日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ロシアのアラスカ進出、レザノフの日本襲撃命令、アメリカのアラスカ買収  -  中編

3、レザノフ全権使節の長崎での失敗と、日本襲撃命令

 長崎で冷遇されたレザノフ全権使節
(主要典拠1:”Voyage Round the World, in the Years 1803, 1804, 1805, & 1806,” by the Order of His Imperial Majesty Alexander the First, on board the ships Nadeshda and Neva, under the command of Captain A. J. Von Krusenstern, of the Imperial Navy. Vol.I, Vol.II, London 1813.
2:”The Works of Hubert Howe Bancroft. Volume XXXIII. History of Alaska. 1730-1885,”. San Francisco: A. L. Bancroft & Company, Publishers. 1886. )

ロシアのクロンシュタット港を出航後、ハワイ島に寄り補給をし、アラスカに直行するネワ号と別れた後、レザノフ全権使節を乗せたクルーゼンシュテルン艦長の運行するナジェジダ号は大きな事故もなく、1804年7月17日にカムチャッカ半島のペテロパブロフスクに入港した。しかしホーン岬を回って大嵐に遭い、水漏れが激しくなったナジェジダ号の船底修理や装備交換のため、直ちに索具を外し帆を外し、クロンシュタット港から積んできた造船関係の100トンにも上る鉄製品以外の容易に動かせる荷物は、船体修理のため全てを陸揚げした。

レザノフ使節一行には長崎で必要になる儀仗兵が含まれていなかったので、この地、ペテロパブロフスクから8人の兵士を追加したが、クロンシュタットから同乗してきた何人かの搭乗員が下船した。
更に通訳を務める予定であった日本出身のキセリョフ・善六を、ここペテロパブロフスクに残していくことも決定された。善六は若宮丸で漂流し今回日本に帰る津太夫などと共にロシアに救助されたが、シベリアの豪商であるステパン・キセリョフが名付け親になって洗礼を受け、ピョートル・ステパノヴィッチ・キセリョフを名乗り日本語通訳になっていたのだ。善六を残す理由はクルーゼンシュテルンの記述によれば、船中のキセリョフ・善六は大声で帰国する仲間とけんかをするなど振る舞いが不適切であったうえ、日本に送還するため乗船している他の日本人漂流者、津太夫、左平、儀兵衛、太十郎から嫌われていたからであった。またレザノフは、もし長崎で日本側がキセリョフ・善六はキリスト教に改宗したという事実を知れば、長崎の役人は激しく憤慨するであろうと考えたのだった。出航以来ペテロパブロフスクに着くまでの間にレザノフが船中で作成した、いろは歌や数詞の一覧をはじめ様々な言葉が収録された日本語辞書や会話集の作成には、航海中にキセリョフ・善六が協力したと言われている。

1804年9月6日、レザノフ全権使節と日本人漂流者を乗せ、帆を揚げたナジェジダ号は13発の祝砲と共にペテロパブロフスクのあるアヴァチャ湾から外洋に出た。そして日本列島の東側を南下し、長崎に入港した。

日本との交渉は省略するが、全く身動きも取れない厳しい監視の中で長期間待たされた挙句、結果的に何も聞き入れられず、通商確立交渉は完全な失敗だった。しかしクルーゼンシュテルンの航海記には、次のような興味あるコメントが載っている〔Voyage Round the World, Krusenstern, Vol.I, P.260〕

ここで私が、日本人の不信感を抱かせるような振る舞いについていくつかの不満を挙げたとしても、その一方で、船の修理に必要な資材に関する私のあらゆる要請が、極めて正確かつ迅速に聞き入れられたという事実は否定しがたい。さらに、乗組員たちには食糧が定期的に支給されただけでなく、長崎で入手可能な最良の品が常に、しかも私が要求した通りの量で提供された。出航に先立ち、彼らは私たちに8,000ポンドものパン類をはじめ、2ヶ月分にあたるあらゆる種類の食糧を供給してくれた。これらは、後述する皇帝から乗組員への下賜品とはまた別のものである。しかしながら、金銭を用いて何かを購入することは、一切許されなかった。
こんな事実と共に、日本とヨーロッパの習慣の違いや文化の違いに腹を立て、大いに戸惑ったことが記述されている。

 長崎を出港しペトロパブロフスクに向かう

レザノフ全権使節が乗船出来次第、直ちに出港してもらいたいという長崎奉行からの伝達により、長崎出港を決めたレザノフ使節とクルーゼンシュテルン艦長は、1805年4月17日の早朝錨を揚げた。
長崎出港後ナジェジダ号は日本海に入って日本列島沿いを北上し、津軽海峡を確認し、北海道の西海岸を北上し、ラ・ペルーズ海峡〔宗谷海峡〕からオホーツク海に入る航路をとった。

当時まだ世界的に情報の少ない蝦夷と呼ばれる北海道や樺太周辺については、1787年に調査に来たフランスのラ・ペルーズ探検隊筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)の航海情報が1797年にフランスで発行されていたが、この情報はクルーゼンシュテルンも出発前に入手し参照していた。しかしその9年後の、1796年から1797年にかけ千島列島や蝦夷、樺太近辺の調査に来たイギリスのブロートン探検隊筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)の調査情報は、1803年9月8日のナジェジダ号とネワ号のクロンシュタット出港時までにはまだ入手されていなかったようだ。

