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History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s
7、長州征伐と条約勅許
背景(安政5年1月−文久3年5月)
孝明天皇は、自分の代に神国・日本に夷人が入ってくることは先祖代々に申し開きが出来ないと、通商条約締結を心から嫌い、少なくとも和親条約の線まで引き戻せと強く攘夷を命じた。こんな天皇の意思を無視するかのように、次々に各国と通商条約を結ぶ大老・井伊直弼の強行策に、底知れぬ無力感を味わう孝明天皇は、後継候補者の名前まで挙げ天皇をやめ譲位することを真剣に考え内意をもらした。京都では過激浪士の暴力沙汰が増え、無法地帯に近い危機的な状況に陥った京都の秩序回復を図ったのが、文久2(1862)年4月13日に上洛した島津久光である。久光は同時に、大老・井伊直弼により罪を受けていた一橋慶喜や松平慶永の起用を朝廷に建策し、幕閣は朝廷の意思としてこの案を受け入れた。
朝廷の攘夷に向けた強い要求に応えるべく、新しい将軍後見役・一橋慶喜や政事総裁・松平慶永の補佐で、将軍・徳川家茂(いえもち)は公武一和の実現のため上洛した。しかし、形式的にもせよ幕府に大政委任をしている朝廷が政治上ことごとく命令を出し、攘夷に向け強硬に突っ走り始めた姿を見て、「政令二途に出づる」、すなわち政治的な基本命令が朝廷と幕府から夫々に出ては政治に責任は持てないと辞職願を出した政事総裁・慶永は、正式な許可が下されるのを待ちきれず勝手に福井に帰国してしまった。
ますます朝廷からの攘夷要求圧力を受ける将軍・家茂は、とうとう実行不可能な攘夷決行期日を文久3年5月10日と約束した。これを受け、5月10日に外国船を砲撃した長州は4カ国との下関戦争に巻き込まれ、幕府もまたその管理責任を問われ、当時の幕府年間総支出額の四分の一にもあたる莫大な賠償金300万ドルを支払うことになる。
将軍後見役・慶喜は、自身で江戸の幕閣を督励し朝廷の命ずる攘夷鎖港を遂げようと江戸に帰ってみると、老中格・小笠原長行(ながみち)の独断でイギリスに生麦事件賠償金の合計44万ドル(11万ポンド相当)が支払われ、慶喜が命じようとする攘夷鎖港を支持する幕閣や役人は皆無だった。誰の支持もなく進退窮まった慶喜は、朝廷に将軍後見職の辞表を出すが受理されなかった。
最終的にはしかし、老中格・小笠原長行は生麦事件賠償金を支払うや、「大君の命により開港場を閉鎖し外国人の退去を命ずる」予定だという文書を各国に出したが、各国は戦争になるぞと大声を上げた。
朝廷の政変(文久3年8月18日)
♦ 長州と過激派公家の攻勢
孝明天皇の強い意志による攘夷要求に歩調を合わせ、京都に集まる先鋭的な長州勢や過激浪士の尊皇攘夷の叫びを背景とするように、国事御用掛・三条実美(さねとみ)などを中心とする過激派公家が、急速に関白をも凌ぐほどの勢力となった。天皇の強い攘夷意思を受けた将軍・家茂が5月10日と約束した攘夷期限を過ぎても何も出来ない幕府を見て、忠誠心に駆られる三条実美の強硬論が、腰の引けた関白をも圧倒し始めたのだ。京都の治安も乱れに乱れ、毎日どこかで暗殺や放火の噂が絶えず、朝廷内では天皇自ら兵を率い、幕府を譴責し攘夷を行うべしとの意見が強硬になった。
しかし孝明天皇の気持ちの中には、攘夷は先祖代々に対する約束であっても、皇女・和宮親子内親王を嫁がせた将軍・家茂を切ってまで武力を振るう決心はなかった。それはとりもなおさず肉親を攻める行為だから、攘夷は、なんとしても家茂に実行してもらいたい思いだったのだ。この天皇の思いはしかし、過激派の長州勢や実美らの進もうとする方向、すなわち倒幕に傾斜した行動とはかけ離れたものだった。朝議を主導する過激派公家は、幕府が「5月10日攘夷」の約束を守らない今となっては、「天皇の御親征、行幸」を行い、動かない幕府を譴責し、全国民を率いて攘夷に臨めば外国との戦争にも負けることもないだろうと強硬に奏上した。天皇もたまらず、朝議決定された親征と大和の国への行幸を一旦は認め、神武帝山稜や春日大社で攘夷を祈願し、軍議を行う予定だった。しかしこの時、一橋慶喜や京都守護職・松平容保(かたもり)、桑名藩主・松平定敬(さだあき)等は、すぐ武力による攘夷ができないのは、我が国には未だ外国に匹敵する軍事力が整わず時期が早すぎる。もし負けるようなことにでもなれば、反って皇威失墜になると進言していたことも天皇の心配だった。
♦ 孝明天皇の決断と七卿落ち
