日米交流
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History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

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10、中央集権と外交問題

ページ内容:

中央集権の強化

♦ 天皇親政の明確化

土佐藩の建言に背中を押され慶応3(1867)年10月14日に大政奉還を上奏し、その10日後には征夷大将軍職を辞した徳川慶喜は、朝廷内クーデターを成功させ明治天皇を押立てた革新派公家や薩摩藩が主導する朝議により、更なる辞官納地を要求された。これは、征夷大将軍になり叙任した朝廷の正二位内大臣右近衛大将をも辞任し、更に幕府所領の放棄と朝廷への返上を求めたものだった。

この要求に大反発する部下や親藩の兵たちの暴発を懸念する徳川慶喜は、いったん二条城から大阪城に引いたが、薩摩の西郷吉之助の江戸の町々のかく乱戦術に乗った薩摩屋敷焼き討ちの報が大阪に伝わると、朝廷を毒する薩摩を除き列藩の公議に依る公正な政治を要求する上疏提出のため、大阪城からの武装勢力が京都に向かった。しかし鳥羽・伏見で錦旗を押し立てた官軍と交戦になり、戊辰戦争が始まり、朝廷に弓引く朝敵の体になった徳川慶喜は、京都守護職・会津藩主・松平容保(かたもり)やその実弟で桑名藩主・松平定敬(さだあき)、老中の板倉勝静(かつきよ)や酒井忠惇(ただとし)などごく少数をを率いて江戸城に還り、更には謹慎し水戸に引き取り、江戸城も官軍に手渡された。


現在の皇居俯瞰(旧江戸城)
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明治天皇は明治1(1868)年3月14日、公卿諸侯を率いて紫宸殿に出て、天神地祇(てんじんちぎ)、すなわち全ての神々を祭り、国是とする五章、「五箇条の御誓文」を約定し、2ヶ月後にはこれに基ずく「政体書」が公布され国家の新組織が現れた。また江戸を東京と定め、江戸城を東京城と呼び、氷川神社を武蔵国の鎮守勅祭社に定め、天皇自ら東京に赴き、東京を帝都とし政治の中心を定めた。また同年の11月には諸外国公使たちを東京城に謁見し、名実共に日本国天皇が国政を行う「天皇親政」の姿を公式なものとした。

歴史的には、後醍醐天皇の3年間を除き、平氏六波羅政権以来700年以上にもわたって天皇親政が崩れていたわけだが、江戸幕府を最後にまた天皇親政が復活すると、徳川慶喜のみならず多くの封建領主が昔から持つ領国や人民も天皇に返還すべきという考えも強くなってきた。強力な諸外国と対等になるには、天皇を中心に日本国の意思統一が出来、総力を結集して研鑽し、技術・生産レベルを引き上げ、国力を蓄積すべき、という方向だった。しかし政体書で「府・藩・縣は御誓文を基本に政令を行う」と決まったが、旧来の藩体制はそのままで、新政府の活動はかろうじて中枢の薩長両藩の軍事力に支えられているだけだから、真の改革と中央集権はこれからだった。

♦ 版籍の奉還

禁門の変でいったん朝敵となった長州は、その後苦難を乗り越え密かに薩長同盟を結び、朝廷政権を実現した功績により許されて新政府に復活した。そんな長州の中心となる重鎮・木戸準一郎は、「天皇を中心に国論を統一し、全国民が一致して諸外国に対抗できる国にすべき」という基本命題を常に念頭に考えをめぐらせたようだ。明治1年3月に出された五箇条の誓文もまた、木戸のいう「前途の大方向を定め、天皇自ら公家、諸侯、百官を率い神明に誓い、国是の確定を天下の庶民に知らすべき」との建議から出たが、木戸はまたこれと軌を一にする発想から、版籍奉還を長州藩主・毛利敬親(たかちか)に説き、了解の上で新政府に建言した。

それは、前述の五ケ条の国是が固まる頃、すなわち2月に朝廷政治の中心に居る三条実美や岩倉具視に書簡を送り、「ご一新の政は無偏無私でやるべきで、国内では才能ある人材を登用し国民を安心させ、国外では外国と並び立ち、これにより国家を建て安泰にせねばならない。至正至公の心で七百年来の旧弊を一変し、三百諸侯の全てにその土地と人民を環納させるべき」と建言し、また盟友の薩摩出身の大久保利通に説き、版籍、すなわち領地と領民を天皇に返すべく動き始めた。しかし岩倉は木戸の建言に賛成ではあったが、これらの言論がすでに漏れて居たため、急速に事が運び過ぎ混乱を招くことを恐れ実行できずにいた。

11月になり、姫路藩主・酒井忠邦からも同様に、「現行の府藩縣の制度下では、諸藩でその家法・職制など夫々違い、府縣と藩で統一が取れていない。夫々の領地は預かり物だということを忘れ、自分の土地と思う旧弊もある。これでは朝廷の意も浸透しないから、ご一新ということで諸藩の版籍を収め、藩の名称も改めるべし」との建議が出された。これを知った伊藤博文からも、賛同の意見書が出されている。

この様な思考形態は、上述の木戸準一郎や酒井忠邦だけでなく、国家の頂点に立つ天皇の親政という新しい体制を考えれば、当時広く国民に理解されている儒教思想の「君臣の大義」から見ても、日本全国の土地と人民は天皇に属すべしという考え方は容易に発想され得るものだ。すでに、薩摩藩出身で留学経験者の寺島陶蔵も、慶応3年12月9日の王政復古クーデターを目途に藩論を整え藩主・島津忠義を奉じ西郷吉之助と共に上京する大久保利通に、「そもそも勤皇を唱え最も忠節を尽くすには、その封土と国人とを朝廷に奉還し、自ら庶人となり、志あらば選挙で選ばれる。こうなってはじめて公明正大な勤王家と云うべきだ。幕府はもとより諸侯も、版籍奉還すべき」と建言しているほどだ。

こんな間にも、東北の戊辰戦争の鎮定や、北海道で榎本武揚を総裁にしての蝦夷共和国設立というさらなる抵抗などもあり、また明治天皇の東幸などで東に西に行き来する新政府首脳の意思疎通もままならなかった。しかし上述の酒井忠邦も言うように、新政府直轄で動く府縣行政と、依然として旧藩主達が取り仕切る藩行政との齟齬なども顕在化し始め、その処置を講ずる必要が迫った。ちなみに明治1年閏4月21日発布の政体書には、新政府が直轄する府や縣には責任者として知府事や知縣事が任命され、「掌繁育人民、富殖生産、・・・」などと、すなわち庶民を教育し繁栄させ、生産を殖やし富の蓄積を図り・・・と、その行うべき職務が明記されている。しかし藩については責任者が諸侯とだけ記載され、職務は空欄だから、その後ある程度の指示が出されても両者の行政に齟齬が生じるのは当然だった。このまま放っておけば旧弊がはびこり取り返しがつかなくなると、早くから版籍奉還の必要性を唱える木戸は大久保とも話を煮詰め、土佐藩出身の後藤象二郎にも説き三藩の合意が固まり、これに佐賀藩も加わった。

薩摩・長州・土佐・佐賀の四藩の合意により、各藩主の連名で明治2年1月23日、木戸準一郎の草稿といわれる、「朝廷が一日も失ってならないものは『大体』、すなわち天皇の所有に帰さない土地は無くその臣でない者はいないと云う国家の本質であり、一日も見逃し出来ないものは『大権』、すなわち尺土も私有せず一民も私に排除しないという天皇の統治権である。・・・そもそも我ら臣の居る所は天子の土地であり、支配する者は天子の民であり、私有するものではあり得ない。今謹んでその版籍を奉還せん」と連署上表し版籍奉還を申請した。新政府はこの上表を大いに喜び、「天皇が再び東幸する予定であるから、東京で公議をもって裁決する。それまでに先づ版籍を精査し報告せよ」と命じた。これを知った230名にも上る他の諸藩主達も、次々と同様の上表を行った。この事実から、260数年も前に、徳川につくか豊臣につくかと日和見をきめたり相争ったりした頃とは違って、すでに天皇親政には大多数の人々が受け入れる大義が有ったわけだ。

東京で公議を終えた新政府は6月17日、版籍奉還を上表した各藩主達の願いを聞き入れ、夫々を知藩事に任命した。これで大きな混乱も無く理論的に日本全土が天皇に属し、全国民がその臣民になったわけだが、昔の藩主が知藩事と名前が変わり、「知藩事家禄の制」を定めてその藩の現石の十分一を知藩事個人の家禄として与え藩財政から切り離しはしたが、まだ旧藩主が知藩事であることに変わりなかった。また「官武は一体となり上下で協同すべし、とのおぼしめしを以て、今より公家・諸侯の称を廃し、改めて華族と称える」という達し書が出され、同時に一門以下平士まで全て士族とし、華族・士族に禄が支給され、藩地図、藩収入、藩支出、兵員数、人口など細かく調査して報告させた。これはしかし、中央集権に向けての一歩前進ではあるが、依然として旧藩主達が世襲的に知藩事の職にあり、兵備も藩に所属したから、新政府から見ればまだ十分な改革ではなかった。

廃藩置県、更なる中央集権に向かって

♦ 廃藩置県の背景


横井小楠(右)と由利公正の銅像。安政5(1858)年に同道し、
九州に旅立つ横井小楠と由利公正(当時、三岡八郎)。由利公
正は長崎に来て、オランダ商館と福井藩との間に生糸の販売
特約を結び、藩財政改善に尽力した。(福井県福井市大手2、
内堀公園内)

Image credit: 筆者撮影

戊辰戦争で東北鎮定も一段落すると、薩摩藩主・島津忠義やその実父で陰の実力者・島津久光の上に立つことを潔しとしない西郷隆盛は、首脳として新政府の一員にならず静かに帰国し、地元で藩の活動に専念した。それまでほとんど表裏一体のように活動してきた西郷隆盛と大久保利通の考えは、ここにその明らかな差異の片鱗を見ることが出来る。そしてその後、大きな行動パターンの違いが浮き彫りになってゆく。