こんな日本海を北上する航海の中で、クルーゼンシュテルンの航海記に宗谷湾に停泊した記述がある〔Voyage Round the World, Krusenstern, Vol.II, P42〕

11日の午前9時、一人の士官を先頭とする日本人の一団が、島民たちが漕ぐ大型の舟に乗って〔宗谷湾東側から〕到着した。その士官は我々の来航にひどく狼狽している様子で、直ちにここから出航するよう、極めて切実に懇願してきた。というのも、彼が遅滞なく報告を送らねばならない松前において、我々がこの沿岸に現れたという事実が知れ渡れば、彼らは間違いなく大艦隊を差し向けてくるだろうし、そうなれば我々に慈悲など一切期待できないからだ、というのがその理由であった。自らの脅しをより効果的に見せようとしてか、彼は「ブン、ブン」という言葉を幾度も繰り返すと同時に頬を大きく膨らませてみせた。それによって彼は、松前の艦隊がいかに苛烈な手段をもって我々に対処してくるかということを、我々に明確に理解させようとしたのであろう。しかし、彼の脅迫めいた言葉や、威嚇しようとして演じてみせたその身振り手振りがあまりにも滑稽であったため、我々はつい笑いをこらえきれなくなってしまったのである。しかし、私は力の及ぶ限りのあらゆる手段を尽くして彼をなだめ、当時ひどい霧に包まれていた天候が晴れ次第、必ず出発すると彼に請け合った。私がこの約束を極めて厳粛な態度で改めて伝えると、彼はいくぶん安堵した様子を見せ、再び会話を始める余裕を取り戻したようだった。その後の会話は、どうにかして日本語で意思疎通を図ることに成功した使節の仲介もあり、極めて円滑に進んだ。
この後レザノフ使節も乗るナジェジダ号は、ラ・ペルーズ海峡〔宗谷海峡〕からオホーツク海に入り、樺太のアニワ湾、タライカ湾を測量調査し、1805年6月5日ペトロパブロフスクに帰着した。従ってレザノフ自身も樺太南部、特に後に攻撃命令を出すアニワ湾の事情をよく見知っていたわけである。

 レザノフの、ロシア皇帝の日本襲撃許可の期待

レザノフは、全権使節として長崎に遠征した目的である「日本との通商確立」を交渉によって達成できず、冷遇された挙句の帰国である以上、武力行使をすることが必要であると考えたようだ。長崎からの帰途、自身で目撃した樺太南部や、既に「1799年の勅令」で自身の責任下にあるロシア・アメリカ会社の支配下に入っている千島列島のエトロフ島にある日本施設を攻撃する軍事遠征を決意したのだ。

レザノフはしかし、この時点で、軍事遠征を実行に移すためのロシア皇帝政府からの正式な認可を受けていなかった。この無許可の事情は、1805年6月5日に日本からカムチャッカ半島のぺトロパブロフスクに帰港し、そこから6月24日、会社所有のマリア号に乗り、更に進んでアラスカ視察のため7月25日にウナラスカ島に着き視察を行ったが、この島からロシア皇帝のアレクサンドル1世に宛てた手紙の中で、次のように述べていることから明らかである〔History of Alaska.1730-1885. P.447。(1805年7月18日付け)〕

陛下におかれましては、私が有能な協力者であるフヴォストフおよびダヴィドフ両中尉の増援を受け、艦船の修理と新たな武装を施した上で、来年にも日本沿岸へ進出し、松前の拠点を破壊し、樺太から日本人を駆逐し、さらには沿岸全域や千島列島から彼らを威嚇して退去させ、その漁業を壊滅させることで20万人の食糧を奪い、それによって彼ら日本人に早期の開港を余儀なくさせるという計画を、私の罪深い行いとはお考えにならないことを切に願っております。聞くところによれば、彼らは大胆にも、我々の領土である千島列島の一つ、ウルップ島に商館を建設したとのことです。・・・・もし私が〔日本攻撃をせず〕時を無駄に過ごし、陛下の栄光のために捧げなかったならば、私の良心はより一層強く私を責めることでしょう。
と書き、ロシア皇帝の日本攻撃許可を強く期待している。

しかしここまで追い詰められ、心の平静を失ってしまったレザノフではあったが、自ら国家を代表し「ロシア使節」として日本へ届けたロシア皇帝の親書の内容を思い出すことが出来ていたら、日本襲撃という暴挙は、親書の初めの部分にロシア皇帝が書いていた、
私の帝国が平穏と安寧の中で幸福であることに全力を捧げ、全世界の諸国、とりわけ近隣諸国との友好関係の樹立のために心をくだいております。
と言う皇帝の意思に真っ向から反した行動であることは明白に分かったはずである〔ロシア皇帝親書:『開国以前の日露関係に関する研究』、研究代表者:平川新、(東北大学東北アジア研究センター)、P.461〕
レザノフは日本に対しそれほど怒り狂い、自身の責任下にあるアラスカの窮状解決だけに目を奪われ、国家間の問題解決との見境がつかなくなっていたというべきか。これはクリミア戦争下という制約はあっても、後の1853年と1854年から1855年にかけ同じ目的で来航したロシア使節プチャーチンの行動と比較すれば良くわかる。