悩んだ天皇はしかし、決断し策を巡らした。まず国事御用掛・中川宮朝彦親王に考えを示し十分な理解と支持を得て、文久3年8月16日、前関白・近衛忠熙(ただひろ)と右大臣・二条斉敬(なりゆき)にも同様に話し、過激な公家達との決別の勅命を出した。
この三人と孝明天皇の関係は、朝彦親王は身内で長期に亘る参謀的存在だったし、近衛忠熙は孝明天皇を最もよく理解していて、二条斉敬は国事御用掛の暴言家・三条と対立関係にあったから、まず自分をよく理解し支持してくれる味方を固めたのだ。中心である中川宮はしばらく水面下で動き、守護職・松平容保(かたもり)とかたく連携し、薩摩藩とも連携し細かな行動計画を練り時機をうかがっていた。暴言家公家を制御できず、天皇の御前と朝議での決定が違うという優柔不断の関白・鷹司輔熙(すけひろ)はしかし、この秘密の画策からは全く外されていた。
京都守護職・松平容保の会津藩兵が守った建礼門
Image credit: 筆者撮影
ことごとく根回しが済み、中川宮が孝明天皇に時機到来と計画実行を伝える文久3(1863)年8月18日の夜明け前、寅の下刻(午前4時頃)、早くも中川宮や松平容保、所司代・稲葉長門守が参内した。続いて二条斉敬、近衛忠熙も参内し、在京中の多くの大名も引き続き参内した。その頃には計画通り九門全てが閉鎖され、薩摩藩や京都守護職配下および在京諸藩の武士たちが割り当てられた場所で警備についていた。
これは過激公家の影響下にある議奏や国事御用掛、その他一切の公家や長州藩士の参内を差し止め、長州藩の堺町門の警備も中止する処置だった。指名者以外の参朝は関白の鷹司輔熙さえも阻止されたが、暫くして関白は勅使により参内を告げられやってきた。親征、行幸は中止する旨の言い渡しが行われ、国事御用掛や寄人も廃止され、薩摩藩の乾門警備が復活した。
それまで国事御用掛・三条実美などと強く連携し、天皇の思い込む攘夷を貫こうと、強い忠誠心で朝廷に尽くしてきたと自負する長州藩の全ての行動が突如として拒否され、参内すら拒まれ、禁門の警備まで取り上げられてしまった。これは青天の霹靂だったが、天皇の意向を大きく逸脱した行動にまで進みすぎたことさえも理解できないほど、長州藩は過激派公家とのみ連携し突っ走ってしまったのだ。あるいは、天皇の意思までも自由に出来ると思い込んでいたのかもしれない。突然に締め出された長州藩士や攘夷派公家は、関白に面会しようと鷹司邸に押し寄せたが、関白さえも何が起こったのか分からないほどだった。関白邸に送られた勅使によるそれ以上の強訴は違勅とみなすとの通告に、長州藩士はその夜ついに諦め、一旦の帰国に決した。三条実美や三条西季知(さんじょうにしすえとも)など長州に加勢する尊皇攘夷派7人の公家も長州藩士達と行動を共にした。
18日付けの朝命として、三条実美、三条西季知その他の過激公家に対して参内、他行、他人面会を禁ずる処置が通告されたが、これは「急度相慎み」の申し渡しだった。従って長州に渡った7人の公家は、朝命に反し脱走したのだ。この朝命に対し長州の三田尻に着いた実美ら7人からは、「先日急度慎みを申し渡されましたが、攘夷については天皇から深い思召しを親しくお聞きしており、永年の外夷掃攘という叡慮貫徹に尽くしたく思い、西国へ下向しました」と届けられた。これがいわゆる「七卿落ち」と呼ばれる出来事だ。
♦ 公武一和派参与の参加
天皇は早々に前佐賀藩主・鍋島直正、前高知藩主・山内豊信、薩摩藩・島津久光等に上京を命じ、2ヶ月半ほど後には政事総裁辞任の願いを出したまま無断帰国し、幕命で逼塞していた松平慶永も朝廷に詫び状を出し、許されて上洛してきた。しかし朝廷内ではこの慶永の上洛に議奏伝奏から異議も出たが、中川宮や前関白・近衛忠熙など、島津久光に親しい人達の配慮と根回しがあったが、久光はそれほど慶永の参画の必要性を認め、上洛を助けていたのだ。
勅命により文久3年10月初旬から上洛していた久光は11月15日、建白書を前関白・近衛忠熙を経て朝廷に提出し「朝廷の緩急の所置きについては久光一己の考えでなく、列藩上京の上で天下の公議を採用し、根本策をご決定あらせられたく」と、朝廷と列藩の合議制を提案していた。久光の基本とする点は、従来幕閣は譜代中の譜代藩から任命されるとはいえ、何れも小身で、今日ほど国の内外を問わず問題が山積すればもはや機能しない。大身の大名をも起用し多くの意見を集約する制度にすべきだ。また朝廷においても、政事は摂家(近衛、九条、一条、二条、鷹司の5家)と議奏、伝奏のみに権力が集中しているが、広く皇族方をも含めるべきだという、公武一和をめざす新体制の提案だった。久光の考えの中には、今までの幕閣中心で徳川に都合の良い観点からだけの政治では、最早処理できない諸問題が多すぎるという視点があったから、その陣容は、一橋慶喜、松平慶永、山内豊信、伊達宗城(むねなり)、島津久光などを入れた合議体制を考えていた。