一方新政府は、徳川慶喜や旧幕府対抗勢力を討伐すべく征討軍を動かすと、その軍資金目的に参与・会計事務掛・由利公正の建議による金札と呼ぶ太政官札、すなわち紙幣を発行し、また従来流通の二分金や一分銀も品位を落として増鋳し、いくつかの大藩でも通貨の贋造を始めた。このため戊辰戦争が鎮定に向かっても日本経済は大混乱に陥り、米価が急騰し、庶民の生活が大巾に圧迫され、大規模な一揆や紛争が起り、不平を抱く志士はまた要人の暗殺の機会をうかがい始め、国民の不満が爆発した。そんな不満の矛先が、今度は唯一の明治新政府に向けられたのだ。

例えば、熊本藩士出身で松平慶永の政治顧問として福井藩改革に貢献し、明治政府に参与として参加した横井小楠は、改革派の筆頭として狙われ、明治2年1月5日退朝の途中に京都市中の丸太町で暗殺された。その暗殺犯裁判の最中も、保守派と革新派の争いが起り、裁判の結審と処刑が遅れた。また兵部大輔として新政府の軍務改革を進める山口藩士出身の大村益次郎は、旧征討軍などの藩兵を排除し、一般から徴兵して中央軍を組織しフランス式の軍制を取り入れようとする計画を推進したが、時期が早すぎるとこれに反対する大久保利通との論争になった。こんな大村案は急進的すぎると、士族すなわち旧藩士の恨みを買い、大村益次郎は9月4日京都市中の木屋町の旅館で襲われ重傷を負い、11月5日手術を受けた大阪病院で命を落とした。長州においてさえもこの兵制改革に不満を募らす士族の諸隊が藩庁を囲み、新政府に居る長州の重鎮・木戸孝允が出向いて沈静させるほどまでに沸騰した。更に地方官吏の組織は、旧藩主が版籍奉還により知藩事に任命されてはいるが、幕政当時のまま旧態依然だ。

こんな状況下で国内政治が混迷すればこの新政府は崩壊すると危機感を持つ岩倉具視、大久保利通、木戸孝允などは、薩長の老公、すなわち島津久光、毛利敬親、西郷隆盛などを再び天皇の補佐と称し中央政府に協力するよう求め、更に勝海舟など広く天下の人材の登用をも目論んだ。しかし長州では不満士族が藩庁を囲むほどまでに不満が爆発し、薩摩では久光自身が新政府の改革を厳しく批判し、終に薩長老公の上京は実現しなかった。

いつの世もまた権力の集中するところに利権が集まり、不透明な利益誘導が発生する。尊王討幕、天皇親政を旗印にした戊辰戦争が終結に向かうころ、新政府の中にも党派が出来て軋轢が起り、進取の気鋭が消え、質実剛健さが消え、おごりたかぶり、醜聞が絶えなくなってゆく。明治3年の夏には、こんな新政府の堕落に怒った薩摩藩士・横山安武(やすたけ)が7月27日、時弊十ヶ条の「集議院に上る書」を集議院の門扉に竹棒に挟んで置き、津藩邸裏門で切腹し、死をもって建言するという事件が起った。いわく、

府藩縣とも朝廷の大綱により夫々が徳政を敷くべき時なのに、、旧幕府の悪弊がいつの間にか新政に移り、昨日は非としたものが、今日は是となってしまった。その細かい条目を挙げると、その第一は、輔相(ほしょう)の大任を受けた者からして侈靡驕奢(しびきょうしゃ=おごり、ぜいたくにふける)、上は朝廷を暗誘し、下は飢餓を察しない。その第二は、大小の官員は外に虚飾を張り、内に名利を事とする者が少なくない。その第三は、朝令夕替、万民は狐疑を抱き、方向に迷う。その第四は、道中駅毎に人馬の賃銭が増し、かつ藩では五分の一の税金を取るなど人情の事実を察せず、人心に関心もない。その第五は、直を尊ばず能者ばかりを尊び、廉恥(れんち=心清く恥を知る心)が上に立たないので日に日に軽薄になる。その第六は、官の為に人を求めず、人の為に官を求めるが故に、各局の職を務める者は心を尽くさず、その職事を賃取り仕事と心得るような者がいる。その第七は、酒食の交わりを重んじ、義理上の交わりを軽んずる。その第八は、外国人との約定の立て方が軽率で、物議の沸騰を生ずる事が多い。その第九は、黜陟(ちゅっちょく=功の有無で官位を上げ下げする)の大典は未だ立たず、多く賞罰は愛憎をもってする。故に春日、某の如き廉直の者が却て私恨をもって冤罪(えんざい、=ぬれぎぬ)に陥るなど度々だ。これは、岩倉や徳大寺の意思だったと聞く。その第十は、上下は交錯し、利を征(う)って国が危い。今日の在朝の君子達よ、公平正大の実を上げて欲しい。

これは、当時の多くの不満を強力に代弁する行動だった。輔相とは宰相と同義語だが、明治1年閏4月21日の組織改革から翌年7月8日の組織改正まで三条実美が輔相を勤め、その後も右大臣としてトップであり、また当時大納言だった岩倉具視と徳大寺実則(さねつね)などを名指しし、新政府をあげて侈靡驕奢(しびきょうしゃ)、すなわちおごりたかぶり贅沢三昧をやり、天皇に道を誤らせ、下々の飢餓とその深刻さを理解していないと死をもって厳しく非難したわけだ。

この様に益々非難が高まり、処理すべき諸問題が増えるに従い、岩倉、大久保、木戸などは更に危機意識を持ち、再び天皇の命により島津久光や毛利敬親を新政府に参加させようと計画した。岩倉自身が勅使になり、「前途の業は実に不容易で、朕は深く苦慮している。久光、汝は朕の股肱の羽翼である。よく朕の及ばぬ処を助け、皇業に助力し、朕をして復古の成績を遂げしめよ」という天皇の勅語を持ち、明治3年末から大久保、木戸も含め鹿児島と山口に出向いた。しかしその命を受けた後に、久光、敬親とも病気や死亡により結果として出侍できなかったが、久光は西郷隆盛の政府復帰を命じ、西郷の中央復帰に成功した。更にその帰途、西郷の意見により大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允は揃って土佐を訪ね、高知藩大参事・板垣退助や権大参事・福岡孝弟(たかちか)と話し、混迷する新政府を立て直すため、薩・長・土三藩の同心協力を約束した。

ここで、もはや旧実力者の島津久光、毛利敬親、山内容堂たちに頼らずとも世代交代した西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、山県有朋、井上馨、板垣退助、佐々木高行など、薩長土の出身者が三条実美と岩倉具視という朝廷の中心を補佐する結束と連合が動き始めた。また更なる混迷に備え、天皇の親兵として西郷隆盛が中心になり、薩摩藩から歩兵4大隊と砲隊2隊、長州藩から歩兵3大隊、土佐藩から歩兵2大隊と騎兵2小隊に砲兵2隊という規模の兵力が東京に派遣され、新しい兵制が実行された。この歩兵9大隊・砲隊4隊・騎兵2小隊という規模で構成される「御親兵」・公称1万人の存在は、更なる中央集権に向けた大改革に当たり大きく睨みを利かす存在になり、日本国軍隊の基になってゆく。同時に、西海道鎮台本営を九州小倉に置き熊本と佐賀の兵を当て、東山道鎮台を釜石港に置いた。しかし間もなくこの2鎮台制も改められ、東京、大阪、名古屋、熊本、仙台、広島の6鎮台制へとなってゆく。士族の中には、上述の横山安武に見られる如く大きな不満が鬱積していたから、国軍を率いる西郷隆盛のイメージも強く、多く期待の目で見られるようになっていったようだ。

♦ 廃藩置県の断行


鹿児島市西千石町甲突川左岸緑地、高見橋際の大久保利通像
Image credit: 筆者撮影

この様に辛くも瓦解と背中合わせに迷走する新政府は、世代交代したリーダーたちが危機感を持ち、政府組織の立て直しに動き始めた。上述の薩摩藩士・横山安武が命を懸けて改善を要求した朝令暮改や腐敗をなくし、それまで参議や高官が多く、百家争鳴状態で一つの方針で活動できなかった組織の大改革をし、統一された方針を強力に打ち出せるものにせざるを得ないという一点では共通していても、具体論では薩摩勢と長州勢の綱引きや猜疑心が絡み、百論があった。

そんな中で、大久保利通が陰で岩倉具視と協力し主導するという流れで、政府内の組織改革に着手した。まず新政府組織の多くの弱点を修正するには、1人が大方針を決定する以外に道は無く、トップの右大臣・三条実美の他は参議を木戸孝允一人とし、右大臣が参議の補佐により政府方針を打ち出す方式にしようとした。しかし木戸は、以前から主要参議たちの民主的な合議制を理想として主張していたから、木戸自身がただ一人の参議として参加する方式には応じなかった。これも木戸一人に重責を負わせようとする薩摩勢の策略だろうというほどにも疑ったという説もあるくらい、頑として誰の説得にも応じない木戸の強硬姿勢に、皆が手を焼いたようだ。最終的には大久保の出した、参議に西郷隆盛をも入れた二人とし、これが右大臣と大納言を補佐し、大久保利通以下の主要リーダーは卿となり各省を束ねる方式で政府方針の一元化を図る案に合意され、明治4年6月25日に発令された。

しかしこの政府組織改革も、以下に述べる廃藩置県の実施と同時に木戸孝允の発案で土佐の板垣退助と佐賀の大隈重信が参議になるから、これこそ朝令暮改の典型だが、廃藩置県という大改革をスムースに行うため大久保はあえて反対しなかったという。