 レザノフの日本襲撃指示

さてレザノフは、自身が責任を持つロシア・アメリカ会社に所属している海軍将校であった会社所有船・ジュノー号〔1805年10月にアメリカ人船長ジョーン・デウルフから購入した船。ロシア名はユノナ号〕の船長ニコライ・フヴォストフ〔Nikolai Khvostov〕と、同・アヴォス号の船長ガヴリイル・ダヴィドフ〔Havriil Davydov〕に対しこの日本交易場所襲撃計画を実行するよう命じたのだ。フロリダ州立大学教授だったG. A. レンセン博士は、レザノフの心の動きを次のように書いている。

レザノフは日本を離れるにあたり、日本側を懲らしめて屈服させるという計画を立てた。この決断の背景には、個人的な侮辱を受けたという感情に加え、自国および皇帝が侮辱されたという思いがあった。何よりも、レザノフのこの決断は、日本との通商開始に向けた必死の試みであった。彼は日本との貿易を、単に自社や自身の利益を増やすための手段としてだけでなく、太平洋沿岸に点在する「食糧不足にあえぐ」ロシア植民地へ物資を供給するための、唯一にして最善の手段であると考えていたからである。日本に対する敵対行動に踏み切るという彼の決意は、カムチャツカからノヴォ・アルハンゲリスクへと向かう航海の途上で固まったようである。帆船マリア・マグダレーナ号で航海中、彼はロシア・アメリカ会社に勤務する二人の若き海軍将校、ニコライ・フヴォストフ中尉とガヴリイル・ダヴィドフ少尉と親交を深めた。彼らとの対話を通じて、レザノフは自らの〔日本襲撃〕計画を具体化させていった。
という〔"The Russian Push toward Japan" by George Alexander Lensen, New York, Octagon Books. 1971. P.161〕

1806年6月24日、ジュノー号とアヴォス号は日本攻撃のため樺太島に向けアラスカのノヴォ・アルハンゲリスクを出航したが、レザノフはジュノー号に乗船していた。当初、レザノフ自身がすでに見知っている樺太島攻撃隊の指揮を執る予定であったが、その後カラフトには行かずにオホーツクで下船し、そこからサンクトペテルブルクへ向かうことを決定したという。
筆者にはその真の理由は不明ながら、ゴローニンの『日本幽囚記 III』には、次の引用文中にあるごとく、「季節がすでに進んでいたため、サンクトペテルブルクへ帰還せざるを得なくなった」としている。しかし嵐により航海が遅れたとしても、こんな季節的変化はレザノフがアラスカを出発する以前から分かっていることであり、海に氷が張り航海不能になるような極端な場合以外はあまり説得力がない。
筆者にはむしろレザノフの個人的な理由、すなわちサンフランシスコのアルグエヨ司令官の令嬢、ドニャ・コンセプシオンとの結婚を急ぐため、早くサンクトペテルブルクで宗教的問題解決をしたいこと、また直接皇帝に面会し、大いに気になっている皇帝の日本侵略許可を得たいことの2点であったと思う。 以下はゴローニンの『日本幽囚記 III』の巻末に「フヴォストフ氏及びダヴィドフ氏の航海記」と題する項が挿入されている中からの抜粋である〔『日本幽囚記 III』:"Memoirs of a Captivity in Japan", by Golownin, Vol. III, London, 1824, P.285-287(「フヴォストフ氏及びダヴィドフ氏の航海記」の中)〕
レザノフは自らこの攻撃計画の遂行に立ち会うべく、2隻の船を率いて出航した。しかし後日の8月8日、彼は考えを変え、フヴォストフに〔極秘〕訓令を渡した。その中には、前述したサハリン〔樺太〕の住民や日本人に関する指示が含まれていたほか、数々の困難を伴うこの遠征の成功に責任を持つことや、関係者全員に秘密厳守の誓約書へ署名させることなども命じられていた。レザノフ自身は、彼らの攻撃計画を目撃し、その一端を担うことで、皇帝陛下へ自らの見聞に基づいた報告を行いたいと強く望んでいた。しかし、季節がすでに進んでいたため、サンクトペテルブルクへ帰還せざるを得なくなった。そこで彼は次のように指示した。ダヴィドフはそのままサハリンおよび松前への航海を続け、アニワ湾かラ・ペルーズ海峡のいずれかでジュノー号の戻りを待つこと。一方フヴォストフは、レザノフをオホーツクに上陸させた後、アニワ湾へ向かってダヴィドフと合流し、共同して訓令を遂行すること。ジュノー号がオホーツクに到着すると、レザノフは下船し、フヴォストフに対して、いつでも目的地へ向けて出航できるよう準備を整えておくよう命じた。その際、彼は訓令に追記を行うという名目で、一旦その書類を返却するよう求めた。フヴォストフが出航の命令を今か今かと待っていると、レザノフから追記がなされた訓令が送られてきた。フヴォストフはそれを読むやいなや、口頭での説明を求めようと急いでレザノフのもとへ向かったが、彼はすでにオホーツクを離れた後であった。その訓令の追記は次のような内容であった。