この「徳川に都合のよい政治」を改めるべきだという点で、慶永もほぼ同様に考えていた。この幕府の私政治は「先頃の井伊直弼や安藤信正に始まったのではなく、既に神君・徳川家康の創業の頃より専ら幕府に利のある事のみに務め、朝廷に利のある事はほとんど顧みられず、以後200余年その遺範によるものだから、一挙にこれを脱却しようとする事は本当に難事である。しかし神君より3代ほどのように実力を持つ将軍がいてその政を行うのなら兎も角も、以降はその実力者なしでその政を行うようになっては、到底その私を遂げることはできない。従って今日はその非を改めるに躊躇せず、天下公共の理にもとずき速やかにその私を脱却されるべき」であると考えていた。
12月30日になると、一橋慶喜、松平容保、松平慶永、山内豊信、伊達宗城等は朝廷の参与に任命され、島津久光も参与になった。それまでの尊攘派・長州閥に取って代わり、公武一和派が主流になったが、これはしかし、孝明天皇主導によるクーデター的変革によるものだった。
一旦帰国した長州藩はしかし、何度も朝廷に弁明を試みたが成功せず、ついにまた兵を率いて上洛し弁明を試みることになる。そして、次に書くが、元治元(1864)年7月19日、蛤御門で薩摩藩や幕府側との戦になり、皇居に向けて発砲するという朝敵の立場に落ちてしまう。
禁門の変
♦ 参与体制の崩壊
長州に関し孝明天皇は元治1(1864)年1月27日、将軍始め在京の大名を招き、自筆の勅論を下し、「全く意外にも、三条実美等は暴説を信用し、国内の形勢を察せず、国家の危機をも考えず、朕の命令をゆがめ、軽率に攘夷の命令を布告し、見境なく倒幕軍を計画した。長門の暴臣は藩主を愚弄し、理由なく夷舶を砲撃し、幕臣を暗殺し、勝手に実美等を本国に誘引した。こんな凶暴の輩は罰せねばならない」と、三条実美や松平大膳大夫(だいぜんだいぶ=敬親)の暴臣の行状を激しく非難し、処罰すべく命じた。
参与の慶永、久光、豊信、宗城など皆が登城し早速長州の処罰を話し合ったが、なかなか意見がまとまらない。一橋慶喜は前から大膳大夫父子を隠居さすべしとの意見であったが、島津久光や伊達宗城は直ちに討伐軍を発するか大膳大夫父子を大阪に召喚せよといい、山内豊信は将軍は江戸に帰り大膳大夫父子を江戸に召喚せよと主張した。特に久光と豊信の意見が真っ向から対立し、終に合意に至らなかった。
また文久3年10月3日に上洛以来の島津久光は、孝明天皇が秘密裏に自ら久光に出した時事に関する21項目の質問に奉答したり、幕府が文久3年12月27日鎖港談判使節をフランスやイギリスに送ったが、鎖港などすべき時ではなく、無謀の攘夷を避けまず富国強兵をはかり、大阪・兵庫近海の防備を厳重にすることを幕府に強く建議した。これは勿論、たった8ヶ月ほど前の薩英戦争の実体験から出た考えで、よほど堅固な台場と大口径の大砲が多数なければ自由に移動する艦砲の威力にはかなわないことを悟っていたのだ。もし外国勢に一番無防備な朝廷の足元の兵庫近海に兵力を動かされたら、また屈辱的な外交から抜け出せなくなるとの強い懸念だった。
今回最初に朝廷から召されて上洛し、独自に朝廷に建策もし、また強力に鎖港に反対する久光の言動に、幕閣が公武融和を阻害するものだとその意図を強く疑った。幕閣は、やっと孝明天皇や朝廷と将軍・家茂の関係が好転してきたのに、幕府が取る朝廷迎合策「鎖港」に反対する久光を強く嫌ったのだ。最初は久光の立場を擁護していた一橋慶喜さえも一転して薩摩に疑いの目を向け始めたが、この時慶喜自身も同様に幕閣との関係が大幅に悪化したから、慶喜さえもその立場を変ざるを得なくなったのだ。中を取り持つ慶永にも幕閣から狡猾者だと疑いの目が向けられ、慶喜からさえうって変わった冷たい態度を取られ、ついに参与の慶永や久光、伊達宗城など公武融和に力を注いだ大名たちは帰国を願い、許されて帰国してしまう。就任からたった2ヶ月あまりで全員参与を辞職する事態にまでなってしまった。
久光も慶永も心から朝廷と幕府を思い、何とか日本の政治的安定を願い、何度も上京し努力を重ねてきたと自負していたが、こうも権威主義から抜け出せず、出来もしない攘夷・鎖港を掲げて朝廷に擦り寄る幕府の行動を見ては、これではどうにも策がないと思っても不思議ではない。特に薩摩藩には、幕府から嫌疑を受ける身だから何を云っても聞き入れられないという強い不満が溜まり始めた。