こんな流れを経て参議になった木戸孝允は、かっての持論である廃藩置県を実行し一層の中央集権を図る方向に動き始めた。薩長土の3藩から1万人規模の親兵が出された今、朝廷はこの近衛兵をもって天下に望み、廃藩置県を断行し一層の中央集権を図り、国論を統一して外国と対峙する時だ。このようにその考えを聞かされた岩倉具視は、更なる中央集権は必要だが、現実に朝廷を支えている薩長土の藩まで廃しては「薄恩だ」と大きな動揺が起る。さらばといってこの3藩だけを特別扱いにすれば大きな不平等になり人心を失うから、藩を廃する事は慎重にすべきだとの考えだった。この反応に落胆はしたが、木戸は更に西郷と話し、大久保と話して基本合意を取り付けた。更に山形有朋、井上馨、西郷従道(つぐみち)、大山巌など主要人物とも話したが、全てが廃藩置県の断行に賛成した。この様に足場を固めた木戸は大久保と共に再度岩倉を説き、西郷もまた岩倉を説いた。木戸や西郷はすでに三条実美をも納得させていたから、薩摩と長州の腹心たちが一体になっている姿を見た岩倉も心を固め、三条実美と共に明治天皇の宸断を得て廃藩置県を実行に移した。

この難事業は、明治2年1月に鹿児島、山口、高知、佐賀の4藩の自主的版籍奉還から2年6ヶ月後のことだが、天皇の詔書のみにより粛々と実行された、驚くべき行政の大改革だった。かっては自分の領地・領民だと云い、ほぼ独立国の主であった旧藩主たちが、版籍奉還により知藩事になって家禄を受け、家来が士族になり、公家も諸侯と共に華族になり、夫々が国家から名誉と財産を保証されたわけだ。簡単にいえば、天皇にその人民と土地を返還し、その代償として名誉と収入を与えられ、藩財政で困窮する事もなくなり大いに安心していたものが、2年半後の今回、更にその知藩事職も取り上げられたのだ。そして全員が東京在住を求められ、天皇の近くに住まわされた。もちろん中には不満を抱く旧藩主も居たであろうが、それを組織だって爆発させる手段をいつの間にか次々に失い、天皇の下へ、すなわち国家の中へ吸収されてしまったのだ。ここに至り、それまで長く続いた日本の封建制度が完全に崩れ去ったわけだ。

この版籍奉還の命令は次のような過程を踏んで行われた。明治4年7月14日、まず皇居の小御所に呼び集められた鹿児島藩知事・島津忠義、山口藩知事・毛利元徳(もとのり)、佐賀藩知事・鍋島直大(なおひろ)、高知藩知事・山内豊範(とよのり)が、2年半前に進んで版籍奉還を首唱した事実を明治天皇が褒めたたえ、自分の政治を補佐せよと命じた。いわく、

汝らは大義の不明や名分の不正を正そうと、進んで版籍奉還の義を唱えた。朕は深くこれを悦び、新たに知事の職を命じた。今また新しく始めるに際し、益々大義を明らかにし、名分を正し、全国民の安寧秩序を保ち、万国と対峙しようとしている。従って藩を廃し縣とし、無駄をなくし簡素にし、有名無実の弊害をなくし、更に国家の大法と細則を定め、政令を一ヶ所から出し、全国にその向かう方向を知らさねばならない。汝らはよく朕の意思に従い、この政治を補佐せよ。

天皇はまた熊本藩知事・細川護久(もりひさ)、名古屋藩知事・徳川慶勝、徳島藩知事・蜂須賀茂韶(もちあき)、鳥取藩知事・池田慶徳(よしのり)が「郡県の制を立てたい」と申請した事を褒め、「まさにこれから実行するから、朕の意に従い、各自の考えを尽くせ」、と命じた。この様に朝廷や新政府に協力した8藩、すなわち8旧藩主たちを大いに顕彰した上で、引き続いて、これら諸知事をはじめ在京する諸藩の知事全員を大広間に召集し、藩を廃して縣を置く決定を伝えた。すなわち、目の前に列席する知藩事たちを罷免し新しい縣に新しい縣知事を任命するものだ。いわく、

朕が思うに、新しく始めるに当たり、国内で全国民の安寧秩序を保ち、国外で万国と対峙しようとすれば、名実は一致し政令は一ヶ所から出ねばならない。朕はすでに版籍奉還を聞き入れ、新たに知藩事を命じ、各々はその職を奉じている。しかし数百年来の仕来りや名のみで実のない事々があるが、これでどうやって全国民の安寧秩序を保ち万国と対峙出来るのか。朕はこれを深く考え、今、更に藩を廃し縣とする。これは無駄を省き簡素にし、有名無実の弊害を除き、政令が多岐にわたる憂いを無くするためだ。汝ら群臣は皆朕の意思に従え。

さっそく太政官はこれにより、「藩を廃し縣を置く」と布告を出し、とりあえず旧藩大参事以下に、罷免された知藩事に代わり各藩の事務を管理すべく命じ、知事が在京せず出席できなかった諸藩には、その翌日その在京参事を召集してこれを命じた。この様に天皇の権威を持って出す命令は、手抜かり無く協力する藩を大いに褒め、その他の藩が異議を唱える隙間さえなかったようだし、また青天の霹靂ともいえる秘密裏の早業だった。木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛、岩倉具視など明治政府の中枢が、明治天皇の名を持って出された詔書で行った、何百年も続く封建制度を一挙に葬り去る一大行政改革だったのだ。

しかし思惑通り無事に実行できるかは、予断を許さない部分もあっただろう。廃藩置県が発布された翌日、右大臣、大納言はじめ参議や諸省の卿たちや、次官級の役人も皆皇居に参集し、これからどう処置すべきか声高の議論になった。そこに少し遅れて参議・西郷隆盛がやって来て、方々で起る興奮した議論を黙って聞いていたが、突然、「この上各藩で異議が出た場合は、兵をもって打ち潰す以外にありません」と大声を出して述べ立てた。この一言でさしもの大議論もやみ、皆静かになったという。これは7月15日の佐々木高行の日記に見えるが、御親兵を統率する参議・西郷隆盛の面目躍如たる情景だったし、天皇自身の詔書と天皇に直属する御親兵の威力に逆らえる気力と武力は、もはや誰も持ってはいなかったのだ。

この廃藩置県に伴い、政府内部でも大幅な組織変更があり、各省の統廃合や新設があり、人事も一新された。しかし現実には、諸藩内でこの改革を嫌い不満がくすぶる所もあり、政府の政策に反抗し一揆や騒擾に発展するものもあった。大久保や西郷の郷里の鹿児島においてさえそれはあり、一時不穏な空気が流れ、急きょ吉井友實と西郷従道が派遣され解決に当たったほどだった。

外国との諸問題

国内ではこの様に、政治体制の中央集権化へ向けた大きな動きが進むうちにも、外交は一日の休みも無く動いていた。この間に生じた、諸外国との大きな外交問題のいくつかを見てみたい。

♦ 東海道と横浜は不安心、パークス公使の抗議

      東海道での出会いを憂慮

江戸を東京と呼び、政治の中心地と定め、天皇が再び京都から東行する明治2年の初め頃になると、それまで京都にいた公家たちも続々東京にやってくるようになり、諸侯や諸藩士の行き来も頻繁になったから、東海道の交通量も格段に増加した。このため東海道沿いで、貿易港・横浜に居住する各国商人や多数駐留するイギリスやフランスの兵士達との接触も増えてきた。こんな状況下で、あわや第二の生麦事件にもなりかねない状況も出てきたのだ。

新政府は、条約による東京や新潟の開市が明治1年11月19日すなわち1869年1月1日に迫ったので、それに先立つ8月、大総督府から各藩へ、「外国交際の儀を改めて取結んだが、ついては彼国人に対し粗忽の儀があれば問題が出るから、今後の往来行き違いの節は特に気を付け、軽率な振る舞いが無いよう兵隊の末々まで厳重に取り締まるよう仰せ出だされた」、と通達を出した。また東京開市が始まると、市中に新しく居住し始めた宮親王家や門跡、堂上や諸侯にも行政官から、「各国公使やその他外国人が東京に滞在中方々出歩くが、路上で出会っても、道路は双方で半分ずつ譲り合ってもらいたい。また外国人警護で随行する日本人は下馬会釈などしないから、心得ておいてもらいたい」、とも通達した。前ページに書いたように、この年の初めから神戸居留地での衝突や堺港での衝突、知恩院付近でのパークス公使襲撃事件など、一歩間違えば外国との戦争にまで発展しかねない事件が連続して起きたから、新政府も外国との関係には特に心を砕いたようだ。

      新政府の繰り返しの布達

この様に政府があらかじめ通達を出し気をつけていても、東海道筋でイギリス代理副領事やイギリス軍艦艦長一行に対し粗暴な行為があったと、パークス公使が当時の外国官副知事・東久世通禧(みちとみ)に強く抗議してきた。いわく、明治2年3月23日東京駐在イギリス代理副領事・ロバートソンやポルトガル領事・ローレイロ一行4人が横浜に帰る途中、品川近辺で日本の行列に行き逢い馬車を路傍に停めていたが、宮様宮様と声を張り上げる侍が来て下車を促し、下車しないと見ると刀の柄に手をかけ、副領事らは馬車から引き降ろされた。またスタンホープ艦長が大森梅茶屋の辺りで婦人行列に行き逢い、同様に馬車から引き降ろされる粗暴の扱いを受けたという。日本側からは、直ちにその謝罪と、外国人に対する扱いに関し再度通達を出したという政府の対策が回答された。3月27日、今度はフランス公使・ウートレーから外国官知事・伊達宗城に、横浜の町でフランス公使館の通訳官ともう一人のフランス人が往来で殴り倒されたが、この暴挙を止め犯人を捜そうとする役人は誰も居なかった。また3日前にも公使館内の建物に放火され、事務員が殴られた。フランス人にこの様な暴力が振るわれれば黙視しがたいし、今後は自衛処置を取るとの強硬な通告が来た。