「オホーツク到着にあたり、貴殿に与えられた訓令に関し、一言述べておく必要があると考える。フォアマスト〔前檣〕の不具合と逆風により、我々の航海は遅延した。そのため、季節の進み具合を考慮すれば、貴殿は直ちにアメリカへ急行せねばならない。アニワ湾で伴走船〔アヴォス号〕と合流する予定時刻はすでに過ぎており、現地の漁期も終了しているため、もはや好ましい成果は期待できない。あらゆる状況を勘案した結果、以前の訓令をすべて度外視し、ニュー・アルハンゲリスク港の守備隊を増強するためにアメリカへ向かうことが必要であると判断した。なお、伴走船アヴォス号は当初の訓令通り帰還せねばならない。貴殿はもし風の都合がつき、時間をロスすることなくアニワ湾に寄港できるならば、贈り物やメダルを用いてサハリン〔樺太〕の先住民を懐柔し、同島における日本人の入植地の状況を調査されたい。こうした活動、とりわけアメリカへの帰還は貴殿の名誉となるものであり、後者こそが貴殿の尽力すべき主要な目的であるべきである。もし伴走船と遭遇した場合には、同様の指示を伝えること。総じて、航海中に予期せぬ事態が生じたとしても、貴殿は間違いなくロシア・アメリカ会社の利益とそれらを両立させる方策を見出すことであろうし、貴殿の才能と経験があれば、この新たな指示を最善の形で実行する方法も自ずと分かるはずである。私としては、この港にマストを交換する手段がないこと、そして諸般の事情により目的地を変更せざるを得なくなったことを、極めて残念に思う次第である。
1806年9月24日、第609号。〔原本の署名〕ニコライ・レザノフ。」
レザノフに直接会えなかったフヴォストフは、この追加訓令書に従い日本に向かった。フヴォストフへの追加訓令の指示は、もし風の都合がつき時間をロスすることなくアニワ湾に寄港できるならば、日本攻撃ではなく「サハリン先住民を懐柔し、日本人の入植地の状況を調査」するように行動目的を変えている。しかしフヴォストフは現地攻撃をしたのである。歯切れの悪いこんな追加訓令で、フヴォストフは困惑したに違いない。

フヴォストフが攻撃に踏み切った理由は、1808年8月4日に皇帝アレクサンドル1世が許可、受領した「N.P.ルミャンツェフ〔ロマンツォフ〕からアレクサンドル1世への上申書」にその理由が報告されている〔『ロシア史料にみる18〜19世紀の日露関係』 第5集、平川新監修、東北アジア研究センター叢書第39号、P.168〕
・・・あらゆる事情を考慮し、レザーノフ氏は以下が最善であると判断した。すなわち、命令事項の遂行をすべて中止し、フヴォストフはノヴォアルハンゲリスク港の人びとを増援するためにアメリカへ向かうこと。しかし、風向きのためにアニワ湾に立ち寄らざるを得ないときには、時間を無駄にせず、フヴォストスはサハリン人を撫柔すること。フヴォストフはこれらの相反する命令に驚き、アメリカへ直行する決心がつきませんでした。ダヴィドフが乗船した〔伴走〕船は消息不明なままで、彼の推測では日本人の手に落ちた可能性もあったからです。この船がクリル島のどこかの島で日本人と遭遇し、指示書に従って日本人に対する軍事活動を開始した可能性もありました。そこで、彼はアニワ湾に向かいましたが、そこでダヴィドフの船を発見できなかったので、ダヴィドフは日本人の手に落ちたに相違ないとの結論に至りました。その結果、フヴォストフは以前の命令事項すべての遂行に着手しました。フヴォストフはイルクーツク県知事トレスキン宛の上申書で、このように説明しております。この上申書は現在、海軍大臣から私のもとへ戻ってきております。

 ロシア勢、日本交易場所の襲撃と略奪       


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樺太島アニワ湾、千島列島のエトロフ島ナイボ湾と紗那、ウルップ島

Image credit: ©Google Earth

さてここに、フヴォストフがレザノフの命令通りアニワ湾で樺太を領有宣言する儀式を行った模様が、筆者が参照したロシア語の「レザノフ・サイト」に描かれている。これは同サイトのロシア語の英訳版である。オホーツクからアニワ湾まで直線距離で1,500Km程であるが、10日ほどで到着したようである。