長州軍の迫った蛤御門
Image credit: 筆者撮影
今まで外国の武力を恐れ、戦争は避けようと強引に開国を進めてきた幕府が、鎖港などすべきでないと主張する久光や慶永という力強い味方が現れたのに、公武融和という幕意に沿わないと幕閣たちが言い、一橋慶喜もそれに引きずられ、根本を見失い真の味方を切り捨てる過ちを犯した。一旦新しい挙国体制を構築するかに見えた朝幕関係も、また昔の体制に戻ってしまった。久光はしかし、自分の主張が幕府から嫌疑を掛けられる危険性を良く知っていた。久光と慶永は時に書簡を交換したり家来が行き来したりと互いによく理解しあっていたから、慶喜の理解を得ることがキーポイントだった。しかしいったんは久光を擁護した慶喜も、慶喜自身と幕閣との間にも時にギクシャクした関係があったから、幕閣の剣幕に押されてしまったのだろう。
♦ 長州の強訴と失敗
長州軍の集合した嵯峨・天龍寺
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こんな背景で、長州藩主の毛利敬親(たかちか)と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられていて動けなかったが、久光や慶永も帰国し、将軍・家茂も5月16日大阪を出発し海路江戸に帰府したから、再び長州藩の急進派が復権を目論み、兵を率い嘆願を名とした強訴が始まった。武装した多くの藩士が山崎の天王山や伏見に、別隊が嵯峨・天龍寺に集まりだし、幕府側では筋を通し許しを請えと長州藩士の入京を禁じた。
しかし一部の朝廷内にもまだ長州を許すべきだとの意見は根強く、討伐の勅命が出る前に決着を図ろうと、長州藩士や浪士なども混じり、京都守護職・松平容保を人質にして交渉しようと兵を挙げ、禁門に迫った。元治1(1864)年7月19日のことだ。蛤御門の近くまで迫った長州軍は、禁門を守る会津、桑名、薩摩の諸藩と激戦になり、結局長州軍は大敗した。敗走する長州軍は自藩の屋敷に放火して逃げたが、京都市中を広範囲に焼く大火にまでなってしまった。
長州征伐
♦ 長州征伐の朝命
事態がここまでくれば、天皇には怒りしかない。それに加え、激戦区の中立売門近くで見つかった長州家老・国司信濃(くにししなの)の具足櫃の底から、藩主から信濃に与えられた黒印軍令状も発見された。7月24日ついに朝廷から「更に反省の意思もなく、言を左右し危険な意趣を隠し、自から兵端を開き、皇居に向け発砲した罪は軽くない。これに加え、大膳大夫父子は黒印を押した軍令状を国司信濃に与えたとのこと。全軍ではかりごとを巡らした事実は明白である。防長に進軍し、ただちに追討せよ」という朝命が出された。
一方ではまた、歴史の偶然とでも言おうか、長州藩が1年ほど前の文久3年5月に起こした外国船砲撃を受け、8月11日、4カ国連合艦隊が下関海峡にやってきて、海峡封鎖を解くべく砲撃を始めた。これは「6、薩英戦争と下関戦争」に書いた通り長州の完敗であった。
朝廷から長州討伐命令は早々に出たものの、幕府内の長州征伐総督がなかなか決定しない。前福井藩主・松平慶永、和歌山藩主・徳川茂承(もちつぐ)などの名前が挙がっても実現せず、ついに2ヶ月もかかって、前名古屋藩主・徳川慶勝の固辞にもかかわらず、押し付けられてしまった。将軍・家茂から軍事委任の朱印状を交付された総督・徳川慶勝は、10月11日、出征諸藩に向け1ヵ月後の11月11日を期して各部署に着き、十八日攻撃を開始すべく命じた。
♦ 戦わずして決着を図る
高杉晋作、功山寺挙兵の銅像
Image credit: 筆者撮影
しかし長州征伐とはいえ、出兵した幕府側諸藩の全てに作戦の意思が疎通し意気軒昂であるわけでもなく、あまり大げさな戦闘に頼らず、早く穏和な決着をつけたいのが慶勝の腹であった。薩摩藩の西郷吉之助は、長州内には急進派(暴党)と保守派(正党)があるが、この二派を一括りにして討伐軍を進めるのは下策である。上策は保守派に説き、長州藩自ら首謀者を罰し恭順の意を示させるべきであると、総督・徳川慶勝に進言した。慶勝は早速この進言を採用し、吉之助に交渉を任せた。結果は西郷の思惑通り、藩内で自ら首謀3家老を切腹させ、首級を送り幕府側の首実検にかけ、4参謀を断罪し、山口城を破壊し恭順の意を表した。また長州にいる三条実美などの5人について、少々てこずったが九州の他藩への移転で決着した。ついに元治1年12月20日、討伐軍代表が萩城内を検分し、藩主・敬親父子の謹慎の状況を検察し、長州征伐の兵を引くことができたが、朝命が発せられてから5ヶ月後のことである。