各国と通商条約を結び横浜港で貿易が始ってから、外国人に対する安全確保が十分に出来ず外国人殺傷事件は続発し、幕府でさえ一時これを理由に横浜鎖港を口にし始めた。こんな状況に、横浜貿易の既得権確保、居留自国民の安全確保やその財産保全を口実に、下関戦争の後横浜に引き揚げたイギリス海軍が引き続き横浜に駐屯し、その後陸軍に変わり、フランスも駐屯部隊を参加させた。独立国に外国の軍隊が駐屯する事それ自体が異常な状態だから、幕府内にもそれに続く新政府内にもこれを無くしたいという思いが強かったが、それに代わる安全策を提供できず、外国軍隊の駐屯はすでに既得権になっていた。しかし外国側も明治1年の暮れになって、この異常事態を解決すべく、いったんは日本政府に横浜駐屯外国兵撤去の通知を出していたが、しかしこの様にまた外国人の安全確保が困難になれば、また横浜に駐屯外国兵を置かざるを得ない。

今回はまた、アメリカ、イタリア、ドイツの公使たちまでが、この安全問題が早急に解決されなければ予定していた関税問題の話し合いに応じないとさえ通告してきた上に、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア公使から横浜の町の安全が脅かされているため、運上所脇と本町通り角に外国の番兵を立てるから、その施設を造れとも要求してきた。この様な一見些細な事件でも、これが口実になり横浜駐屯外国兵が町の警備に番兵まで出す事態は、横浜が割譲され租借地になったような異常事態だから、これ以上不必要な誤解が生じないよう政府も事件解決の進捗状況を細かくイギリスやフランス公使に伝えている。結局は、1ヶ月ほど後に両事件とも下手人が判明したが、こんなちょっとした事件が国を危うくするきっかけになり得る例として、政府も再度街道筋に高札を立て、文書でも通行人に申し渡した。いわく、

外国人通行の時、途中において出会いの節は道の半分を譲り通行すべくお触れが出ているが、最近時々不都合な出来事の報告があり、もってのほかの事である。瑣末な行き違いから皇威に関わる程の事態が発生しては誠に相済まないことであり、以後ゴタゴタを起さないようよく心得えること。万一粗暴な行為があった場合、当人はもちろん場合によってその藩主または主宰の者へも厳重なお沙汰が及ぶので、この旨を改めて通達する。

幸いにも横浜市中の外国人番兵は、町が安全になったとイギリス、フランス、アメリカ、ドイツ公使が認め、6月末に撤収となり、以降は日本人の手で警護を強固にした。しかしまだ軍隊の駐屯そのものが解決したわけではなく、イギリスとフランスの軍隊はそのまま横浜に居座っていた。大納言・岩倉具視や外務卿・澤宣嘉などが折に触れイギリスとフランスの公使に交渉したが、明治4年の暮れに、やっとその約半数を引き揚げさせることに成功した。しかしこれら2カ国は、なかなかその既得権を手放そうとはしなかったのだ。

文化の違う外国人とどう共存するか、お互いに譲りあい、お互いに尊重しあう以外に道はない。諸侯や公家にも、その従者たちにも、一つ一つ学ばせねばならない開化の過程であった。

♦ 浦上村・耶蘇教徒処分の問題

      キリシタンを拒否する日本

江戸幕府は、将軍・徳川秀忠の時代からキリシタンを排除し全国的にキリスト教を禁教にし、徳川家光の時代の寛永12(1635)年にオランダと支那の外国船の入港地を長崎だけに限定し、日本人の海外渡航と帰国を全面的に禁じ、いわゆる鎖国が始まった。そして九州の島原の乱を契機に、寛永17(1640)年に宗門改役(しゅうもんあらためやく)を任命しキリシタン取り締まりを強化した。その後幕府は、各藩にも改役の設置を義務付け一層の取り締まり強化に乗り出し、全国から隠れキリシタンが囚われ江戸に送られ、所持品は没収された。

安政5年にアメリカ、イギリスなど5カ国と修好通商条約が締結され、横浜・箱館・長崎で貿易が始まった。そしてお互いの宗教について、例えば日米修好通商条約の第8条に、

日本にあるアメリカ人、自らその国の宗法を念じ、礼拝堂を居留地の内に置くも障りなく、並びにその建物を破壊し、アメリカ人宗法を自ら念じるを妨げる事なし。アメリカ人、日本人の堂宮を毀傷(きしょう)する事なく、また決して日本神仏の礼拝を妨げ、神体仏像を毀(やぶ)る事あるべからず。双方の人民、互いに宗旨に付いての論争あるべからず。日本長崎役所に於いて、踏み絵の仕来りは、既に廃せり。

と、宗教について相互不干渉の条項を認め合った。これは、日仏、日英の通商条約ではもっと簡素に、「第4条、日本に在る仏蘭西人、自国の宗旨を勝手に信仰し、その居留の場所へ宮社を建るも妨げなし。日本に於て踏絵の仕来りは既に廃せり」、「第9条、在留の貌利太尼亜人、自らその国の宗旨を念じ、拝所を居留地の場所に営む事障りなし」と、内容は略同じものだった。

しかし同時に幕府は、国内政策として、江戸幕府250年来の国禁のキリスト教排斥を保持すべく、開港場で外国人より洋書を購入する時には必ず運上所の改印を受けさせ、キリスト教関係書籍の購入を厳禁してさえいたのだ。

      耶蘇教徒の発見と禁教への圧力

こんな中で海外貿易が盛んになったが、長崎ではこの通商条約に従って、フランス人のカトリック司祭・ベルナール・プティジャンが元治1(1864)年、長崎に大浦天主堂を建てた。そのうちに、浦上で何代にもわたって信仰を守り続けたいわゆる隠れキリシタン数人が信仰の告白に天主堂を訪れ、プティジャン司教を大いに驚かせ、また喜ばせた。これがきっかけとなり、長崎には多くの隠れキリシタンが居ることが分かり、司教は日本人に向けた布教活動を活発化させた。プティジャン司教は大浦天主堂内だけでなく、こっそりと各村々にも出かけ布教活動をし、聖書を教え宗教具を与え、日本人の信者自身による布教をも活発化させ、そのための経済的援助も惜しまなかった。日本人による布教活動は、周囲の藩や幕府直轄地の天草にまで及んだという。また浦上村にも4ヶ所の小さい礼拝所を造り、キリスト教を信仰する住民もその信仰を少しずつ顕在化させ、「葬式は最寄の寺へ依頼すべし」という規則を公然と守らなくなり、周りの寺々からは奉行所への訴えが多く出された。地元の長崎では仏教徒との摩擦が増え、長崎に入り込む攘夷を唱える志士達の、異教を広める神父の暗殺計画まで噂に上り始めた。

それまでフランス人や他の外国人に対し遠慮していたようにも見える奉行所は、こんな状況下で万一神父が殺害されたり、かっての島原の乱のように大規模な氾濫でも起ったら大問題と考え始め、その対策に乗り出した。そしてついに慶応3(1867)年6月13日、奉行所は多くの捕り手を動員し主要な教徒68人を捕縛した。これを知ったプティジャン司祭側は、長崎のフランス領事やポルトガル領事を動かし、政治問題として長崎奉行・徳永石見守に穏当な取り扱いを要求し釈放を求め、同時に横浜の各公使に幕府との交渉を要求した。これはフランスだけの問題ではないから、アメリカのバン・バルケンバーグ公使も幕府に書簡を送り、浦上村の耶蘇教徒捕縛の不法を大いに非難し、ただちに釈放すべく勧告してきた。いわく、「内政干渉する積りはないが、ただキリスト教を信じただけで、他に何の罪も無い国民を未だにこんな古い国法で捕縛するなどする限り、文明国とは言えず、将来西洋各国の信を失う」、と警告したものだ。

しかし、通商条約には上記の如く、宗教の相互不干渉を取決めてあるから、プティジャン司祭の行為は違法行為であり、国法に違反した隠れキリシタンの捕縛は純粋な国内問題だというのが日本側の見解だったから7月7日、当時の外国事務総裁・小笠原長行はフランス公使・ロッシュに書簡を送り、この見解を伝え司祭の布教活動の中止を要求した。この当時のフランスの日本に対する外交活動は、イギリスに対抗し幕府に急接近し、軍備や経済援助まで提供する交渉に熱心だったから、最終的にロッシュ公使は自国の長崎領事やプティジャン司祭に書簡を送り、日本人に対するその布教活動を中止すべく命令している。そして日本側も、捕縛した人々で虚言ではあっても改宗を誓った大多数を釈放し、それに反抗する1人は隔離と監視のため村預けとした。昔なら磔刑(たっけい)になったほどの罪であっても、信者たちにはロッシュ公使との交渉で寛大な処置が下された。また将軍・徳川慶喜は8月7日ロッシュ公使に大阪城で謁見し、この日本の現状を記し理解を求める書簡をフランス皇帝・ナポレオン三世に送っている。

      「明治政府の耶蘇教信者迫害」と抗議する外国勢

そうこうしている内に戊辰戦争に突入し、幕府は瓦解し、明治新政府が出来て天皇親政となり、その「ご一新の恩赦」が施され、村預けの捕縛者は開放された。そして益々耶蘇教信者は増加し、活動が活発になったから、こと宗教に関し旧幕府の立場とあまり差の無い新政府内では、長崎地方長官の苦慮するところとなった。そしてついに当時の長崎裁判所総督・沢宣嘉(のぶよし)から、

