ヵ所かで銅・鉛鉱山の可能性を指摘し、イワオヌプリや恵山の硫黄鉱山を視察・確認するなど、当時としては先進的な鉱山開発の実践・指導・教育を行った先導者たちだった。残念ながら当時は、「尊皇攘夷」の嵐が吹きまくる時で、せっかく2人を招請した幕府もこの嵐に抗する事ができず、途中で計画を休止せざるを得なかったのだ。

「お雇い」という事

♦ お雇い外国人の始め

お雇い外国人と云う言葉は、その招聘が活発化し、ここに記述したラファエル・パンペリーやウィリアム・P・ブレイクを含む幕末から明治新政府の初期、そして更に明治20年頃まで良く使われたようだ。またこれを、「時の権力者や政府に直接雇われ、日本に滞在した外国人」と定義すれば、古くは、1600(慶長5)年に九州・大分の海岸、現在の臼杵市大字佐志生(さしう)に漂着し、その後その世界知識や航海・造船技術を評価され徳川家康に仕えた三浦按針ことイギリス人のウィリアム・アダムスが初めての人であろう。もちろんウィリアム・アダムスと共に同じ船で漂着したオランダ人・ヤン・ヨーステンも同様だったが、それ以来、三浦半島の逸見(へみ、現在の横須賀市西逸見町)に領地を与えられ、三浦按針筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) という純粋な日本名を名乗ったウィリアム・アダムスのほうが良く知られて来たようだ。

その後徳川幕府も末期になり、いよいよアメリカのペリー提督が蒸気軍艦・黒船を率いて浦賀に来ると、海防の遅れを痛感した幕閣は直ちに嘉永6(1853)年9月、長崎奉行・大沢定宅に命じオランダに軍艦、鉄砲、兵書を発注させた。2年後の安政2(1855)年8月25日オランダ国王は木造蒸気軍艦・スームビング号を幕府に寄贈し、大砲6門を装備した日本で初めての蒸気軍艦・観光丸が誕生し、日本で初めての海軍伝習が長崎で始まった。この時に、長崎海軍伝習所教授役に任じられたスームビング号艦長のペルス・ライケンとその部下たちが、上記のウィリアム・アダムスたちに次ぐ「お雇い」になったわけだ。また4年前に幕府が発注した大砲12門装備の軍艦・咸臨丸が、安政4(1857)年8月5日いよいよオランダから長崎に届けられ、長崎海軍伝習所に所属し、日本海軍の訓練に使われた。今度はカッテンディーケがペルス・ライケンの後任として長崎海軍伝習所教授役に任じられ、幕府のお雇いになった。

面白い例では、元出島のオランダ商館医師・フィリップ・フォン・シーボルトが、昔長崎から国外追放された罪が許され、文久1(1861)年4月18日から約半年間に渡り、幕府の顧問として雇われた例もある。

またアメリカ人に関しては、このパンペリーとブレイクの後、蝦夷地・北海道の開拓に関連して、今でも良く名前が知られている開拓使顧問・ホーレス・ケプロン(1871年)や札幌農学校初代教頭・ウィリアム・クラーク(1876年)がいる。また動物学者で東京大学教授・エドワード・モース(1877年)も大森貝塚発見・発掘者として知られている。しかしもっと以前の1860(安政7)年にも、咸臨丸のサンフランシスコ初渡航時に日本側に請われて乗組んだジョーン・ブルック大尉とその部下や、帰りにも日本側に請われて咸臨丸に乗組んだアメリカ人水夫たちをもお雇いと見ることも出来る。ここではしかし、現在殆ど知られていないが、幕府の正式要請でアメリカからやって来たラファエル・パンペリーとウィリアム・ブレイクを、「初期のお雇いアメリカ人」として取り上げた。

この様にお雇い外国人の活動は、地球規模の航海術や造船、蒸気軍艦や搭載火器の操練など、日本になかった新技術の伝習から始まっている。当然といえば当然ながら、日本人の特性とも言うべき、すぐさま新しいものを取り入れる柔軟さを示す事例である。

♦ お雇いの増加

諸外国と和親条約を結び、修好通商条約を結んで開国に踏み出した日本は、それまでオランダから蘭書を買うにも強い制限を設けていたが、急速に外国文明に追いつき、文明の利器を使いこなし、諸外国と同等な法治国家となるべく外国文化を勉強し始めた。これらの教授役としてあるいは顧問役として、幕府は言うに及ばず主要な藩も、その後の明治政府も、多くの外国人を雇い入れ近代化発展の助けとしたのだ。

特に明治政府になって、学問分野は言うに及ばず法律、金融、経済、鉱工業、農業、軍事などあらゆる実務分野にお雇い外国人が招聘され、その人数も、明治政府関係のいわゆる官雇用だけで、明治1年から22年までの統計数字で約2300人にも上るというから、半端な人数でない事が分かる。また招聘先も、イギリス、アメリカ、フランス、清国などからが多く、総人数の約80パーセント弱を占めたようだが、その出身国は14、5カ国にも上るという。この官雇用以外にも、宣教師の活動や、私的に招く高等学校や大学等の活動を通じた教師招聘はこの官営統計に表れていないから、現実ははるかに多かった事だろう。

この様に多くの専門家を外国から招聘し、日本国内でその文化技術の理解・習得とその向上に当たった事は重要政策の一つであり、短期間に西洋に追いついた原因の数多くをここに求める事ができよう。すなわち、教育こそが重要な国策の一つである事を実証する歴史的事実である。

 


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03/19/2017, (Orginal since October 2010)