しかしこの総督・徳川慶勝の決着は、一橋慶喜などから見ると生ぬるいものだったが、これがまた長州復活の火種を残すことになり、第二次長州征伐と薩長同盟 につながってゆく。長州征伐に一応終止符を打つことができたと思ったのも束の間、功山寺で挙兵した萩藩士の高杉晋作が、早くも慶応1(1865)年1月2日、遊撃隊を率いて再び下関新地の萩藩会所を襲いこれを占拠する事件が勃発した。幕府はこの総督・徳川慶勝の撤兵後、長州処分を定め最終決着を着けるため萩藩主・毛利敬親父子や九州に居る元権中納言・三条実美等五人の公家の江戸召致を行おうとしていたから、朝廷は長州の更なる不穏な動きを警戒し「外交案件も解決せねばならない時に、国内問題である長州の取り扱いをはっきりさせて置く必要がある。幕府が元治1年9月にまた再開を命じた参勤交代にも現状を考えると問題があり、永世不朽の国是を直接聞きたい」と、将軍・家茂の上洛を重ねて命じてきた。幕府も早速将軍・家茂の上洛を決定し、家茂は5月16日、「萩藩処置き」決着の目的で兵を率い陸路江戸城を出発し、1月後京都に到着しすぐ参内した。
条約国の兵庫沖への軍艦派遣と条約勅許
♦ 条約国の軍艦派遣
このようになかなか国是も定まらず、また公武合体も軌道に乗らず国内問題の定まらない時期に、また外交上の大問題も持ち上がった。安政5年に結ばれた各国との通商条約で、新しく開港された横浜が主要貿易港になっていたが、「5、開港と攘夷行動」の最後に書いたように、幕府は条約国にその主要港・横浜を閉鎖すると通達し談判を始めた。更に延ばしに延ばしてきた大阪開市、兵庫開港の時期も目の前に迫ってきた。少しでも有利な貿易をもくろむイギリス、フランス、オランダ、アメリカの条約4カ国は、実力行使での上陸も視野に、将軍も上洛したから大阪で交渉し速やかに朝廷の条約勅許を求めようと、連合艦隊を大阪・兵庫に派遣した。
下関戦争直後の元治1(1864)年9月4日から、アメリカ、イギリス、フランスの公使たちや、オランダの総領事が日を次いで横浜鎖港の不条理を幕府に論じ、「外国との交際について、朝廷と幕府の間に葛藤が生じている事は最近の諸事情から良く分かっている。通商条約を破棄せよと言うのが朝廷の命令だから、幕府はその命令を無視するか、あるいはその命を奉じて4カ国と戦争をするか、二者択一を迫られている。条約国の承認のないまま破棄すれば、それは戦争を意味する。幕府はこの双方の危機を同時に避けたいと図っていることが、朝廷と条約国の双方から不快に思われるのだ。横浜を鎖港しようとしているが、そうなれば条約国は同盟し武力で港を守ることになり、先般も長門の領主の砲台を破壊したばかりだ。朝廷もこの事はよく知っているはずだが、この上条約を破棄しようとする事は、戦争を望んでいることに他ならない。平和を維持するには、朝廷がこの条約を勅許する以外に道はない」と朝廷の条約批准を迫っていた。
すでに「6、薩英戦争と下関戦争」でも書いたように、9月22日幕府は4カ国と横浜で交渉の末、若年寄・酒井忠眦(ただます)が下関戦争の賠償金の300万ドルを払うか内海に1港を開くという賠償を取り決め講和を結んだ。しかし長州は、将にこの間にもまだ外国から武器の調達や船舶の調達を加速させていたから、アメリカやフランス、イギリスの武器商人たちが正式に開港されていない下関に来ては内密に商売をした。いわゆる密貿易だが、長州は、下関戦争で被害を受けた船舶をアメリカ商人やフランス商人に売り、新しい船や武器を内密に買ってさえいる。
一方幕府は、更に港を開くよりはと300万ドルの支払い決定をしたが、1回目の50万ドルを支払うと残りの支払い延期を交渉し始めた。3ヶ月毎にに50万ドルの支払いはいかにも重圧だ。しかしこの延期交渉が、次に書く新イギリス公使・パークスの目指す、兵庫遠征計画を推し進める原因の一つを作ることになる。
慶応1(1865)年閏5月16日にイギリスの新公使・サー・ハリー・パークスが横浜に赴任したが、オールコック前公使の示唆やウインチェスター代理公使の情報収集と提案により、本国政府のラッセル外務大臣の方針がパークスに指令された。幕府には300万ドルという途方もない大金の支払い能力のないことを知っているウインチェスターは、幕府が2回目以降の支払い延期の交渉をすると、残りの賠償金を取るよりは兵庫を早期に開港させ、朝廷から条約の正式な批准を出させ、輸入税を軽減させるべきだとラッセル外務大臣に提案していた。この提案に基ずき本国からパークスへの指令は、フランス、オランダ、アメリカの在日3カ国代表と話し合い、日本へ「幕府に課せられた下関事件の賠償金300万ドルのうち3分の2を免除する代わり、直ちに大阪・兵庫を開市・開港し、朝廷が通商条約を批准し、日本への輸入税を5%に引き下げる」ことを提案し交渉せよとの命令だった。そしてこの計画遂行のためパークスへ十分な自由裁量権をも与えたが、最初は渋っていたフランスも歩み寄り、3カ国はこれに合意しパークスの行動計画が動き出した。