恩赦で放免する際も穏やかに話して聞かせたが、中には厳罰に処せられてもかまわないなどと言う者も居て、詰まるところフランスの後ろ盾があると思い、新政府でも処分は出来ないと思っている。一方、地元でこれに不満を持つ住民は勝手に信者を殺そうと思うものも居るから、かっての島原のようになっては九州一円の騒乱にもなりかねない。3千人ほどにもなるキリシタンをどう処置すべきか、ご評決下さい。

と云う申請が出された。これは、かって朝廷内の攘夷急進派の1人で、文久3(1863)年8月18日の孝明天皇による急進派追放で長州に逃れた七卿の1人でもあった、国学者・沢宣嘉の強い考えでもあったのだろう。国学者として、天皇親政の下で日本国本来の神道の隆盛を願う沢宣嘉にとっては、長く国禁の耶蘇教信者の増加をそのまま放置できなかったであろうから、手に負えなくなる前に厳重処分したいというものだ。新政府の心配は更に、若し対策を誤り、耶蘇教を嫌う国民の一部が東北で戊辰戦争を戦う旧幕府勢力と連合するようなことにでもなれば、この長崎に於ける問題だけでなくなってしまう危険性もあることだった。

早速天皇は明治1(1868)年4月22日、親王や三職以下及び公卿諸侯を召集し長崎裁判所総督から出された申請に対する処置を諮ったが、参与・木戸孝允は信者の巨魁を長崎で厳科に処し、3千人の教徒は10万石以上の西国の諸藩に預ける案を述べた。最終的にはこれが採用され、翌月の閏4月、この案の通り処置すべく木戸孝允を長崎に派遣し、浦上村の耶蘇教徒の処分を命じた。木戸孝允は長崎に来て、閏4月17日これら耶蘇教徒を小倉・福岡・久留米・柳河・鹿児島・熊本など34藩に預け、首謀者の100人あまりを山口・福山・津和野の3藩に預ける処置を決定した。そして「切支丹宗の儀、年来元幕府においても堅く制止したが、旧染の余燼が絶え切らず、近来長崎近傍浦上村の住民で密かにその教えを信仰する者がだんだん萬延しているので、今般広く御評議在らせられ、格別の御仁旨をもってご処置ご決定遊ばされた。これにより別紙の通りお預け仰せ付けられ候事」と、太政官達しが出された。

早速この処分案を知ったアメリカ、イタリア、ポルトガル、デンマーク、オランダ、フランス、プロシャの長崎領事たちから、「耶蘇教信仰の日本人民が政府による重罪の罰を受けると方々から聞くが、日本政府がその国民を処罰することに異論はないが、こんなやり方は、外国人から見れば今までのように日本が礼儀を知った国だとは思われない。従って、人情的にも今までの親睦の意からも、正しくないと諌言せざるを得ない」と、連盟の上早速圧力をかけてきた。前述のように、相互の宗教への不干渉が条約になっているし、内政干渉にもなる以上、道義上また信義上の問題として迫ったのだ。更に長崎の大浦天主堂の司教たちも、フランスが明治新政府へ政治的干渉を強めるべく訴えるため、横浜のフランス公使館にやって来た。横浜に居たアメリカ長老教会の宣教師・ヘップバーン(ヘボン)博士が、1868年7月25日付けでアメリカのラウリー博士に宛てた書簡(『ヘボン書簡集』、高谷道男)にも、

長崎地方に一つの事件が起っております。新政府はカトリック信者を迫害しつつあります。信者らをその故郷から、他の地方に移動せしめております。新政府の言うところでは、彼らに善い仏教の教理を教え込み、カトリック教会から学んだ誤れる教理を捨てさすためだとのことです。・・・右の司教はこれらの気の毒な信徒らのため政府の宗教政策に干渉を加えるようフランスの公使に嘆願するため当市に来ておりました。

と報告している。

この頃また大阪では、イギリスのパークス公使が三条実美、岩倉具視、外国事務局督・晃親王など新政府トップと会談し、この耶蘇教信者の処置を巡り日英で大議論を行った。交渉の中心になった参議・大隈重信の立場は、「これはあくまで内政問題で、宗教の善悪ではなく、万国公法に鑑みても、自国法の運用に外国の干渉は受けない。外国は何の権利を持って干渉するのか」というものだったが、パークスは例によって苛立ち、大声を上げ、机を叩き、文明の進んだヨーロッパ諸国が今日あるのはキリスト教のためだと議論を展開し、その宗教を弾圧する日本は野蛮国から抜け出していないと迫った。朝から夕方まで昼食抜きの大議論に結論は出なかったが、この時の通訳は、昔オランダ出島の医師であったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男で当時イギリス公使館通訳官のアレクサンダー・フォン・シーボルトが勤めた。後に語るところによると、パークスもこのような毅然とした、万国公法まで持ち出した論理が日本側から出てきたことに驚いていたと言う。それまでの幕府にはない、明確な態度の表明だったのだろう。

      外国公使たちの一時的妥協

各藩への分預はその後いろいろ変更があり、過酷な取り扱いは無用との命令と共に、翌2年10月までに2800人以上もの人々が19藩に強制移住させられた。直ちに長崎在住の各国領事たちからは抗議が出され、パークス公使側にも日本の耶蘇教徒取り扱いが過酷過ぎるとの情報が続々入り、三条実美や岩倉具視などに直接抗議し、実情調査なども行われた。更にまたイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ公使などからも耶蘇教徒に対する寛大な処置を望む書簡が来て、12月18日、三条や岩倉その他が高輪の東京接遇所で公使たちに面会した。そして、「旧来の国法では信者は磔刑(たっけい)に処せられたが、今回は諸藩への分預のみで、家族も離散させず、それなりの手当て金も与え、土地や住居も与えてあり、宗教の善悪をもっての取締りではなく、やっと戊辰戦争も静まりかけた時に奸民が耶蘇教徒に紛れ込み、暴動を企み政府の命令を聞かず、一般人と衝突したりするのを避けるためで、日本の国法上やむを得ない」と、その事情を説明した。これに対し公使側は、百姓たちが従来の農地から強制離脱させられるのは過酷な取り扱いだと、その見解の相違点も明白になった。

そこでまた翌3年1月9日に外務卿・沢宣嘉と外務大輔・寺島宗則が横浜のイギリス公使館に出向き、英・仏・米・独の4カ国公使と会談し、「長崎の司祭が夜毎に浦上村に来て説法や礼拝を行い、信者は毎週の日曜日に浦上にあるフランス教会に通い、そのうち公然と昼間も往来し始めた。また浦上村の教徒の男一人が庄屋に改心を申し出ると、教徒たちは集団でこの男に暴力を振るい、村中で2派に別れ絶え間ない諍いが起きた。司祭は日本古来の宗教を信じれば天罰が下ると教えたから、信者は多人数で村の弘法大師の堂を壊し、神社の鳥居も避けて通れとも教えている。信者はこの様に徒党を組んで政事に逆らう。従って各藩への分預を決めたのだ」と、沢宣嘉は長崎での自分の経験をもまじえ日本政府の立場を話した。そして日本側は、村人が司祭を訪ねないよう法律で取り締まるから、公使側も司祭が村に来て宣教活動をしないよう取り締まって欲しいと要望した。その後も種々のやり取りがあったが、公使側は最終的に以下の覚書を作成した。いわく、

覚書。外国人居留地以外で外国人宣教師たちが伝道をし、重大な騒動が起きている事実を日本政府が言明し、日本人キリスト教徒を長崎近辺から移住させる理由の一つは政治的必要性からだと日本政府は考えるので、すでに浦上村から移住させられた日本人キリスト教徒全員が帰村する事を条件に、外国公使たちはその責任においてあらゆる権限を行使し、外国人宣教師たちがそういう行動(筆者注:居留地外の伝道)を取らないよう禁じ、その行動が続く場合は彼らを罰する事を宣言する。パークス。ウートレー。デロング。フォン・ブラント。

通商条約上に信教の相互不干渉が定めてあったり、外交上の国際慣行として通常は他国の国内政治に干渉はしないから、外国公使たちも、日本側にキリスト教徒へ不当で過酷な取り扱いが無ければ、一時的にこの要求を受け入れざるを得なかった。

この様に繰り返し多くの圧力がかかったが、この問題は後々まで折に触れ各国との間で問題視され、次ページに述べる岩倉使節団にも圧力としてのしかかって来る。この信教の自由に関する問題は、明治6(1873)年にキリシタン禁制が解かれるまで、日本が西洋諸国すなわちキリスト教国との交際上、避けて通れない改善すべき重要点の一つだった。

♦ ユージン・ヴァン・リードと「元年者」移民の問題

      ヴァン・リードの来日


サトウキビ畑灌漑のため日本人移民が工夫して造った、ハワイ島北部
コハラ・マウンテンの山麓を流れ小さい渓谷を渡る灌漑用水路の一部

Image credit: 馬の背中から、筆者撮影

ユージン・ヴァン・リードは、神奈川の開港日直前にオーガスティン・ハード商会の商船・ワンダラー号に乗って横浜にやって来たハード商会のアメリカ人商人だが、横浜の商売であまりにも広くその名を知られ、また戊辰戦争初期に日本政府が入れ替わるという劇的な政治的混乱に巻き込まれ、外交畑への転進に失敗した人物だ。

ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)の自伝によれば、ヴァン・リードはアメリカでジョセフ・ヒコと知り合い、ヒコから日本語も少し習ったようだ。そしてヒコが、後に咸臨丸に乗ることになるブルック大尉とフェニモア・クーパー号で日本に向かう直前、サンフランシスコでヴァン・リードとヒコの2人で記念写真を撮っているが、それほどの親友だったのだろう。ハワイのホノルルでフェニモア・クーパー号を下船しブルック大尉と別れたヒコは、そこで偶然にも、サンフランシスコから香港に向かうシー・サーペント号に乗って来た日本に向かう途中のヴァン・リードと出会い、2人は連れ立ってシー・サーペント号で香港に着いた。ヒコと別れたヴァン・リードはその後、香港でオーガスティン・ハード商会に職を得たようだ。