1806年10月6日、軍艦・ジュノー号はアニワ湾に投錨した。翌日、乗組員の一部が上陸してアイヌの集落を訪れ、10月8日にはフヴォストフがサハリン〔樺太島〕をロシアの領有地であると宣言した。
この式典の様子は同「レザノフ・サイト」に、ジュノー号船長のフヴォストフにより次のように記されている〔レザノフ・サイト:”§ Military expedition against the Japanese settlers on Sakhalin, https://rezanov.krasu.ru/eng/commander/sah.php, c 2003 Internet Center of KSU (SibFU), web@krasu.ru, (From Russian to English, translated by Julia Erotskaya)“ 〕
午前8時、私〔フヴォストフ〕、カルピンスキー中尉、そして見習い水兵のカレキンは2艘のボートに乗って集落へと向かった。海岸に近づくと、大型ボートには海軍旗を、小型ボートには商船旗を掲げた。今回は前回よりも多くのアイヌの住民が岸辺に出てきていた。彼らは膝をついて我々を出迎え、友好的な歓迎をしてくれた。上陸後、我々ロシア人は彼らの友人であるということを簡単な言葉で伝えようと試みた。私は、岸辺に立てられた旗竿に商船旗と海軍旗の両方を掲げるよう命じた。その後、船の方を指し示しながら、居合わせた全員にスカーフや様々な小物を贈った。集落の長(『トエン』)には、最高級の外套(カポト)と、ウラジーミル勲章のリボンが付いたメダルが贈られた。続いて、岸辺から6門の砲による三連発の礼砲が放たれ、それに応える形でボートからも一発の礼砲が撃ち返された。ここで特筆すべきは、砲撃の音そのものに対しては、先住民・アイヌたちは微塵も恐れる様子を見せなかったことである。しかし、砲口から噴き出す火炎を目にし、轟音を耳にした途端、彼らは恐怖に怯え、一斉に頭を垂れたのである。メダルを授与された先住民の長には、さらに一枚の文書も手渡された。その文書には、次のように記されていた。
『1806年10月の本日〔12日か〕、海軍中尉フヴォストフの指揮下にあるロシアのフリゲート艦・ジュノー号が当地に到着した。そして、アニワ湾の東岸〔西岸か〕に位置する当集落の長に対し、サハリン島およびその住民をロシア皇帝アレクサンドル1世の至高なる保護下に収めることの証として、ウラジーミル勲章のリボンが付いた銀メダルを授与する。今後、当島に寄港するいかなる船舶であれ、それが外国船であろうとロシア船であろうと、当集落の長をロシア帝国の臣民として認めなければならない。』

その後、ロシアの水兵たちは湾岸沿いで遭遇した日本の商店や交易拠点をことごとく略奪し、4人の日本人住民を捕虜とした。日本の倉庫から発見された物資の一部はジュノー号へと運び込まれた(全体として、米約1,000プード〔16.4トン、273表。ロシアの古い重量単位、1プード=約16.38Kg〕、塩約100プード〔1.4トン〕に加え、網や生活用具などがジュノー号に収容された)。また、フヴォストフの提案に従い、酒類の備蓄も一部が略奪された。その後、日本の家屋や木材の備蓄はすべて焼き払われた。10月16日、ジュノー号はアニワ湾を後にした。
このロシア語のレザノフ・サイトには、エトロフ島の襲撃についても述べられている。
1807年5月、ジュノー号とアヴォス号が択捉島の沿岸に姿を現した。5月18日、フヴォストフとダヴィドフはナイボ湾に寄港し、そこにあった小さな日本の集落を焼き払った。続いて彼らは、択捉島最大の日本の集落である紗那(現在のクリリスク)を襲撃した。紗那の駐屯地に配備されていた兵力はさほど多くなかったため(兵士約300名)、同地は容易に蹂躙された。日本の商人や実業家の商店は略奪され、集落は焼き尽くされた。5月27日、ジュノー号とアヴォス号は択捉島を離れた。6月10日に得撫島に寄港した後、両船はアニワ湾へと入った。同地に残っていた日本の建造物をすべて焼き払った後、フヴォストフとダヴィドフは北海道方面へと向かった。小さな島であるピーク・ド・ラングル島〔利尻島。フランスの探検家ラ・ペルーズの命名〕周辺において、彼らは4隻の日本船を焼き払い、積荷であった米、魚、塩を奪取した
本ロシア語のレザノフ・サイトは更に述べて、
フヴォストフが北海道奉行宛に記した書簡の中で、彼はロシアがこの遠征を組織するに至った理由を正当化した。また彼は奉行に対し、翌年に再び来航し、その書簡に対する回答を受け取りに来る旨を伝えた。日本政府からの回答(そこには、交渉の実施および通商関係の樹立に対する明確な同意が表明されていた)は、1808年の夏、北海道奉行へと手渡された。しかし、ロシア側がその回答を受け取りに再び来航することはなかった。こうして彼らは、実際に日本が開国する時期よりもおよそ50年も早く、日本との接触を実現し得る機会を逸してしまったのである。
この奉行宛の書簡の回答を受け取りに来るロシア船は、中止されたようだ。


4、ロシア・アメリカ会社のアラスカ経営の問題

 毛皮資源の減少と物価の高騰

少し時間が戻る。前述のごとくレザノフは1805年6月5日、日本の長崎からカムチャッカ半島のぺトロパブロフスクに帰着したが、6月24日、ナジェジダ号に同乗してきたドイツ出身の博物学者で医者のラングスドルフ博士と2人でナジェジダ号と分かれてぺトロパブロフスクを出発し、更に進んでロシア・アメリカ会社が開発するアラスカ視察のため7月25日ウナラスカ島に着き島の視察を行った。ウナラスカ島から皇帝宛に出した正規報告書〔History of Alaska.1730-1885., P.446-447。(1805年7月18日付け)〕に、