兵庫遠征を決めたイギリス始め条約4カ国は、イギリス軍艦5隻、フランス3隻、オランダ1隻の合計9隻もの艦隊を整え、夫々の公使たちが乗り込み9月13日横浜を出航し、3日後には兵庫沖に現れた。
アメリカは2番目の公使・プルーインが病気療養を口実に帰国し、書記官・通訳のA.L.C.ポートマンが代理公使になっていたが、アメリカの南北戦争はやっと終結したとはいえ、リンカーン大統領が暗殺され、ナポレオン3世がメキシコに皇帝を置きメキシコ国内でも内戦が続いていたから、アメリカ外交もまだ非常に微妙だった。当然アジアへの海軍力の増強はまだなかったし、日本における外交方針もプルーイン公使の時と同様イギリス、フランス、オランダなどとの協調路線だった。ポートマン代理公使は、もともとペリー提督遠征艦隊のオランダ語通訳として来日し、その後も萬延1(1860)年1月にアメリカへ派遣された遣米使節のアメリカ側の通訳として活動し、日本使節を送って日本まで来た日本通だったが、軍艦がないことにはどうしようもなく、イギリス艦隊に便乗し兵庫に向かった。
♦ 幕府の独断決定
島津久光などが力説していた兵庫・大阪の地理的、軍事的な弱さを突いた突然の軍事力を使った示威行動に、9月23日あわてて大阪からやってきた老中・阿部正外(まさとう)と外国奉行・山口直毅に、4カ国公使たちは直ちに兵庫を開港し条約勅許を出せと要求し、早急に回答がなければ京都に行き朝廷と直接交渉すると迫った。そして朝廷も承諾しなければ「もはや砲煙弾雨の間に相見るの外なし」と、態度は強硬だった。阿部と山口は1日だけの猶予をもらい帰ってきた。
この報告を聞いた将軍・家茂は驚いて、当時禁裏守衛総督として京都に居た一橋慶喜に宛てた緊急直筆書状を出した。いわく「国家重大危急存亡の事件が起ったので、一時も早く下阪して欲しい」というSOSの書付だった。そして基本方針もない幕閣はまたまた独断行動に出る。大阪城に帰って早速幕議を開いたが、老中・阿部正外や松前崇廣(たかひろ)は兵庫開港を強く主張し、朝廷への根回しもなく、25日ついに兵庫開港を受け入れる幕議決定を下した。その理由は、到底朝廷への伺いを済ます時間もなく、強いて伺えばたちまち戦争ということになり、幾万と言う人々が犠牲になるかも知れない。そこで今回は幕府限りの決定とし、ここで幕府が拒否したり回答を延ばしたら、条約4カ国はその軍事力を使って京都まで行き朝廷と直接交渉に持ち込む。これはすなわち幕府が瓦解する直接原因になるという判断だった。
家茂から「一時も早く下阪して欲しい」というSOSを受けた慶喜は、取るものもとりあえず朝廷に届けを出し大阪に向かった。途中で事態の内容を知った慶喜は、大阪城に到着し再度の幕議を開いたが、すでに決定した幕議以外の名案は出なかった。しかし幕朝関係の改善を最優先に考える慶喜は、勅許取得は自分に任せておいて欲しいと翌日の将軍・家茂自身の上京と朝廷への奏上の確約を取り、何とか朝廷の理解を得て勅許を得る期間を確保しようと図った。外国事務取り扱いの老中・松平康英(やすひで)の協力を得て、大阪町奉行・井上主水正(もんどのしょう)を4カ国艦隊に送り、幕府では兵庫開港を内決したが、かかる重大事は朝廷の勅許を必要とするのでと、更に10日間の猶予を交渉させた。艦隊側は10日あれば必ず勅許を得られるという証拠を示せと詰め寄ったが、井上は、では血判を押そうと刀を抜き自分の指を切りにかかった。これに驚いた艦隊側はそれを制止し、10日間の猶予を与えた。
♦ 朝廷の怒り、将軍の辞表