上海でヒコがアメリカ領事館通訳に採用され、ハリス公使やドール領事とアメリカ軍艦・ミシシッピー号で下田経由神奈川に着いたが、ヴァン・リードの乗るオーガスティン・ハード商会のワンダラー号はこのミシシッピー号と下田で出会い、東風が強いので下田から浦賀近辺までこのミシシッピー号に牽引されて来たから、横浜にはジョセフ・ヒコと同じ日に着いた事になる。そして安政6年6月5日すなわち1859年7月4日、発効した日米修好通商条約で神奈川が公式にアメリカに開港され、横浜を見下ろす神奈川の丘の上にあるアメリカ領事館・本覚寺でハリス公使、ドール領事、ミシシッピー号のニコルソン艦長や士官たち、ジョセフ・ヒコ、そしてこのヴァン・リードが出席してアメリカ国旗を掲揚し、国歌を歌い、シャンペンで乾杯し、正式な領事館開館式を行った。このように、ヴァン・リードが横浜に来たのはオーガスティン・ハード商会のワンダラー号に乗ってであり、ヒコの自伝の1859年7月6日から7月16日の間の記述に「書記・ヴァン・リード」と出てくるから、筆者には、この間にヴァン・リードも領事館書記官の職を得てそれに任命されたように見える。

その後横浜で成功しようと種々工夫するヴァン・リードは、日本文化を理解し、日本の習慣にも馴染み、日本語も良く話せるようになっていったようだし、書記官を辞し商売に集中し、機会を捉えて広く奔走したようだ。朝廷が幕府へ派遣した勅使護衛として薩摩藩の島津久光が江戸に来て、文久2(1862)年8月その帰り道の生麦で、行列を乱したとイギリス人・リチャードソンを殺害したいわゆる「生麦事件」を起こしたが、その直前に東海道でこの久光の行列に行き逢ったヴァン・リードは、馬から下りて道脇で静かに行列をやり過ごし、久光の駕籠には帽子を取って敬礼し、難なく江戸に向かった(「後は昔の記」林董述、時事新報社、明43年12月)。この様に、被害にあったイギリス人たちに比べ、柔軟に日本の習慣も受け入れることが出来る人物だったようだ。またアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4カ国が軍艦を派遣した下関戦争でも、アメリカはまだ南北戦争の最中で日本には小型帆走軍艦1隻しかなかったから、当時のプルーイン公使はオーガスティン・ハード商会から蒸気商船・ターキャン号を借り入れ、これに武装を施し帆走軍艦の海兵隊を乗組ませたが、このターキャン号の賃貸契約にもヴァン・リードが関わった。オーガスティン・ハード商会は、この4年ほど前に英仏連合軍が支那と戦い北京を占領した時も、支那で戦略物資の調達・輸送や船舶の軍事傭船契約で大きなビジネスをしたようだから、これを知る、昔アメリカ領事館の書記だったヴァン・リードがいち早くその必要性をキャッチし、このビジネスをまとめたのだろう。そして自身でもこの蒸気船に乗って下関に行き、戦記を書き、ニューヨーク・トリビューン紙と契約する横浜駐在記者・フランシス・ホールの手でトリビューン紙に掲載されている。更に下関戦争終結後には、このフランシス・ホールがパートナーでもあるウォルシュ・ホール商会の仲介で幕府が大江丸と命名することになるこのターキャン号を購入したが、この商取引にもヴァン・リードが関わり、「諸費用差し引き後、商会には6万ドルの入金になる」、とオーガスティン・ハード商会へ報告している(「Japan through American Eyes」の注)。

      ヴァン・リードへの条約締結全権使節委任と日本側の拒否

さて少し遡るが、万延1(1860)年1月18日にポーハタン号に乗船し日本を出航した遣米使節一行が、ハワイのホノルルに寄港すると大いに歓迎を受け、使節一行はハワイ国王・カメハメハ四世にも面会した。その時ハワイ側は正使・新見正興(まさおき)に、ぜひ修交通商条約を締結したいと希望を述べていた。新見は日本に帰国してから正式な返答を出すと約束し、帰国した新見の報告に基づき幕府は文久1(1861)年5月11日、アメリカ公使・ハリスを経由しハワイ国王に感謝の贈物をしたが、同時に、「やむおえない国内事情により通商条約は結べない」と伝えている。この様にハワイ側は、何年も前から日本と条約を結ぶ希望を持っていたわけだ。

ハワイは1778年にキャプテン・クックに発見されて以来、多くの白人の持ち込む疫病がその免疫を持たない原住民の間に蔓延し、1860年代には、原住民の人口が4分の1程度にまで激減していた。また以前に認められていた土地所有法により白人資本が入り込み、1850年代からサトウキビ農場が大規模に経営され始めていたが、とにかく人手が足りず、1864年暮れに制定された移民法により支那から更に多くの移民はあったものの、支那以外からの移民も要望され始めたのだ。

こんな中でヴァン・リードは、ハワイ王国のワイリー外務大臣とつながりのある自身のネットワークを通じ、日本・ハワイ通商条約の必要性や日本移民の受け入れについて話す機会があり、ヴァン・リード自身も日本に於けるハワイ王国の代表を勤めたいと、直接自身の要望をハワイに出したようだ。こうしてワイリー外務大臣が、オーガスティン・ハード商会と深いつながりのあるという横浜在住のヴァン・リードの名前を知り、日本からハワイに向けた移民の可能性やそのコストを訊ねてきている。そしてワイリー外務大臣は1865年4月6日付でヴァン・リードを日本駐在のハワイ総領事に任じ、日本との通商条約締結や移民導入を推進しようとした。しかしその後ハワイの外務大臣はワイリーからバリグニーに替わったので、ヴァン・リードは1866年の1月にハワイを訪れ、更に通商条約や日本移民受け入れについて話しをした。またこの帰り道に、ヴァン・リードの乗った船がウェーキ島で座礁沈没し、九死に一生を得て横浜に帰り着くというおまけまであった。

ハワイ総領事の肩書きを手に入れた後ハワイに渡り、バリグニー新外務大臣とも直接面会しホノルルから横浜に帰ってきたヴァン・リードは、当時のアメリカ代理公使・ポートマンの仲介で幕府と接触し、新任総領事の謁見をしてもらおうと試みた。しかし第2次長州征伐に忙しい幕府は、「今は出来ない。後日にまた」と新任総領事の謁見を断っている。この後の慶応2(1866)年5月28日、ポートマンから外国奉行宛の書簡が出されたが、いわく、

アメリカの忠告により、ハワイの新任総領事は公式に幕府に来日の目的を申し立てる事を延期するが、日本の遣米使節がハワイ国のホノルルに立ち寄った時ハワイ国王にも面会しているから、日本の老中も面会くらいしてくれても良いはずだ。ハワイはアメリカ、ロシア、フランス、イギリスなどとも条約を結んでいるから、小さな島国だといっても日本の国体に関わることも無い。今もし日本が新たな条約を結べないとしても、ハワイ国の貿易代理人を横浜に置く許可を出して欲しい。これを拒否する事は、ハワイを嫌っているようにも解釈されかねない。

と、少し脅迫めいた文章で書き送っている。しかしこの時期は、幕府の独り相撲の第2次長州征伐で将軍始め主要な幕閣は大阪に出張している時だから、新任総領事を謁見したり、新しい条約など結べる時期ではなかった。しかし7月になって将軍・徳川家茂が突然死亡したことにより、徳川慶喜は何とか朝廷から長州征伐中止の沙汰書を出してもらい、停戦に持ち込んだ。

この頃にはアメリカの新任公使・バン・バルケンバーグが日本にやって来ていたが、やっと長州征伐に区切りをつけた幕府から、日本・ハワイ通商条約交渉開始の意思を伝達されたバン・バルケンバーグ公使は、あらためてハワイ総領事・ユージン・ヴァン・リードに神奈川在留許可を出して欲しいと申請し、幕府からその合意を得た。ここで一応、「ハワイ総領事・ヴァン・リード」が幕府に受け入れられたのだ。そこでアメリカ公使館では、おそらくヴァン・リードの強い希望によったはずだが、当時日本とイタリア間で締結された通商条約写しを幕府から借り受け、これを基本に条約内容の検討を進め、日本・ハワイ通商条約原案を準備した。そしてバン・バルケンバーグ公使の12月18日の要請により、日本側でも外国奉行・江連加賀守と石野筑前守及び目付・新見正興を条約交渉全権代表に任命した。

早速、日本側全権代表の3人がハワイとの条約交渉をすべくアメリカ公使館にやって来ると、公使館には誰も正式なハワイ国王の全権委任状を持つ人はなく、提出した書状はヴァン・リードの総領事任命状だけだった。これでは何の交渉も出来ないと当然日本側は交渉拒否を伝えたが、バン・バルケンバーグ公使は、早速ハワイ王国から全権委任状を取り寄せる約束をした。こう記述している筆者にも、全権委任状なしで条約締結を試みたアメリカ公使の態度はちょっと信じられない事態だが、バン・バルケンバーグ公使は本国にアメリカ公使の仲介で日本・ハワイ通商条約を締結する許可を申請していたが、本国からは何の回答も来なかった。このため、こんなお粗末な事態になったのだろう。

その後ヴァン・リードから幕府に宛てた慶応3(1867)年8月29日付けの書簡で、「ウォルトマン(=ウォーターマン、Waterman)氏から全権使節委任状が届けられ、共同で作成した条約に調印すべく私が全権使節に任じられた。日本側の都合がつき次第、出来るだけ早急にアメリカ公使館で調印を希望する」と、1867年1月21日付けでハワイ国王・カメハメハ五世と外務大臣が署名した、日本政府宛ての全権使節委任状を提示してきた。