セント・ポール島に生息するアザラシの数は、信じがたいほど膨大であり、海岸はその群れで埋め尽くされています。捕獲は極めて容易で、我々は食糧不足に陥っていたため、わずか30分の間に18頭が捕らえられ、我々の食卓に供されました。しかし同時に、かつてに比べ、その生息数が90パーセントも減少してしまったという事実も知らされました。もしボストン商人たちの存在がなければ、これら諸島は尽きることのない富の源泉となり得たでしょう。彼らは我々の対中国毛皮貿易を妨害しており、その毛皮の多くを、我々の領土であるアメリカ沿岸部から大量に調達しているのであります。すでに100万頭以上が殺戮されていたため、私はアザラシの完全な絶滅を防ぐべく、直ちに殺生を中止するよう命じました。そして、隊員たちにはセイウチの牙の収集に当たらせることにしました。セント・ポール島の近傍には、セイウチの群れで埋め尽くされた小島が存在していたからであります。・・・

陛下の忠実なる臣下として、あえて申し上げます。この地に対する支配を、より強固なものとすることは極めて肝要であると存じます。ボストンからは毎年15隻から20隻もの船が交易のため〔この地、アラスカに〕来航しており、このままでは、我々が何の成果も得られずにこの地を去ることになるのは火を見るよりも明らかであります。まず第一に、会社は堅牢な小型ブリッグ船を建造し、その武装として強力な大砲を装備すべきであります。〔こうして競争相手を排除すれば〕ボストンからの来航者を牽制し、中国側も我々以外の者から毛皮を入手することは不可能となるでしょう。第二に、これほど大規模な事業を展開するには多大な経費を必要としますが、毛皮貿易のみではその財政を支えきれません。主食である穀物をオホーツクから輸送し続けなければならない限り、アメリカ大陸における植民地の開発が真に軌道に乗ることは決してないでしょう。この課題を解決するためには、スペイン政府に対し、フィリピン諸島あるいはチリにおいて、現地の産物を購入する許可を求めるよう働きかけることが不可欠であります。それらの地であれば、ピアストル建ての為替手形を用いることで、穀物、砂糖、ラム酒などを安価かつ潤沢に入手することができ、カムチャッカ全域への供給をも賄うことが可能となります。その間にアメリカ大陸での植民地開発を推進し、現地で船舶を建造した暁には、〔再び〕日本に対し、我々との貿易に向けて港を開放するよう迫ることも可能となるでしょう。
この様にレザノフは、ロシア・アメリカ会社自身や侵入してくるボストン船がアラスカで獲りすぎた毛皮獣の資源減少を認識し、視察途中のセント・ポール島でアザラシはかっての10%くらいしかいないという報告を受け、強い危機意識を持ったのだ。更にオホーツク経由で本国から持ってくる食料品などの価格が非常に高騰していた。すなわち現地の最前線で働くプロミュシュレンニキ猟師たちへ支給する食料や必需品が高騰していたのだ。そこで「毛皮貿易のみではその財政を支えきれません」と報告するように、期待していた日本貿易を断られたため、新スペイン領土のフィリピンやチリとの交易を模索し、陸続きのカリフォルニアへも出かけることになる。

 入植地の原住民攻撃による攻防と、レザノフのアラスカ経営新指針

少し話を戻すことになるが、レザノフがアラスカ各所の視察を終え、新しく1804年に再建されたばかりの入植地のノヴォ・アルハンゲリスク〔現シトカ〕に到着してからの数ヶ月間、植民地の改善や福祉向上に向けた方策を協議するため、レザノフを中心に公式な評議会が何度も開催された。一連の審議が終了した後にレザノフはバラノフはじめの主要な管理者に対し、今後の指針とすべき一連の指示書を手渡した。彼はその指示書の中で、職人や商人の育成に格別の注意を払うこと、駐屯部隊の兵員は友好的な先住民や会社の費用で教育を受けた先住民の若者たちから募ること、植民地内の学校で若者を訓練し、簿記係、事務員、代理人などの職務に就かせること、高齢者や身体障害者の生活を支えるための基金を設けること、そして造船職人が不足している現状に鑑み、たとえ多少の損失を被ってでも機会があれば外国人から船を購入すること、そのためにロンドンやアムステルダムの銀行に信用枠〔クレジット〕を確保しておくこと、さらに穀物類の安定供給を確保するため、カリフォルニア、ニュー・アルビオン〔サンフランシスコ湾入り口から45Km程北のドレークス湾を中心にその広い近辺の、太平洋沿岸の総称。〕、およびフィリピン諸島との間で貿易関係を確立すること、などを提言し指示を出していた〔History of Alaska. 1730-1885. P.453〕