すぐ京都に帰った慶喜は事の顛末を朝廷に奏上した。井上主水正すら10日間の猶予を勝ち得たのに、老中たる阿部や松前はたった1日の猶予しか得られず、その上幕府限りでの兵庫開港を決めた弱腰と独断は許されないと、怒った朝廷は幕府に命じ阿部正外と松前崇廣の官位を剥ぎ、藩地での謹慎を命じた。更に関白の朝議では在江戸の幕閣、大老・酒井忠績(ただしげ)や老中・水野忠精(ただきよ)にも退職の沙汰を出すべく決定されたが、朝廷が幕府人事に口出しすることなどかってなかったから、幕閣はじめ皆は大いに驚き、これは朝廷と手を組んだ一橋慶喜の画策に違いないと思い込んだ。そんな慶喜や朝廷に対する反発からかは判然としないが、突然、将軍・家茂も大して違わない無責任な行動に出る。家茂は前名古屋藩主・徳川茂徳(もちなが)を上京させ「幼弱不才の身で征長の大任を蒙っていますが、内外多事の今、力及ばず、心痛のあまり胸痛が強く進退窮まっています。自分の家族の内にある慶喜は、長く朝廷に尽くし、その事務にも通じ、大任にも充分耐えられるので、自分、家茂は引退し、慶喜に相続させるため政務を譲ります。自分のときのごとく諸事ご委任下されるよう」と朝廷に慶応1(1865)年10月1日付けの辞表を提出させ、いま条約国と戦争になっては勝算は立たず、至急に条約勅許を下し、兵庫港に待たせてある条約国艦隊へ条約批准を通告して欲しいとの申請書簡も併せて提出した。そして10月3日、将軍・家茂は江戸に帰るという布告を出し、さっさと大阪城を出発してしまった。
これを知ってびっくりした朝廷は、家茂の辞表を持参した徳川茂徳に「大樹の願いは聞き入れられず、いつ御用が出るかも知れず、勝手に退阪し帰府することは天を軽視する行為で、朝臣の作法ではない。明日参内し自身で奏上すべき」と帰府中止の勅旨を与え、一橋慶喜、松平容保、松平定敬なども伏見へ行き、その東帰を中止し二条城に入り、自身で朝廷に奏上するよう強く諌めた。家茂も気持ちを静め二条城へ入ったが、少しでも頼みにした幕閣は大量に罪を受け、慶喜は京都に帰って意に反した動きをしているようだし、若い将軍の周りに頼る人物は誰も見当たらなかった。
♦ 条約勅許
孝明天皇も、将軍・家茂が辞任まで言い出し條約勅許を求める状況には困った。朝廷では条約勅許につき丸一日朝議を開き議論をしても結論が出ない。一橋慶喜から在京諸藩の藩士を召して諮問する提案があり、朝廷は早速30名以上もの在京諸藩士を集め意見を聞き取ったが、薩摩藩以外はほぼ条約勅許の意見だった。これを聞いた天皇も、更に考慮を重ねたがなかなか結論に至らない。時間は経過するばかりであった。一橋慶喜、松平容保、松平定敬、小笠原長行等も再度天皇に勅許を要請した。自身でも譲位まで考えたことのある孝明天皇も、辞任を言い出した将軍・家茂の必死な気持ちを考えたのかもしれない。ついに天皇は5日の夜10時ころ決断し、朝廷より幕府へ「条約について。ご許容あらせられたので、適切な処置を取ること。家茂へ」、また「これまでの条約面で種々不都合があり(天皇の)お考えに会わないので、新たに取調べ伺い、諸藩に命じ衆議の上取り決めること。兵庫の件は止めること」と、三港の開港は許すが更に衆議を凝らし再度許可を得るように。また兵庫の開港は止めるように、との勅旨を下した。
幕府は早速7日、4カ国へ朝廷の条約勅許を告げ、早期は困難だが約束期日通り兵庫を開港し、下関の賠償金は約束通り支払い、輸入税改定の談判は江戸で行うことに合意したが、パークスの軍事力示威作戦が成功したわけだ。
薩長同盟と将軍・徳川家茂の急逝
♦ 薩長同盟関係の構築
突然発生した連合艦隊の兵庫集結は、朝廷が條約を勅許することにより一応退散し解決を見たが、今回の将軍・家茂が自ら出動する長州征伐を視野に入れた再度の上洛は、前回の長州征伐から1年も経たないうちの出来事だから、物価がまた急上昇し、庶民は云うに及ばず諸藩の逼迫している財政に追い打ちをかけた。長州の処置につき基本政策がなかなか決定できない幕府は、自陣営内で條約勅許に絡み一橋慶喜と将軍や幕閣間の信頼関係も大幅に薄れ、親藩や譜代大名間でも再度の長州征伐の大義名分がないと消極論が強く、薩摩藩などは大いに反対し動きは更に鈍かった。こんな状況で将軍は大阪に居ても、再度長州征伐軍を編成できる状況ではなく、幕府は何とか長州からそれなりの陳謝を出させ顔の立つ決着を模索したが、長州ものらりくらりと引き伸ばし時間がのみが過ぎた。
この様に一瞬動きの止まったように見える政局のさなかの慶応1(1866)年12月28日、薩摩藩の黒田了介(清隆)は下関に来て、萩藩の木戸準一郎(桂小五郎)に京都に居る小松帯刀や西郷吉之助と両藩提携の話を煮詰めるよう説得した。また当時幕府の神戸海軍操練所が解散され、その後亀山社中をつくり物資輸送をしながら下関に居た、いわゆる土佐からの脱藩浪士・坂本龍馬もこれを大いに推奨した。これは勿論、幕府の長州処分に対抗しようとする動きの一つだったから、木戸は藩主・毛利敬親(たかちか)の許可を得るやすぐ黒田と共に京都に向かった。