しかしここで思いもかけない横槍が入り、せっかく練り上げたハワイと日本の条約調印が出来なくなる。9月12日、外国奉行・江連加賀守と石野筑前守がバン・バルケンバーグ・アメリカ公使と会談し、

ハワイ国王署名のヴァン・リードを条約締結全権使節に委任するという書簡を大君、すなわち徳川慶喜に提示したところ、大君は横浜の商人・ヴァン・リードの名前を良く覚えており、条約締結はともかくも、現地商人を全権使節にするなど受け入れられないということになった。更に外国公使の間からも、例え日本政府がそんな者を全権使節として受け入れても、各国公使の列には入れないなどの噂も聞こえてくる。これではまるで日本がハワイ島政府から馬鹿にされたような有様で誠に不快である。これではどういわれようとこれ以上の交渉も調印も出来ないから、バン・バルケンバーグ公使自身がその任に当たって欲しい。

と申し入れた。更にその旨、ヴァン・リードへも書簡で通達された。

横浜で有名になりすぎた商人・ヴァン・リードが、その名前を大君・徳川慶喜にまで覚えられてしまい、条約締結が頓挫したという全く皮肉な結末だった。将軍・慶喜にしてみれば、確かにアメリカのペリー提督、イギリスのスターリング提督、ロシアのプチャーチン提督、オランダのクルチウス商館長など一流の地位にある人物と最初の条約を調印して来た過程から見ても、例え条約締結全権使節に任じられたとはいえ、日頃から顔見知りの現役の横浜商人と国家間の最初の条約を調印することなど考えられないことだったのだろう。

      ヴァン・リード主宰の日本人ハワイ移民計画

落胆したヴァン・リードの顔は想像に難くないが、しかし諦めてはいない。3ヶ月ほどしてヴァン・リードはまた江連加賀守に書簡を送り、今度は、ハワイ国王も親しく知っているし、アメリカ人としての自分のネットワークをも活用して日本とハワイとの橋渡しをし、この日本国のために尽くしたい。ついては適切な役職があれば日本政府に雇われたいと、「将軍・徳川慶喜の大政奉還に感服した」と言いながらこう提案してきた。江連は感謝しながら上層部へこれを上げているが、幕府は今や崩壊の危機に面している最中で、そんなことに関わっている暇はなかった。ヴァン・リードは何とか幕府中枢とコネを作り、まだ条約締結を推進したかったように見える。

しかし、この直後には幕府と、薩摩・長州中心の朝廷側との間に鳥羽・伏見の戦いが始まり、将軍・慶喜は江戸に待避、謹慎し、突然新政府が旧幕府に取って代わったが、この突然の政変にかかわる混乱の真っただ中に投げ込まれたのが、ヴァン・リードが主宰する日本人のハワイ移民計画だった。

ハワイ総領事に任じられて以来のヴァン・リードは、まず通商条約を結べばその後に移民計画は自然と付いて来ると考え、条約締結に全力を集中したが、上述のように土壇場で将軍・徳川慶喜の反対で完遂出来なかった。そこでヴァン・リードは移民計画の実行に注力しはじめ、おそらく親しくしていたのであろう半兵衛と呼ぶ旅籠経営者とその仲間に依頼し、ハワイ移民希望者を募り始めたようだ。そしてこの時、かって幕府がアメリカに発注した鋼鉄軍艦・ストーンウォールがハワイ経由で江戸に回航されて来たが、ハワイ政府はこのストーンウォールに託し、明治1年4月3日(1868年4月25日)、ヴァン・リードが準備を進めるハワイ移民の前金の原資としての1925ドルを届けてきた。ここに至って、それまでヴァン・リードが準備し進めてきた移民計画に拍車がかかり、急速に動き出したのだ。

新政府になった明治1(1868)年4月17日、日本駐在ハワイ国総領事・ヴァン・リードの名の下に神奈川裁判所総督・東久世通禧へ宛て、

賄いと医者の手当ては除き、給料1ヶ月4ドルで3ヵ年雇用の職人350人が出航準備を整え待っているので、速やかに印章(=パスポート)を交付いただきたい。雇用契約完了の後は、無賃で日本に送り返す事を約す。サイオト号に乗組んでいる日本人の180人に先の鎮台(=幕府・神奈川奉行所)から与えられた印章は返却するので、改めて全員の新しい印章を交付願いたい。

というパスポートの交付申請が出された。その後1週間あまりにわたり、ヴァン・リードから何回も印章発行の督促状が出されたが、4月24日、神奈川裁判所組頭・高木茂久左衛門から、

我国人350人を農業手伝いのためハワイへ連れて行きたく、免許を欲しい。その内の180人は旧幕府から免許を受けている等々、という申請は承知している。しかしハワイとは未だ条約を結んでいず、理由のいかんに関わらず許可できない。強いて連れて行きたいのなら、条約を結んだ国の公使が証人になれば許可すると判事・寺島陶蔵から提案している。また180人分はいったん免許が出ているとはいえ、旧政府の処置であり、それを採用する事は出来ない。

と、ヴァン・リードに宛てた拒否回答が来た。そこでヴァン・リードは折り返し同じ24日付けで、神奈川裁判所判事・寺島陶蔵(宗則)に宛て、

旧大君政府の処置は新政府でもこれを全て実行する旨、外国公使から聞いている。日本人180名のパスポートは12日前に発行済みであり、この180名は新政府になる3日前からサイオト号に乗船していて、もう10日になる。許可を待つ間の船の毎日の出費もかさみ、これ以上の滞留は出来ない。この船の横浜運上所の入港手続きも終わり、英国領事も(出航に)必要な書類を船長に渡したので、明朝出帆予定である。自分にはもうこれを差し止める権限はない。もし新政府が旧政府の処置を実行しないなら、これまでにかかった費用を払い戻して欲しい。そうでなければパスポートを出し船を出港させて欲しい。我がハワイ政府は、旧大君政府と同様に皇帝陛下の新政府とも親睦を望んでいる。

と、明治1年1月20日に当時の外国事務総裁・仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王が各国公使宛の書簡で、「今般、天皇が自ら条約を取結ばされるので、以後も引き続き、これまでの通りの條約を全て遵守すべき旨、勅命を受けました」と伝えた言葉の通り、旧幕府政権の約束をも全て実行するよう求めてきたのだ。


ハワイ、マウイ島北岸のサーフィンの名所、ホオキパ・ビーチで水際まで栽培される
サトウキビの畑。当時、日本から来た移民たちも、こんな綺麗な景色も見たはずだ。

Image credit: 筆者撮影

当初ヴァン・リードが幕府にパスポートの申請をし許可された人数は350人分であったが、ハワイ政府から届いた原資で確保できたバーク船・リサイフ号の都合で180人に変更になり、170人分のパスポートはいったん幕府に返却した。そして今回、その理由は不明だが、ヴァン・リードはリサイフ号の代わりにサイオト号を確保し、すでに幕府から発行されたパスポートを持ち船で待っている180人分のパスポートもいったん新政府に返却し、改めて合計350人分を再申請したのだ。ヴァン・リードは4月27日の弁明書の中で、「新政府になったから、旧幕府のパスポートより新政府発行のものが適当と判断したので、180人分も再発行を願い出た」、と言っている。何でもいいからと送り出しだけを考えていたら、ヴァン・リードはこんな良心的なことをせずとも不足の170人分だけを申請すればよいわけで、ハワイ国の総領事として、明らかにハワイと日本両政府間の信義を考慮した行為に他ならない。

このハワイ行きパスポート発行を船に乗って待っている間に、180人は病気その他の理由で約150人位に減少したようだ。この150人の日本人を乗り込ませた船はイギリス船・サイオト号だったが、パスポート発行の遅れに痺れをきらせたこのイギリス船は、ヴァン・リードから寺島陶蔵への書簡の通り、4月25日パスポートも無しに出航してしまった。この出航を知った神奈川裁判所が、いったいどうなっているのだとヴァン・リードに詰問しても後の祭りだった。ハワイ総領事・ヴァン・リードは、始めから新政府首脳も、「新政府は以後も引き続き、これまでの通りの條約を全て遵守する」と約束したように、政府が変わろうと、いったん外国に約束した事は日本国として実行しなければ国際信義にもとるといい、新政府は、いずれにしても条約未締結国への渡航に印章は発行できないといい、一種の水掛け論だった。新政府は、パスポート発行の結論を待たず、印章なしで勝手に出航した事は日本政府への軽蔑だと、ヴァン・リードの行為を全く許せなかったのだ。

そこで神奈川裁判所総督・東久世通禧はヴァン・リードがアメリカ人だということで、アメリカ公使・バン・バルケンバーグにその善後策を相談した。アメリカ公使は、アメリカの法律ではその罪状が判明しない限り罰することが出来ない。そのために日本側が今回のヴァン・リードの行為を吟味する必要があるのなら、アメリカ領事館で裁判を行うのが相当だが、運送した船はイギリス船だから、船に関してはイギリスの裁判に委ねるのが相当である。しかし、ヴァン・リードがハワイ国総領事として行った行為なら、アメリカ公使の自分が深く関与する事は出来ないといってきた。これは典型的な不平等条約に基づく領事裁判であり、更に独立国のイギリスとハワイが絡み、アメリカ政府は介入できないという非常に複雑なケースだ。東久世は更に毅然とした態度をもって、不法に無断で連れ出された日本人を連れ戻すが、その費用はヴァン・リードに償わせた上で国外退去にするとアメリカ公使に伝え、合わせて各国公使にも伝え、その意見を求めた。もちろん、自国に直接関係無いことに嘴を入れる公使は誰もいなかったし、アメリカ公使は、イギリス船・サイオト号が横浜を出航する時に、何故横浜裁判所の役人は手をこまねいていてサイオト号の出航許可を出したのかと、逆にいぶかりもしている。