ここに「再建された」と書いたこの入植地のノヴォ・アルハンゲリスク〔現シトカ〕は、1799年に現地責任者のバラノフがラッコの猟場として砦を築いたが、先祖伝来の自分たちの地域に次々と侵入してくるロシア勢に対抗するトリンギット族が1802年に砦を攻撃し、入植者を追い出し、砦全体を占領していた。それから2年後の1804年、バラノフ軍はアリュート族も率いて来襲・反撃し、トリンギット族を破り追い払った。その後バラノフは旧砦の近くに再度新しい要塞を築き、自身の出身地の町の名前を取り、ノヴォ・アルハンゲリスクを再建したのだ。 この時レザノフが本国のロシア・アメリカ会社の取締役に送った報告書に〔History of Alaska. 1730-1885. P.453-454〕

毛皮貿易のみに頼っていては、会社は存続し得ません。したがって、遅滞なく、より広範な性質を持つ事業――すなわち、当植民地から航路が開かれている他国との貿易――を組織することが絶対的に必要であります。毛皮獣の生息数が年々減少していることを鑑みれば、この必要性はなおさら高まります。もしバラノフがノヴォ・アルハンゲリスクへ反撃せず、現地の事業はすでに失われたものとして放棄していたとしたら、会社に及ぼす影響は甚大であったでありましょう。すなわち、株価はかつてのように数千ルーブル台まで高騰するどころか、およそ280ルーブルの水準まで暴落していたに違いありません。そうなれば、自身の取り分である半株分の140ルーブルを受け取る猟師たちは、実質的に無報酬で働くことになってしまいましょう。なぜなら、食費や飲料代といった経費だけでも、毎年その受取額を上回ってしまうからであります。私の試算によれば、現在の物価高騰下において、猟師が年間支出する経費は、いかなる場合も317ルーブルを下回ることはありません。
と書いている。

また、レザノフがこの様なアラスカ運営の改善策を指示するころ、ロシア・アメリカ会社が勅許会社になる以前の1795年、バラノフがラッコの狩猟場として開いた入植地のヤクタット〔ノヴォ・アルハンゲリスクの北西、約380Km〕で1805年8月20日、現地に住むイヤック族とトリンギット族がロシアの要塞を襲撃し、焼き払い、ロシア人入植者男性を皆殺しにする事件があった。ここには主としてロシアの流刑囚が入植し、トリンギット族をほぼ奴隷状態で使役していた場所であったが、上記のレザノフの指針である「駐屯部隊の兵員は友好的な先住民や会社の費用で教育を受けた先住民の若者たちから募ること」にも影響を与えたと思われる。

更に、1805年から1806年にかけての冬は、前年から度重なる現地人の入植地襲撃やシトカの奪還など戦闘行為の外にも、気候が厳しく会社の船とカヌーのバイダーカ船団の遭難があり、オホーツクからの食糧補給船も現れず、食料不足に拍車をかけ危機的状況になった。こんな困難の最中にレザノフが現地視察に来たのだ。
そんな状況下で偶然にも、まだ若いアメリカ人のジョーン・デウルフ船長がジュノー号に乗り現地人との交易の途中ノヴォ・アルハンゲリスク〔シトカ〕に立ち寄った。ジュノー号は1799年にアメリア合衆国マサチューセッツ州ダイトンで建造された295トン、3本マストの商船で、船底は銅張であった。入植地の食料不足と船不足に背に腹を変えられないバラノフは1805年10月始め、積み荷の多量の食料やその他の物資ごとこのジュノー号を68,000ドルで買い取ったのだ。バラノフはこのジュノー号をユノナ〔Yunona〕号と呼んだ〔"A Brief History of the Vessel JUNO, 1799-1811" by Tobin Shorey, Alaska Historical Society, May 29, 2015〕
上述のレザノフの指針にある「造船職人が不足している現状に鑑み、たとえ多少の損失を被ってでも機会があれば外国人から船を購入すること」という指示は、こんな現地状況を反映したものと思われる。

 レザノフのサンフランシスコでの交渉と、帰国途中の死

幸運にも、食糧危機の最中にアメリカ人のジョーン・デウルフ船長から購入したジュノー号と十分に積んでいた食料とで一息ついた新しい植民地ノヴォ・アルハンゲリスクから指揮をとるバラノフであったが、そこを訪れたレザノフとても手をこまねいているわけには行かなかった。新しく入手したこのジュノー号で南下し、スペイン領での交易を模索することを決めたのだ。

交易見本を少し搭載したジュノー号の出港準備もできた1806年3月8日、レザノフと博物学者で医者のラングスドルフ博士はノヴォ・アルハンゲリスクを出港し、北アメリカ大陸の太平洋側を南下し始めた。しかし船を動かすロシア人たちはそれまでの食糧不足と栄養不足から、ほとんど半数が壊血病を発症する中での航海だった。
4月5日、何とかサンフランシスコ湾にたどり着いたジュノー号は、入り口を守備する砲台から砲撃されそうになったが辛くも安全な港に停泊できた。ロシア語とスペイン語は互いに通じなかったので、ラテン語を話すラングスドルフ博士と現地のカトリック神父がラテン語で話を通じた。