そもそも、上述した文久3(1863)年8月18日の孝明天皇の主権回復時や、その1年後に起った禁門の変で薩摩藩は、朝廷に建策・建言しながらでも京都守護職を勤める会津藩や幕府と協調してきたのだ。そして島津久光は元治1年正月、なかなか攘夷実行ができず、半年もたたずにまた上洛して来るなどと苦慮している将軍・家茂を温かく迎えたほうが良いとさえ朝廷に建言し、朝廷と幕府の関係改善を模索しさえている。しかしその後、朝廷が圧力をかける攘夷実行を模索し、少なくとも横浜鎖港を攘夷の足がかりにしようと幕府はフランスやイギリスに向け鎖港談判使節を送ったが、島津久光は鎖港などすべき時ではないと繰り返し強くこれに反対した。幕閣はしかし、とにかく朝廷に気に入ってもらい主権を回復したいと出来そうもない約束までしていた時だから、久光の言動を幕府の足を引っ張ろうとするものだと強く疑い始め、最初は久光をかばっていた慶喜さえも次第に冷たくなった。そして元治1(1864)年3月9日、徳川慶喜、松平慶永、伊達宗城、松平容保、島津久光が突然そろって朝廷参与を辞任し、せっかくできた参与体制が崩壊してしまう。こんな経緯がある中で長州の強訴が始まり禁門の変に突入し、天皇から長州征伐の勅命が出て第1次長州征伐があった。この禁門の変も長州征伐も薩摩藩は勅命を大義名分として幕府と共に兵を動かしたがしかし、この辺りから薩摩藩と幕府の方向が明らかに食い違って行ったように見える。
この元治1年始めの時点での久光や薩摩の見解は、攘夷とは、すなわち国家の主権と尊厳の保たれる日本国を取り戻すことであり、そのためには貿易もし国力と軍事力をつけねばならず、短絡的な無謀な攘夷を避け、海防等を強化すべしということだった。薩英戦争で学んだ教訓も大きかっただろうが、これは明らかに孝明天皇の言い続ける「夷人の入国は神州の瑕瑾(かきん=恥)だから、すぐ攘夷せよ」という攘夷の考えとは違う。幕府はしかし、そんな天皇に擦り寄ってでも失った権威を取り戻したかっただけだ。従って、こんな幕府のやるようにただ単に鎖港をし、しばらく朝廷はじめ国内の過激な言動を冷やせばよいということではなかったのだ。しかし、上述の黒田了介が下関にやってくる20日ほど前には、老中・板倉勝静(かつきよ)と小笠原長行が久光とも親しい松平慶永に書簡を送り、「薩摩藩に不穏当の動きがあるので自重するよう言い聞かせて欲しい」と頼んでさえいるから、京都の藩邸で薩摩藩の活動を主導する小松、西郷、大久保などの反幕府活動として何かをキャッチしていたのだろう。
さて京都の薩摩藩邸にやってきた木戸は毎日ご馳走は出るがなかなか提携・同盟への話の緒が見つからず、実際に木戸と小松、西郷が薩長同盟に合意し6か条の合意書をまとめたのは、龍馬が心配して話し合いの進展をフォローしに京都にやって来た後の慶応2年1月21日になってだからだ。1月以上もたってのことだった。
♦ 将軍の交代
朝廷を強引に納得させた幕府の長州藩処分の決定は、藩領から10万石を削減し藩主隠居を命ずるものだった。長州はこの受領回答をずるずる引き延ばし、行き詰まった長州処分を力で決しようと終に幕府は慶応2(1864)年6月7日第2回目の長州征伐の兵を挙げ、幕府艦隊の周防大島への砲撃と上陸で戦いが始まった。しかし長州とすでに同盟関係を結んだ薩摩藩は幕府の出兵命令を大義名分が無いと明確に拒否し、宇和島藩、芸州藩や佐賀藩も参戦しなかったから、気迫や奇襲戦法に勝る長州は各地の戦いを有利に進めた。幕府先鋒総督の紀州藩主・徳川茂承(もちつぐ)は広島から、老中・小笠原長行は監軍として小倉から参戦したが、苦戦を戦う幕府軍に突然将軍・家茂の死去の知らせが追い打ちをかけ、老中・小笠原長行はたまらず戦線を離脱するという、幕府にとっての最悪事態になった。しかし幕閣は1月も徳川家茂の喪を公にせず、老中・板倉勝静や松平慶永、松平容保などが将軍後継に一橋慶喜をくどいたが、慶喜は取りあえず徳川本家の相続だけを受入れた。その後徳川慶喜は長州征伐の中止を朝廷に申請し、最初は渋っていた孝明天皇もしぶしぶこれを認め、朝廷の斡旋でやっと双方の兵を引くことが出来た。
しかし、この時点で徳川慶喜はまだ征夷大将軍を引き受けていないから、孝明天皇が慶応2(1867)年11月下旬に言い出し、慶喜が12月5日第15代将軍に正式就任するまで、4ヵ月半ほども日本には征夷大将軍がいなかったわけだ。しかしこの20日ほど後には、今度は孝明天皇も急逝してしまうから、ここから急速に歴史が動くことになる。
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