翌明治2年4月29日、外国官副知事・寺島宗則はアメリカ公使と話をし、公使の勧めで日本の役人をハワイに派遣する腹を決めたが、しばらくして日本人移民が不当待遇に苦しんでいるという噂をも聞き、釈然としない新政府は、その年の9月に使節のハワイ派遣を正式決定し、この明治元年にハワイに渡った、いわゆる「元年者」移民たちの中の帰国希望者40人をハワイから日本に連れ帰っている。しかし総勢150人ほどもハワイに渡った中で、帰国希望者は40人のみだったから、現地の事情は期待より悪かったとしても、言葉が通じない不便があったとしても、4分の3弱の人達はまだ頑張れるという労働環境だったのだろう。だから日本からわざわざ使節がやって来て、帰国という援助の手を差し伸べても、70%以上もの大多数は、自らハワイでの仕事を選び帰国を願わなかったのだ。もっとも、日本政府からハワイ政府と交渉のため使節・監督正(かんとくのかみ)・上野敬介が現地に来て交渉を始めると、上野の報告書によれば、現地の雇用主たちは日本人を手放したくないと、1ヶ月4ドルの給料を15ドルへと大幅に引き上げたという。恐らく勤勉な日本人を再評価しての事だったろう。これから見ると、日本政府が心配したほど搾取される劣悪環境ではなかったようだし、賃金も日本での仕事よりはるかに良くなったのだろう。

またハワイに残ったこれら移民たちのうち、3年の契約が満了した時点で、約束通りハワイ政府がヴェスタ号に乗せ日本に帰国させた人は11人だった。この3年間にハワイで死亡した不幸な人も居たが、90人が契約終了後もハワイに残ったから、サイオト号の「元年者」移民たちの内の60%がハワイを第二の故郷に選んだ事になる(「East Across The Pacific」)。

      日本駐在ハワイ総領事としてヴァン・リードを受け入れ

新政府はその後寺島宗則を全権とし、ハワイ王国の全権使節も兼任したアメリカ・デロング公使との間で、明治4(1871)年7月4日に日本・ハワイ通商条約も結んだがしかし、ヴァン・リードを処罰する事はできず、以前の如く横浜に滞在している。そして更に、このハワイ通商条約の発効により、ハワイ王国の船が頻繁に日本に入港するようになった。しかしこれを処理できる適任者も居ない事から10月12日、デロング公使は外務卿・寺島宗則に、「外交には係わらせない」条件でヴァン・リードをぜひ日本駐在のハワイ総領事に認めて欲しいと懇ろな要請をし、寺島宗則も10月19日、ついにこれを受け入れた。

日本の歴史記述の中にはこの「元年者」移民の事件をもって、当時の明治新政府の怒りをそのまま代弁し、ヴァン・リードを悪徳商人呼ばわりしたものもあるようだが、筆者には、外交官に必要な注意深さやセンスが不足し、政府が入れ代わるという日本の激変するタイミングに合わすことが出来ず、初期投資の回収を急ぎすぎてサイオト号を出航させるなど決定的な間違いを犯し、外交官になれなかった人物とは映っても、必ずしも悪徳商人だったとは思われない。

新政府はこんな経験から、領事裁判や自主性のない関税率改定など外交の不平等な点も含め、強く条約改正を模索することになってゆく。その条約改正はしかし、次に述べる岩倉使節団の中に書くが、日本側の期待に反し一朝一夕に事が運ばないことを痛感することになる。

      アメリカ政府とハワイ王国との関係

こんな風に、アメリカとハワイを股に掛けて活動するアメリカ人とハワイとの関係について、少しアメリカ政府の公式見解を記す。アメリカ公使・バン・バルケンバーグの後任として、明治2年10月デロング新公使が日本に着任したが、アメリカの国務長官・フィッシュからデロングに宛て次のような書簡が届いている。いわく、

日本とハワイ間の条約が、イギリス公使の仲介で締結されようとアメリカ公使の仲介で締結されようと、何の異議を申し立てようとの考えもない。しかしながら、数多くのアメリカ国民がサンドウィッチ島(ハワイ)に居て、中にはそこの高官になっている者が居るが、日本国政府と同様アメリカから独立しているハワイ政府の方針や行動に、アメリカ政府は何の責任も無い事実を、貴官は日本政府に明瞭に理解させねばならない。
若しサンドウィッチ島に住むアメリカ市民が日本に行き、そこで法律を犯した場合、彼らが単にサンドウィッチ島に住むというだけで罰せられないで済ます事は出来ない。それどころか、彼らがハワイの法律に基づき正当にハワイに帰化した証拠を提示できない限り、アメリカ政府が彼らの上に司法権を及ぼすに何の例外も無い。

この文頭の「イギリス公使、アメリカ公使」の件は、上述の如く日本政府が条約締結全権使節としてのヴァン・リードを拒否したので、ハワイ政府はアメリカ公使バン・バルケンバーグの仲介を求めた。しかし、なぜか当時のアメリカ国務長官・ワッシバーンから明確な回答が来なかった。そこでハワイ政府は再度イギリスに仲介を求め、イギリスのハリー・パークス公使が明治政府へ接触して来た。アメリカの後任公使・デロングがフィッシュ国務長官にこの経緯を報告し、日本とハワイ間の通商条約締結を仲介する件に関し、本国の指示を求めて受けた回答書簡の一部である。この結果、デロング公使は日本にアメリカ政府の仲介を推奨し、前述の如くハワイ王国の全権使節も兼任したアメリカ・デロング公使を通じ、日本とハワイとの通商条約締結に至った。

このフィッシュ書簡は特にヴァン・リードだけを意識した書簡ではないが、アメリカ政府の自国民取り扱いと他国政府に対するアメリカ政府の立場の明確な表明だ。そこで、ヴァン・リードがハワイ政府から公式に任命されていた条約締結全権使節の権限を幕府や明治新政府が自ら拒否した形だから、このいわゆる「不法移民」取り扱いについてアメリカ政府に頼れず、条約は無くてもまず自らハワイ政府に使節を送り、移民帰国の交渉をせざるを得なかったようだ。

      日本の「新聞の歴史」に登場するヴァン・リード

以上は外交畑に躍進しようとしたヴァン・リードの顔である。その流れから少し外れるが、しかしまた、日本の「新聞の歴史」にもヴァン・リードは登場する。ヴァン・リードがジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)と友人であった事は上に書いたが、ヒコは横浜で岸田吟香と組み、元治1(1864)年6月28日最初の日本語新聞といわれる「海外新聞」を発行した。しかしこれは数ヶ月で廃刊になったという。今度は明治1(1868)年閏4月11日、ヴァン・リードと岸田吟香とが組み、日本語新聞の「横浜新報もしほ草」を発行し始めた。発行者は「(横浜の)93番・ヴァン・リード」となっていて、その第1号の始めに岸田吟香は、93番・ヴァン・リードの名の下に、

さきにヒコゾウの新聞誌ありしが、かの人此の地を去りしのちは久しくその事絶えたりしに、去年正月、我が友人ベーリイ万国新聞紙を版行せしが、これも第十篇まで出版してやみぬ。余(よ)深くこのことをなげきておもえらく、新聞紙ははなはだ有益のものにて、今は世界中文明の国にはこのものなき国はあらず。然るに日本にていまだこの事盛んに行われざるゆえんは、けだし新聞紙の世に益ある事をしるものすくなきと、これを編集する人の自ら学者ぶりて、むずかしき支那文字まじりのわからぬ文を用いる事と、且は出版のおそくなりて、時おくれのめずらしからぬ評(こと)をかきのせることとによる成るべし。余が此度の新聞紙は、日本国内の時々のとりざたは勿論、アメリカ、フランス、イギリス、支那の上海香港より来る新報は即日に翻訳して出すべし。且つ月の内に十度の餘も出版すべし。

と、「もしほ草」出版にいたる経緯を書いている。

この頃の京都では、出来立ての明治新政府が3月14日に五箇条の御誓文を出し、閏4月21日に政体書を出す時期だったし、また関東では4月11日に江戸城引渡しが行われた直後だった。この様に日本中を巻き込んだ政府の入れ替わり時期は、まさに新しい新聞発行のタイミングでもあったわけだ。従ってこの 「横浜新報もしほ草」発行より3ヵ月ほど前の明治1(1868)年2月24日、柳河春三などにより 「中外新聞」第1号が発行されてもいるし、3月には 「日々新聞」、4月には福地源一郎の 「江湖新聞」、辻新次の 「遠近(おちこち)新聞」、橋爪貫一の 「内外新報」等々多くの新聞が誕生した時期だった。

「もしほ草」は、閏4月11日の初篇のあと、第2篇が閏4月17日、第3篇が29日、第4篇が21日、第5篇が24日、第6篇が25日、第7篇が28日と頻繁に発行されている。何故第3篇の日付けが閏4月29日なのか不思議だが、あるいは19日の間違いでミスプリントだったのだろうか。新聞発行は届出の許可制で幕府による規制を受けた当時、横浜のヴァン・リードが発行者になることで、治外法権として幕府の規制や、あるいは新政府が6月8日に「新聞発行は官許を得べし」との太政官布告を出し、その後翌年3月に新聞監督責任者の開成学校に関し、「外国人、国字を以て出版する者は、各地運上所にてこれを監し、毎事必ず裁判所に報知すべし」と布告を出し、神奈川裁判所が規制に乗り出すまでなんらの規制も受けなかった。

このようにヴァン・リードは、開港当時の横浜でいろいろな可能性にチャレンジし、一旗揚げようと努力した、典型的な活動的アメリカ人の一人だったように見える。

 


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03/18/2020, (Orginal since October 2009)