サンフランシスコに上陸して早速、新鮮な食材を使いバランスの取れた食事をした壊血病患者について、医者でもあるラングスドルフの興味ある記述がある〔"Voyages and Travels in Various Parts of the World, during the Years 1803, 1804, 1805, 1806, and 1807." by G. H. VON LANGSDORFF. Part II. London. 1814. P.135-136〕

シトカにおいて、魚やアザラシ・クジラの脂身、それにベリー類やユリ根、時には少量の米といった乏しい食事に慣れ親しんでいたプロムィシュレンニキ〔毛皮猟師たち〕は、ヌエバ・カリフォルニアで栄養価の高い肉類や豆類を供されたことで、その健康状態が著しく改善され、やがて壊血病からも完全に回復した。太った雄牛一頭で乗組員全員を三日間養うのに十分であり、その費用はわずか4スペイン・ドルに過ぎなかった。水夫たちに野菜や豆類を与えるよりも、肉類を与える方がはるかに安上がりであることが判明したのである。パンさえも極めて控えめにしか供されなかったため、彼らはついには肉ばかりを食べさせられることに飽き飽きし、エンドウ豆やインゲン豆、その他の豆類を恋い慕うようになったほどであった。 実のところ、食事内容を変えたことで我々の隊員たちにこれほど急速かつ好ましい変化がもたらされたのを目にするのは、少なからず驚くべきことであった。シトカを出発した時点では極めて深刻な壊血病を患っていた者たちでさえ、サンフランシスコ港に到着して間もなく健康的な顔色を取り戻し始めた。そして二週間から三週間も経つ頃には、彼らの血色と体力は完全に回復しており、あの入植地を後にした際の、見るも無惨で青白く痩せ細った姿の彼らと、目の前の彼らが同一人物であるなどとは、誰にも想像がつかないほどであった。
ビタミンCの恒常的な欠乏は、体の健康にこれほど顕著に影響したのだ。歴史的にはしかし、ビタミンCが発見され壊血病の主要因子と特定されるのは、実にこの時から130年ほども後になる。

さてサンフランシスコでレザノフは基本的に歓待され、アルグエヨ〔Arguello〕司令官の邸宅を訪れ、アルグエヨ家の全員から温かいもてなしを受けていた。ここでレザノフは、アルグエヨ家の令嬢ドニャ・コンセプシオンとのロマンスが生じ婚約を結んだが、これ以上の進行は省略する。こんなごく親しい関係も影響したと思われるが、レザノフは紆余曲折の末に5千ドル分の小麦、大麦、豆類、小麦粉、塩、バター、タロイモなどの入手に成功した〔History of California, Vol.II , P.67-75, P.74 note-18〕
6月19日にサンフランシスコからノヴォ・アルハンゲリスクに帰り着いたレザノフは、あまり時を置かず次の計画である日本攻撃に出発するが、上記の「レザノフの日本攻撃指示」とそれ以下に書いたとおりである。

さて上述のごとく、1806年6月24日、レザノフとラングスドルフ博士たちの乗るジュノー号とアヴォス号は樺太島に向けてアラスカを出航したが、レザノフは途中のカムチャッカ半島のペトロパヴロフスクでラングスドルフ博士と別れ、オホーツクでジュノー号から下船し単独でサンクトペテルブルクに向かった。ラングスドルフの著書の「結言」の中に、レザノフの消息について以下の記述がある〔Voyages and Travels in Various Parts of the World, LANGSDORFF. Part II. P.143-144〕
ラングスドルフ博士は、1806年から1807年にかけての冬をカムチャツカで過ごした。この地に関する彼の記述については、ここではごく簡単に触れるにとどめることとする。1807年5月13日、彼とデウルフ船長はペトロパヴロフスクを出航してオホーツクへと向かい、6月15日に同港に入港した。博士は語っている。
「この地において、私たちは到着後、最初にして最も重大な知らせとして、レザノフ伯爵の死を知ることとなった。伯爵は3月、サンクトペテルブルクへの帰途にあったクラスノヤルスクで、その生涯を閉じていたのである。かくして彼は、今回の航海において自らが構想した数々の計画が実行に移される様を、生きながらにして目にすることは叶わなかった。彼の死因が落馬によるものであったことについては、すでに言及した通りである・・・。11月27日、私はエニセイ川沿いに位置するクラスノヤルスクに到着した。そこは、比較的整然とした造りの町であった。美しく肥沃な谷間に広がるこの町には、500軒の家屋と4つの教会が建ち並んでいる。私にとってこの町がとりわけ印象深い場所となったのは、前年の3月にレザノフ伯爵がその生涯を閉じた地であったからに他ならない。私はクラスノヤルスクで一泊し、翌朝、レザノフの墓を訪ねた。それは祭壇を模したような大きな石であったが、そこにはいかなる銘文も刻まれてはいなかった。」
この文中の「デウルフ船長」は、ジュノー号の元所有者かつ船長で、バラノフにジュノー号を売却後もノヴォ・アルハンゲリスクに留まっていたが、サンフランシスコから帰ったラングスドルフ博士と同道し、カムチャッカ半島のペトロパヴロフスクでも一緒に滞在し、ロシアの首都に向かったのだ。売却したジュノー号の金銭処理のためであろう。

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06/16/2026, (Original since 06/16/2026)